第10話 関わらんぞ
会計を済ませる。カツラが思った以上に高値で少しばかり足りなかったけれど、ブレンダンが常連だからツケておく、と許してくれた。
「特別ですよ」
と、能面みたいな顔で笑われても怖いだけである。
はは、と笑い声だけ出しておく。
そしてローレンは心に決めていた。
(絶対に関わらん。ぜーーーーったい。関わらんぞ)
よくよく考えれば火木土日をブレンダンに協力し、さらにベンにも月水金で協力するとなると週7日すべてを人のために使おうとしているじゃないか。
なんで?
自分は人嫌いで、お気楽なひとりを好む、自由な生き方を望んでいるはずではないか。なのになんで毎日を人のために生きなくてはいけないのだ。希望と逆行しすぎている。
そこへ、白の糸で繋がる男が新たに現れるだと?
これ以上、自分の時間を削る余地はない。
ないぞ。
知らんぞ。
本当に知らん。
「ありがとうございました。これからもご贔屓にしてくださると助かります。ブレンダン隊長にもお伝えくださると嬉しいです」
「はい、伝えておきます」
膨らんだ紙袋をふたつ受け取ろうとしたとき──
どたん、がたん!
と2階から物凄い音がした。
「キース……おぉーい……」
そして、か細い声。高齢の男性の声だ。
キースとは、どうやら白髪のこの彼の名のようだった。キースは崩れない笑顔のまま、まだ紙袋を差し出している。
「これは大変失礼しました。どうやらお父さんがベッドから落ちたか、お父さんがベッドから降りようとするのをお母さんが助けようとしてふたりして転んだか、あるいはお手洗いに間に合わずにどちらかが転んだか、どれかですかねぇ」
(関わらん)
「キース、ごめんねぇ、ふたりで転んじゃったよぉ」
今度は女性の声。
やや沈黙があってから、
「キース」
ふたりの重なった声。
低くて、逃れられない重量を孕んだその声は、まるで夜中の学校のトイレの暗闇から呻く花子の幽霊のように嫌な余韻を残した。
そう聞こえてしまうのは、自分も父と弟を助けていた過去があるからか。
時折、鬱陶しく聞こえてしまう自分を呼ぶ声。
早く死んでくれないかと望んでしまう、悪魔に蝕まれる自分の良心。
(関わらん。関わらんぞ。他人など知らない)
「今、行きますよ」
天井に向かって言うキースの声はやはり抑揚がなくて、冷たく聞こえる。
関わらん。
知らないからな。
「キースぅ、助けてぇ」
ローレンは盛大に嘆息ついた。
ほとほと、自分が嫌になった。
この糸か?
この糸のせいなのか?
腹立たしく思いながら、舌打ちする。
図々しいながら、申し出た。
「……手伝いますよ。お母さんを起こしますから、お父さんを助けてあげてください」
ぴくり、とキースの瞼が動いた。
これが、初めてキースが人間らしい反応をしたといえる。
「いえいえ、お客様にそんなことはさせられませんよ。お気になさらず」
「ふたりでやったほうが早いです。それに、転んだままでいると、案外、自分を情けなく感じる人も多いんですよ。早く起こしてあげましょう」
無理矢理に2階に上がると、4つのドアがあった。声がするドアを開けると、ひとつの部屋に小さなベッドがふたつ並べて置かれていて、その間に父母が折り重なるようにして倒れていた。
母親の肩に手を置き、呼び掛ける。
「失礼します。起こしますよ」
母親は小首を傾げた。人の好さそうな愛嬌のある顔だ。
「あらあら、あなたはどちら様? まさか、お客様じゃないのでしょ? お友達?」
と、母親。
ローレンは適当に誤魔化すことにした。母親の脇の下、細い体に腕を回し、よっこいせ、と抱き起こす。彼女が痩せていて助かった。大柄な人であれば、ローレンひとりでは起こせなかっただろう。
「まあ、そんなものです」
ちらりと見ると、キースの慣れた手付きで父親の体もベッドの上に移動が終わっていた。ふたりはどちらかというと下半身が弱っているように見えた。だから本来であれば車椅子が必要なのだろうけれど、この世界にはまだ発明されていないのか。それとも高価で買えないのか。
母親のほうは少し驚いたように父親を呼んだ。父親はまだぼーっとしていて受け答えがない。
「あら、あなた。キースのお友達ですって。よかった。この子ったら、友達を作るのが苦手なうえに毎日お店を手伝ってくれるから心配で心配で。小学校でうまくやっているのか、考えていたところなの。学校は楽しい?」
小学校。
どう見ても、彼はそんな年齢ではないのだが。
記憶が混乱しているのかもしれない。高齢だからか、病か。わからないけれど、こういうときは話を合わせておいたほうがいいと聞いたことがある。
「学校、楽しいですよ」
嘘だ。
楽しかったことなんて一度もない。
「よかった。キースはスポーツも得意なの。かくれんぼなんて見つけられなくてねえ。素早いし身軽だし。きっと運動で活躍してるんじゃなあい? この子ったら、学校のことはなにも教えてくれないんだもの」
「お母さん──」
「ね、どうなの? キースはかけっこで1番?」
キースが話を遮ろうとしたけれど、母親は止まらなかった。他人の来訪が少し刺激になったのかもしれない。こういう会話はきっと悪いほうへは転ばないだろう。
父が手洗いを所望したので、キースが付き添っていく。キースが振り返ってきたが、気にするなと首を振った。ローレンはキースが戻ってくるまで母親の記憶に寄り添うことにした。
ベッドに座る母親の傍で膝を付き、目を見て話す。
彼女は、慈愛に満ちた目だった。
目尻にいくつも皺があるのは、彼女がいつも笑っていた証拠。薄くなった頭に乗る手作りの毛糸の帽子は、おそらくキースが被せてやったもの。羽織る毛糸のベストも、きっと。
彼女は愛に満ちていた。自分の愛も、自分への愛も。
「キースは1番ですよ、いつも」
言うと、母親は恋をする少女のように手をパンと鳴らして喜び、頬を赤らめてキャッキャッと笑った。
「運動会が楽しみだわ。ほら、秋だからもうすぐでしょ。あ! あなた、名前はなんていうの? とても綺麗な瞳ね、月の色みたい」
頭を撫でられる。細い腕に骨が浮いているのが見えて、目を逸らした。見たくなかった。
「ローレンです」
「そう。ローレンくんね、名前を覚えたわ。またいつでも遊びに来てちょうだい。あのね、今朝作ったスイートポテトが確かまだ残っていたから、キースと食べてくれる? 大きいほうがうまくできたの。大きいほうよ、ぜひ食べてみて」
「わかりました」
そこへキース達が戻ってきた。顔をそちらに向けると、キースは相変わらずの表情だが目顔で『もう充分だ』と言われた気がした。
「お母さんはトイレに行きます?」
母親に意識を戻して聞くと、母親は小首を傾げて問うてきた。
「あらあら、あなたはどちら様? まさか、お客様じゃないのでしょ? お友達?」
これは、辛いだろうな。
ローレンは勝手に、キースに同情した。
また初めの記憶からやり直す。
毎日毎時間をひとりで接していたら、笑顔を崩せなくなるのもわかる気がした。笑顔を崩してしまえば、どす黒い自分に染まってしまいそうだった。そして、2度と白には戻れない。
だから、ずっと白いままでいる。
怒らないように、悲しまないように、苛立たないように、笑う。
怒る自分も悲しむ自分も苛立つ自分も、嫌になるから。
ローレンは再び名乗った。キースが、ローレンの肩に手を乗せてきた。もう、充分だ、と。その力に引かれるように立ち上がる。
「キースの友達のローレンです」
「まあ、友達? この子ったら友達を作るのが苦手だから、心配してたの。あのね、ほら、あのね、昨日、スイートポテトを作ったの。大きいほうがうまくできたから、ふたりで食べてきたら? 大きいほうよ」
ローレンは小さく頷いた。後退りするようにドアへ向かう。
「わかりました。大きいほうですね」
「ええ。よく焼けたの。大きいほう」
大きいほう。大きいほうよ。
何度も繰り返す母の声に押されて、自分の役目はここまでだと察した。部屋を出ると、キースが付いてくる。1列になって階段を下りた。
「申し訳ありませんが、スイートポテトはないです。母が料理出来たのは10年も前のことなので」
「はい。気にしてないです」
店のほうへ戻ってきて、カウンターに置かれたままだった紙袋を持ち上げる。なかなかの重量だった。買いすぎたか。
「ありがとうございました」
それは購入への礼か、出しゃばったことへの社交辞令か。
ローレンはわからなかったけれど、なんとなく、笑うキースの顔が薄暗い気がして見ていられなかった。
(関わらない。人なんて、誰かをうまく利用することしか考えていない。関わらないほうがいい。ましてや、収入の得られないことなど)
ローレンはなんて言ったらいいかわからず、しばしキースと無言で対峙した。
「さよなら」
ローレンは会釈をして言ったが、小指の糸はなぜか切れなかった。関わらんとしているのに、なぜか。
踵を返して店を出る。
「さよなら」
背中に掛けられる別れの声がなんだか痛くて、もう振り向くことは出来なかった。




