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【過去編】第29話「誰かが壊れる音」

 その朝、村は張りつめていた。


 空は相変わらず晴れている。

 雲はなく、風も弱い。


 だが、人々の顔には、晴れた空とは正反対の影が落ちていた。

 

 井戸の前では、水を汲む順番を巡って、昨日よりも強い言い争いが起きている。


「並べと言っただろう!」


「昨日は順番を譲った!今日は、こっちが先だ!」


 怒鳴り声が、朝の静けさを破る。


 ノアは、遠くからその様子を見ていた。


(……止めた方がいい)


 そう思いながらも、足が前に出ない。


 誰かの正しさと、誰かの必死さがぶつかる場面に、どう介入すればいいのか分からなかった。

 

 昼前。


 避難民の一人、細身の男が、村の倉庫の前で、再び揉め事を起こした。


「……もう一度だけだ。少しでいい」


「駄目だと言っている」


 見張り役の若者が、男の肩を掴む。


「……また盗むつもりか」


「違う。ただ……家族に、分けるだけだ」


 その言葉に、周囲の空気が一瞬、揺れた。


 “家族”という言葉は、誰にとっても重い。


 だが、若者は首を振った。


「……規則だ」


 規則。

 正しい言葉だ。


 だが、その“正しさ”は、誰かの生存を切り捨てる正しさでもある。

 

 その瞬間だった。


 別の村人が、男を強く突き飛ばした。


 男は、地面に倒れ、乾いた音が響く。


「……出ていけ」


 誰かが叫んだ。


「……ここは、お前たちの村じゃない」


 その言葉に、避難民の女が、悲鳴を上げる。


「……お願い、やめて」


 止めに入ろうとした彼女を、別の男が、乱暴に押しのけた。


 転んだ拍子に、彼女は地面に頭を打ちつける。


 鈍い音。


 一瞬、場が静まり返った。


「……血が」


 誰かの声が、かすれる。

 女の額から、赤い血が流れていた。

 

 ノアは、はっとして駆け寄る。


「……だいじょうぶ?」


 だが、女は、目を閉じたまま、小さく呻くだけで、返事がない。


「……誰か、医者を」


 声は、震えていた。


 人々は、互いの顔を見合わせる。


 誰も、すぐには動けない。


 恐怖と、後悔と、


 “自分のせいかもしれない”という思いが、


 その場を縛りつける。

 

 やがて、老人が現れた。


 人垣を割って、静かに女の側に膝をつく。


「……呼吸はある」


 額の傷を押さえながら、低く呟く。


「……だが、このままでは、危ない」


 数人の村人が、ようやく動き出し、女を運ぶ。


 その背中を見送りながら、誰かが、小さく呟いた。


「……こんなつもりじゃなかった」


 だが、“つもりじゃなかった”という言葉は、起きてしまった現実を、何も変えない。

 

 夕方。


 倉庫の前には、誰も近づかなくなっていた。


 朝の騒ぎが嘘のように、空気だけが、重く沈んでいる。


 ノアは、一人でその場所に立ち、乾いた地面を見つめていた。


(……誰かが、壊れた)


 殴った人も、倒れた人も、止められなかった自分も。

 全員が、少しずつ壊れている。

 

 夜。


 家に戻ると、老人は、火を落とした暖炉の前に座っていた。


「……じいちゃん」


 ノアの声に、老人は、ゆっくりと顔を上げる。


「……人は、追い詰められると、正しさで人を傷つける」


「……正しさ、なの?」


「ああ。生きるための正しさだ」


 老人の視線は、どこか遠い。


「……だが、それが積み重なると、世界は“変わらない恐怖”に支配される」


 ノアは、その意味を完全には理解できなかった。

 ただ、今日見た血の色だけが、頭から離れなかった。

 

 その夜、ノアは眠れなかった。


 目を閉じると、倒れた女の姿が浮かぶ。


(……ここも、消えるのかな)


 その考えが、胸の奥で、静かに広がっていく。

 

 世界が壊れる前に、

 人の心が壊れた。


 その音は、

 確かに、ノアの耳に残っていた。

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