【過去編】第30話「救われたもの、消える場所」
夜明け前、村の空気は、ひどく薄かった。
息を吸っても、胸に空気が満ちていかないような、妙な感覚。
昨夜倒れた女は、集会所の一角で横になっていた。
額の傷は縫われ、熱も下がり、呼吸は、ようやく落ち着いている。
「……助かるな」
老人の声は低いが、確かな響きがあった。
その言葉に、周囲にいた者たちの表情が、わずかに緩む。
救えた命がある。
それだけで、この数日続いた張りつめた空気が、ほんの一瞬、ほどけた。
ノアは、女の寝顔を見つめながら、胸の奥に、じんわりとした温もりを感じていた。
(……よかった)
誰か一人でも、“間に合った”ことが、この世界がまだ終わっていない証のように思えた。
だが、村の外では、別の“終わり”が静かに進んでいた。
朝の見張りが戻り、声を震わせて言った。
「……外の景色が、昨日と、ずれている」
誰も、その意味をすぐには理解できなかった。
村の外れまで行くと、確かに、景色が“遠い”。
森の輪郭が、わずかに引き延ばされたように見える。
歩いても、昨日より、境界が遠い。
「……距離が、伸びてる?」
「……いや……世界が、薄くなってる」
誰かの言葉に、老人が小さく息を吸った。
「……境界が、ほどけ始めている」
ノアは、その言葉を聞いて、胸がざわついた。
「……どういうこと?」
老人は、しばらく黙っていた。
やがて、低く言う。
「……この世界は、“変わらなくなった場所”から、切り離されていく」
ノアは、その意味をまだ掴めない。
だが、老人の声に、“知っている者”の重みがあることだけは、分かった。
昼。
空の色が、妙に均一だった。
青いはずの空が、一枚の膜を張ったように、のっぺりしている。
雲はあるのに、流れない。
風は吹いているのに、木々は揺れない。
世界が、“動くふり”をしているだけに見えた。
ノアは、胸の奥が締めつけられるのを感じる。
(……息をしてないみたいだ)
夕方。
遠くで、低い音が鳴った。
雷のようで、地鳴りのようで、どちらでもない音。
その音を合図にしたかのように、村の輪郭が、ゆっくりと歪み始める。
家の壁が、水面越しの景色のように揺れる。
「……何だ、これ……」
人々が、ざわめく。
老人は、ノアの肩を強く掴んだ。
「……ノア、目を逸らせ」
「……え?」
「……いいから、“見続けるな”」
その声は、どこか必死だった。
ノアは、老人の言葉に従い、一瞬、視線を落とす。
だが――
視界の端で、村の一角が、ふっと“薄くなる”のが見えた。
音が、消えた。
世界から、“音”という概念が抜け落ちたかのような、完全な無音。
次の瞬間、村は、ゆっくりと“ほどけていった”。
家が、
道が、
畑が、
人々の姿が――
すべてが、霧が晴れるように、何もなかった場所へと戻っていく。
燃えることもなく、
崩れることもなく。
“最初から存在しなかった”かのように。
ノアは、声を出そうとして、出せなかった。
視界が、白に染まる。
足場が消え、身体が宙に放り出される感覚。
その直前、老人の声が、確かに聞こえた。
「……すまん、ノア」
その言葉は、
後悔と、諦めと、
それでも消えきらない“願い”が混ざった声だった。




