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国家の土台そのものは、まだ沈んでいない。
そこを見誤ると、全部の判断が狂う。城壁は立っている。王命は通る。徴税はできる。巡幸裁判も続いている。借用書は王室の箱に収まり、誰がいくら負っているのか、どの家がどの賠償に署名したのかも、紙の上では綺麗に残っている。国境は削られ、街道は食われ、商人は減り、各地に魔族が染みているのに、国家という骨だけはまだ折れていない。
だが、折れていないことは健全を意味しない。
むしろ、国家とは滅び始めてからが長い。不仲の夫婦が離婚するまでで一番長いのが、もう終わっているのに終わらない時間であるように、国もまた本当に壊れるまでが長い。日々の口は利く。食卓には着く。家計も一応は同じ箱で回る。だが、中身はとうに裂けていて、戻る理由ではなく、別れるきっかけだけが先延ばしにされる。国家も同じだ。もう駄目だと全員が薄々知ってから、本当に形を失うまでが一番長い。
その時間に入ると、国家は妙にしぶとい。
最低限の仕組みだけは守る。不要な人員は切り落とされる。余計な役職は消える。維持費ばかりかかる制度は潰れる。弱るのではなく、痩せる。豊かさを保ったまま耐えることはできないが、骨と臓物だけになっても呼吸だけは続ける。だから厄介だ。死んでくれれば楽になるものが、死なないまま軽くなっていく。
不況も、外から来るというより、内側から腐る。
もちろん侵略はある。魔族は各地に入り、物流と契約を噛み、町の外側から柔らかいところを食い続けている。だが、それだけではない。国民の側にも、衰えるだけの理由がある。近隣を征服し、安いものが入る。安価な穀物が流れ、安価な品が並ぶ。安く買えるものが増えるほど、自分たちで生産する理由が減る。生産性はゆっくり落ちる。落ちてもすぐには困らない。困らないまま習慣だけが変わる。高収入を目指す。汚れる仕事を避ける。余裕が出ると感情は強くなる。面倒を嫌い、苦味を避け、少しでも楽な方へ流れる。その怠惰は個人の堕落というより、構造的なものだ。勝って広げ、安価な供給を呑み込み、その結果、自分の手で物を作る筋肉から先に死ぬ。ローマが踏んだ轍も、大きな覇権国家が繰り返す失敗も、結局はそこに戻る。
だから、これから先で分解されるのは魔族だけではない。
多くの貴族は削られる。王族も例外ではない。家名だけでは食えない。家名だけでは兵も動かない。形だけの高位者は、税と賠償と防衛の重さに順に砕ける。国としての体裁も、いずれは薄れる。旗が残っていても、旗の下に立つ意味が消える。国が壊れるとは、城が崩れることではない。国だと思っていたものが、ただの生存のための集団に落ちることだ。
そうなれば、逆に戦争は終わらない。
勝つ必要がなくなるからだ。
勝たねばならぬ戦争には終点がある。首都を取る、王を討つ、講和を結ぶ、線を引く。だが負けなければいい、という段階に入った瞬間、終点は消える。昨日より一つ多く残ればいい。今日を越えればいい。来月まで持てばいい。その程度の目標に変わると、戦争は生活になる。生活は儀式より長い。だから終わらない。勝利を目指す戦争より、敗北を拒否する戦争の方がずっと長い。
それでも、借金だけはうやむやにできない。
そこがまた、笑えないほど現実的だった。
この国の裁判は巡幸裁判だ。王都が定まらず、王室そのものが動く。だから借用書や誓約書は、領主の蔵ではなく王室の箱に入る。どこへ逃げようが、どこで屋敷が焼けようが、紙の原本は王と一緒に動く。踏み倒しは難しい。難しいというより、踏み倒した瞬間に個人へ刃が向く。罰金では終わらない。賠償の証文を無視した家は、家として処理される。最悪、令嬢の首が切られる。そういう秩序で回っている。国家が滅びかけているからこそ、残った最低限の暴力はそういうところに集中する。
だから、私は逃げられない。
魔王を殺すには程遠い。借金を捨てて身一つになればいいなどという段階は、とうに過ぎている。捨てれば私だけで済まない。私に紐づいた首が飛ぶ。そう分かっている以上、踏み倒しは選択肢に入らない。
だが、払っているだけでは何も終わらない。
あの魔王を殺すには、まだ足りない。遠いどころではない。単純な強さの問題ではないからだ。強い敵なら、強い武器を持てばいい。硬い敵なら、硬いものを割る刃を持てばいい。だが、あれはそういう一つの形に収まらない。
魔王は種族不明だ。
竜でもない。妖精でもない。巨人でもない。アンデッドでもない。あるいは、その全部かもしれない。実験動物だったせいで、もう分類が効かない。だから一つの特攻で済まない。竜殺しがあれば足りる、という話ではない。妖精に効く術だけ積めばいい、という話でもない。弱点が一つに収束しない以上、こちらは全種族を殺すための武器を揃えるしかない。
メリュジーヌ。ゴリアテ。サラマンダー。名前を挙げればきりがない。ほぼ全ての幻想種、それぞれに刺さるものが要る。しかもそれは「倒す武器」ではない。「通す武器」だ。防御を下げ、神秘を剥がし、不死性を裂き、ようやくこちらの刃が届く。攻撃を弱めるのはまた別の要求になる。
必要なのは、不死を支えるアンデッド系への七本だ。再生と持続を断ち切るための七つ。それに加えて、竜、妖精、巨人を含む神秘五種のうち、少なくとも三つを殺せるものが要る。二本ほど欠けても、誤魔化せる局面はあるかもしれない。だが誤魔化しは誤魔化しでしかない。本気で殺すなら足りない。十本近い異種特攻を揃えて、ようやく挑戦権が生まれる。その上で、防御を下げるための武器と、攻撃そのものを通す手段は別に要求される。
馬鹿げている。
馬鹿げているのに、相手はそれだけの備えを要求する価値がある。あの魔王は単体で世界をちまちま滅ぼせるくせに、遊び程度で手を抜く。本気を出していないのに、こちらは返り討ちに遭う。こちらが全力で準備して、ようやく相手が少し真面目になるかどうか、その程度だ。
では諦めるしかないのか。
たぶん、そうだ。
あるいは、覚悟を示すしかない。
死んででも打ち砕く。殺せずとも、ここまで来られると示す。次の世代へ、お前も死ぬのだと刻む。そういう戦い方はある。あるが、私には無理だろうよ。
そこで、涙が落ちた。
一滴だけではない。気づいた時には数滴、紙の上へ落ちていた。滲んだ字を見て、余計に気分が悪くなる。悲しいのではない。不快だった。泣いている自分が不快だ。諦めが口に合うほど生きた覚えはないのに、現実を数えれば数えるほど、諦めの方が理に適っている。その理屈に体が引っ張られて、勝手に水を流している。それが腹立たしかった。
椅子を引いた。
立つ。
膝は震えていない。泣いても壊れない程度には、まだ身体が残っている。
机の上には、異世界ごとの比較を書き散らした紙がある。地形。湿気。収穫量。鉱物の偏り。魔族の浸透速度。神秘種の分布。物流の喉。どこが脆いか。どこなら切れるか。どの種にどの武器が要るか。後の世代が読めば、せめて私より早く絶望できるくらいのものにはなるだろう。
それだけだ。
異世界を比較し、脆弱性を指摘し、戦略を残す。魔王を殺せる見込みは薄い。借金は消えない。国家は長く不仲のまま延命し、勝てない戦争は負けないために続く。それでも、記録は残る。記録だけなら、まだ私にもできる。
涙を考えるだけ不快だった。
だからもう考えない。
紙を重ねる。滲んだところを避け、乾いた部分へ新しい線を引く。七本。三つ。いや、十を前提にする。誤魔化しは捨てる。必要な武器の系統を書き出し、対処の順を置き、どの世界で何が不足し、何を代替に使えるかを残す。殺せないなら、せめて次の誰かが無駄死にしないようにする。それだけでも、何も残さず泣いているよりはましだ。
私は歩き出した。
先に進むとは、希望を持つことではない。希望が薄氷でしかないと知った上で、その氷へ乗ることだ。割れるかもしれない。いや、たぶん割れる。それでも立たなければ、氷の薄さすら測れない。
だから立つ。歩く。先へ行く。
それしか残っていなかった。




