第11話「橋をかける者」
朝霧が、共存村を薄く覆っていた。
夜の脱走騒ぎの余韻は、まだ空気に残っている。
人族の居住区では、誰もが伏し目がちで、
魔族の側も、必要以上に距離を取っていた。
その中で、ひとりの人族の少女が、畑の前で立ち尽くしていた。
水路が、途中で詰まっている。
昨夜の騒ぎの中で、誰かが蹴飛ばしたのだろう。
このままでは、作物は枯れる。
「……どうしよう」
声は小さく、誰にも届かない。
そこへ、角の短い魔族の若者が近づいた。
先日、水路を直そうとして、怒鳴られた魔族だ。
彼は、少女の視線の先を見て、すぐに状況を理解した。
「……直す」
短く言い、しゃがみ込む。
少女は、思わず一歩後ずさった。
怖い。
それでも、
このまま放っておけば、畑はだめになる。
迷った末に、少女は、震える声で言った。
「……ありがとう」
魔族の若者は、一瞬だけ目を見開き、
それから、黙って作業を続けた。
やがて、水は再び流れ始める。
畑に、命の音が戻る。
少女は、恐る恐る近づいた。
「……その、手……」
魔族の若者の指から、血がにじんでいた。
石に触れた際に、切ったのだろう。
少女は、少し考え、
自分の持っていた布切れを差し出した。
「……これ、使って」
魔族の若者は、すぐには受け取らなかった。
“近づくと、人族が暴走する”。
それを、彼は知っている。
だが、少女の目には、恐怖よりも戸惑いの方が強い。
しばらくの逡巡の後、
彼は、ゆっくりと布を受け取った。
「……すまない」
短い言葉。
それだけで、十分だった。
その様子を、周囲の人族と魔族が遠巻きに見ていた。
誰も声をかけない。
だが、誰も石を投げない。
小さな沈黙が、
小さな“許容”へと変わる。
少し離れた場所で、ノアはその光景を見ていた。
(……橋は、こうして架かるのかもしれないな)
命令でも、計画でもない。
ただの、個人同士のやり取り。
それでも、
この村に必要なのは、こういう一歩なのだと、
ノアは改めて思う。
その背後で、
風が、木々を揺らした。
誰にも見えない影が、
一瞬だけ、そこに重なった気がした。
――焦るな。
そんな声が聞こえたような気がして、
ノアは振り返る。
だが、そこには朝霧しかなかった。
それでも。
共存村に、
ほんのわずかだが、“橋”が架かった。
誰かが壊せば、
また壊れるかもしれない。
それでも、
最初の一本目は、確かに、そこにあった。




