【過去編】第28話「ひび割れる心」
村の空気は、目に見えない形で変わっていた。
隣村が消えたという報せが届いてから、人々の視線は、互いを量るようなものに変わった。
井戸の前では、水を汲む順番を巡って、小さな言い争いが起きる。
「あんたのところ、昨日も多く汲んだだろ」
「……子どもがいるんだ。仕方ないだろ」
些細なことだった。
だが、“些細”で済ませられなくなっている。
ノアは、そのやり取りを遠くから見つめていた。
(……みんな、怖いんだ)
怖いから、余裕がなくなる。
余裕がなくなると、誰かのせいにしたくなる。
避難民の一人が、倉庫の前で立ち止められていた。
「……お前たち、どれだけ食糧を持っているんだ」
村の若者が、強い口調で問い詰める。
「……持ってきたものは、もうほとんどない」
「……つまり、俺たちの分を食うってことだな」
言葉が、刃のように鋭くなる。
避難民は、何も言い返せない。
ただ、俯くだけだ。
「……やめろ」
ノアが、思わず声を出した。
若者は、ノアを見て、鼻で笑う。
「……お前には分からないだろ。ここが消えたら、どこにも行く場所がないってことが」
その言葉は、ノアの胸に深く突き刺さった。
“行く場所がない”。
それは、この世界が縮んでいる証でもあった。
夕方。
村の広場で、集会が開かれた。
「……水と食糧の配分を、見直す必要がある」
村の長が、静かに言う。
「……避難民も受け入れた以上、全員が同じだけの配給では、足りなくなる」
誰かが、声を荒げた。
「……つまり、誰かが減らされるってことか」
「……避難民から減らすべきだろ」
「……いや、もともとこの村にいた者を優先すべきだ」
意見は割れ、声は次第に大きくなる。
ノアは、その場に立ち尽くしていた。
誰も、間違ったことは言っていない。
だが、どの言葉も、誰かを切り捨てる前提で語られている。
夜。
村の外れで、小さな騒ぎが起きた。
避難民の一人が、倉庫からパンを持ち出そうとして捕まったのだ。
「……盗みだ」
「……返せ」
怒号が飛ぶ。
避難民の男は、震えながら、パンを抱きしめていた。
「……子どもが、腹を空かせている」
その一言で、場の空気が、さらに張りつめる。
「……だからといって、盗んでいい理由にはならない」
誰かが言う。
ノアは、その光景を見つめながら、喉の奥がひりつくのを感じていた。
“正しさ”が、人を追い詰めていく。
家に戻ると、老人は、暗い顔で窓の外を見ていた。
「……じいちゃん」
声をかけると、老人は、ゆっくりと振り返る。
「……このままでは、人の心が先に壊れる」
「……世界が壊れる前に?」
「ああ」
老人の声は、低く、重い。
「……世界は、変わらないものを消していく。だが……人は、変わる余地があるはずだった」
ノアは、その言葉を噛みしめる。
変わる余地。
それが、今、目の前で失われつつあるように見えた。
夜更け。
ノアは、外に出て、村の灯りを見つめた。
一つひとつの灯りの中に、
恐怖と、不安と、
それでも消えきらない“生きたい”という思いがある。
(……消えないでほしい)
願いは、あまりにも無力だった。
この夜、村はまだ残っている。
だが、“村としての心”は、
確実に、ひび割れ始めていた。




