第1話 サービス終了の、その先で
書き直し消去予定
世界が終わるまで、あと三分。
画面の右上に表示された数字が、無慈悲に減っていく。
23:57:12。
23:57:11。
23:57:10。
玉座の間には、五十人を超える臣下が並んでいた。
白銀の鎧を身につけた近衛騎士。
深緑の長衣をまとった文官。
頭に角を生やした魔族の将軍。
小柄な獣人の侍女。
壁際には、俺が何年もかけて集めた装備や、国を守り抜いた証である旗が並んでいる。
オンライン国家運営RPG。
十五年前に始まり、今夜、サービスを終了するゲームだ。
俺はその中にある小国、アステリアの領主だった。
領主といっても、最初から立派な国を与えられていたわけじゃない。
初めは住民が二十人しかいない、崩れかけた砦だった。
畑を作り、道を引き、魔物を追い払い、隣国と交渉し、時には敵対プレイヤーから領地を守った。
気づけば住民は十万人を超え、砦は城になり、小国は大陸でも名の知られた国になっていた。
全盛期には仲間もいた。
毎晩のように集まり、馬鹿な作戦を立てては失敗して、それでも笑っていた。
けれど、一人減り、二人減り、最後に残ったのは俺だけだった。
過疎化したサーバーで、俺は何年も国を維持し続けた。
理由を聞かれても、うまく説明できない。
ただ、放っておけなかった。
画面の中で待っている彼らを見捨てるのが、どうしても嫌だった。
「陛下」
玉座の前に立つ銀髪の女騎士が、静かに俺を呼んだ。
リゼル・アルフェリア。
アステリア近衛騎士団長にして、俺が最初に仲間へ加えたNPCだ。
十五年前、崩れた砦の前で魔物に囲まれていた彼女を助けた。
まだ装備も満足に揃っていなかった俺は、何度も死にかけながら戦った。
あの頃のリゼルは、名もない見習い騎士だった。
それが今では、国で最も強い騎士になっている。
リゼルは玉座の前で片膝をついた。
「最後に、ご命令を」
サービス終了に合わせて追加された特別イベントなのだろう。
普段よりも、声がわずかに震えているように聞こえた。
よくできた演出だ。
そう思おうとした。
けれど、並んでいる臣下たちの顔を見ていると、胸の奥が妙に苦しくなった。
宰相セレフィナは、いつものように背筋を伸ばしている。
魔導技師のノアは、俯いたまま拳を握っていた。
獣人侍女のミーナは、何度も目元を拭っている。
ただのプログラムだ。
決められた条件に従って、用意された動作をしているだけ。
そんなことは分かっている。
それでも、十五年という時間は長すぎた。
俺にとって彼らは、ただのデータではなくなっていた。
23:58:41。
残り一分十九秒。
俺は玉座から立ち上がった。
「今まで、よく国を守ってくれた」
声が少し掠れた。
「俺がここまで続けられたのは、お前たちがいたからだ」
臣下たちは誰一人動かなかった。
全員が、俺の次の言葉を待っている。
23:59:02。
最後の命令。
何を言うべきか、ずっと考えていた。
国を守れ。
民を導け。
アステリアを永遠に残せ。
領主らしい言葉はいくらでも思いつく。
けれど、最後まで命令で縛るのは違う気がした。
俺は玉座の階段を下り、リゼルの前に立った。
「これが、俺からの最後の命令だ」
リゼルが姿勢を正す。
臣下たちが一斉に頭を下げた。
「もう、俺の命令を待たなくていい。これからは、自分たちのために生きろ」
玉座の間が静まり返った。
リゼルが顔を上げる。
信じられないものを聞いたような顔だった。
「争わなくてもいい。国を大きくしなくてもいい。アステリアという名前を残す必要だってない。ここにいる全員で話し合って、好きに決めてくれ」
23:59:38。
リゼルの唇が震えた。
それでも彼女は、何年かかろうとも俺を待つと言った。
待たなくていいと伝えても、その意志は変わらなかった。
「何百年かかろうとも、必ずあなた様を――」
23:59:51。
そこで音声が途切れた。
画面中央に、白い文字が表示される。
《サービス終了まで、十秒》
十。
九。
八。
俺はリゼルへ手を伸ばした。
もちろん、画面の中には届かない。
七。
六。
五。
リゼルも、こちらへ手を伸ばしていた。
四。
三。
二。
一。
《長い間、エルグランド・サーガをご愛顧いただき、誠にありがとうございました》
画面が暗くなった。
何度ログインし直しても、接続できなかった。
アステリアも。
リゼルも。
十五年かけて作ったすべてが、その夜、消えた。
それから七年が経った。
◇
午前一時十三分。
俺はコンビニの弁当を電子レンジへ放り込み、ネクタイを緩めた。
名前は如月蓮。
三十二歳、独身。
恋人はいない。
両親は健在だが、実家は新幹線で三時間ほどかかる場所にある。
会社から徒歩十五分のこの部屋で、気づけば五年も一人暮らしを続けていた。
今夜、帰宅が遅くなったのは残業のせいではない。
仕事帰りに会社の後輩へ捕まり、居酒屋で愚痴を聞いていただけだ。
昔から、なぜか人の相談を受けることが多い。
断るのが苦手な性格だと、自分でも分かっている。
「明日も仕事なんだけどな」
誰もいない部屋で呟く。
返事はない。
当然だ。
電子レンジの中で弁当が回る。
ぼんやり眺めていると、棚の端に置かれた小さな箱が目に入った。
サービス終了記念として運営から送られてきた、金属製の指輪。
アステリアの国章が刻まれている。
七年前に届いてから、一度も指にはめていない。
捨てることもできず、引っ越しのたびに持ってきた。
「……懐かしいな」
昔は、毎日のようにログインしていた。
仕事で疲れていても、国の様子を見るためにパソコンを起動した。
作物の収穫量を確認して、予算を組み、装備を作り、兵士を配置する。
ゲームなのに、現実の仕事より真面目に働いていた気がする。
電子レンジが音を立てた。
その直後。
部屋のインターホンが鳴った。
「……誰だよ、こんな時間に」
午前一時を過ぎている。
宅配便が来る時間ではない。
会社の後輩が忘れ物でも届けに来たのかと思ったが、住所を教えた覚えはなかった。
もう一度、インターホンが鳴る。
壁のモニターを確認した。
映像には誰も映っていない。
故障かと思った瞬間、画面の端を銀色の何かが横切った。
少し迷ってから、玄関へ向かう。
チェーンをかけたまま、扉をわずかに開いた。
「どちら様ですか」
返事はなかった。
代わりに、金属が擦れるような音が聞こえた。
扉の隙間から外を確認する。
最初に見えたのは、銀色の髪だった。
腰まで伸びた銀髪が、廊下の照明を反射している。
女性が一人、玄関の前で膝をついていた。
年齢は二十歳前後に見える。
白銀の鎧を身につけ、腰には長剣を下げている。
撮影用の衣装にしては作りが細かすぎた。
鎧の表面には無数の傷があり、一部には黒く焼け焦げた跡まで残っている。
「何かの撮影ですか」
女性は答えない。
深く俯いたまま、肩を震わせている。
具合が悪いなら救急車を呼ぶ。
そう声をかけようとしたところで、女性が小さく息を漏らした。
「お声が……」
俺の手が止まる。
「ようやく、お声を聞くことができました」
聞き覚えのある声だった。
いや、そんなはずはない。
七年前に失われたはずの声だ。
女性が顔を上げる。
青みがかった銀色の瞳。
凛々しい眉。
左の頬には、髪で隠れるほど小さな傷がある。
その傷は、俺がまだ駆け出しだった頃、彼女を魔物から守り切れなかったことで付いたものだ。
「リゼル……?」
女性の瞳から、涙が溢れた。
彼女は胸へ右手を当てる。
ゲームの中で何千回も見た、アステリア騎士の礼だった。
「アステリア近衛騎士団長、リゼル・アルフェリア。我が主、レグナ陛下をお迎えに参りました」
何も言えなかった。
目の前にいる女性は、どこから見てもリゼルだった。
顔も、声も、立ち振る舞いも同じ。
けれど、そんなことがあるはずはない。
リゼルはゲームのキャラクターだ。
サーバーと一緒に消えたデータにすぎない。
「誰に頼まれた。俺のことを、どこで調べた」
リゼルは涙を拭わないまま、ゆっくり首を横へ振った。
誰かに頼まれたわけでも、俺のことを調べたわけでもないらしい。
彼女は俺の傍らで百四十七年を過ごし、俺が姿を消したあとも百五十三年、帰還を待ち続けたのだという。
「合計、三百年……?」
理解できない数字だった。
俺は扉を閉めかけた。
怖くなったわけではない。
ただ、頭が追いつかなかった。
「待ってくれ。ゲームは七年前に終わったんだ。リゼルが実在するはずがない」
だが、彼女はゲームという言葉の意味さえ理解していなかった。
彼女たちの世界は、俺が姿を消したあとも存在し続けた。
季節は巡り、子供たちは育ち、老いた者は死んだ。
国境では争いが起こり、疫病も飢饉もあった。
それでも彼らは、俺が最後に残した命令を守り続けたという。
もう命令を待たなくていい。
自分たちのために生きろ。
七年前、サービス終了の瞬間に告げた言葉。
運営以外に知る者はいない。
動画にも残していない。
「アステリアは、残っているのか」
リゼルは迷うことなく頷いた。
「俺は、残さなくてもいいと言ったはずだ」
「存じております」
では、なぜ。
そう尋ねると、リゼルはほんの少しだけ笑った。
「我々が、残したいと願ったからです」
俺が知っている彼女は、滅多に笑わなかった。
感情表現の少ない、冷静な騎士として設定されていた。
だが、今目の前にいるリゼルの笑顔には、NPCの決められた表情ではない、三百年分の感情が宿っていた。
彼女が腰の小袋へ手を入れる。
一瞬身構えたが、取り出されたものを見て言葉を失った。
古びた金属製の指輪。
表面には、アステリアの国章が刻まれている。
俺の部屋に置いてある記念品と同じ形だった。
ただし、リゼルが持つ指輪には、国章の下に小さな傷がある。
「これを、覚えておられますか」
忘れるはずがない。
ゲームを始めて三日目。
仲間になったばかりのリゼルへ、俺が初めて渡した装備だ。
《主従の銀環》。
能力値は低い。
特別な効果もない。
序盤の依頼で手に入る、ありふれた指輪。
強い装備を手に入れたあとも、なぜかリゼルはそれを外さなかった。
「まだ持っていたのか」
「陛下より初めて賜った品です。三百年間、一日たりとも手放したことはございません」
リゼルは指輪を胸元へ抱いた。
俺は玄関のチェーンを外した。
自分でも、なぜそうしたのか分からない。
ただ、これ以上、扉越しに話すことができなかった。
扉を開ける。
リゼルの全身が見えた。
ゲームの中よりも少し痩せている。
鎧は傷だらけで、銀髪の一部は焦げていた。
よく見れば、右腕には血の滲んだ包帯が巻かれている。
「怪我をしてるじゃないか」
「問題ございません」
「どう見ても問題あるだろ」
俺が手を伸ばすと、リゼルが息を呑んだ。
触れていいのか迷った末、肩へ手を置く。
硬い鎧の感触。
その下から伝わる、わずかな体温。
幻ではない。
画面の向こう側でもない。
リゼルは、ここにいる。
「本当に……リゼルなんだな」
彼女は涙を流したまま頷いた。
三百年間、自分の帰りを待っていたのかと確かめても、その答えは変わらなかった。
リゼルは再び俺の前で頭を下げた。
「お久しゅうございます、我が主。三百年ぶりに、あなた様のもとへ帰ってまいりました」
胸の奥で、何かが崩れた。
七年前。
俺は一方的に別れを告げた。
彼らの世界が終わるのだと思っていた。
俺がログアウトすれば、すべて消えると思っていた。
だから、最後に自由を与えたつもりだった。
しかし、彼らは消えていなかった。
俺がいなくなったあとも生き続けた。
泣いて、笑って、争って。
三百年という時間を積み重ねてきた。
「立ってくれ」
俺はリゼルの腕を掴んだ。
「ここはアステリアじゃない。俺は王でも領主でもない。ただの会社員だ」
それでもリゼルにとって、俺が主であることは変わらないらしい。
訂正しようとした、その時だった。
廊下の奥から低い音が響いた。
空気が揺れる。
天井の照明が点滅し、壁に掛けられた避難経路の案内板が震えた。
リゼルが立ち上がり、廊下の奥へ視線を向ける。
次の瞬間。
何もなかった空間に、一本の光が走った。
光は縦に伸び、左右へ広がる。
空間そのものが裂け、扉の形を作っていく。
光の向こう側に、巨大な広間が見える。
白い石造りの柱。
赤い絨毯。
天井から吊り下げられた、アステリアの国旗。
七年前に消えた、王城の転移広間だった。
そして。
広間には、数え切れないほどの人々が跪いていた。
エルフ。
獣人。
魔族。
鎧を着た騎士や、杖を持つ魔法使い。
先頭には、俺がよく知る者たちがいる。
宰相セレフィナ。
魔導技師ノア。
侍女長ミーナ。
七年前、玉座の間で別れた元部下たち。
姿の変わった者もいる。
それでも、見間違えるはずがなかった。
光の門の向こうで、彼らが一斉に顔を上げる。
『レグナ陛下』
重なった声が、狭いマンションの廊下へ響き渡った。
俺は呆然と立ち尽くした。
「リゼル。君一人じゃなかったのか」
リゼルは、ほんの少しだけ困ったように笑った。
「申し上げるのが遅くなり、失礼いたしました」
彼女は門の向こうへ手を向ける。
そこには、アステリアの民一万二千人が集まっているという。
「一万二千人……?」
「はい。まずは先遣隊として、帰還の準備を整えております」
その言葉に、嫌な予感がした。
「先遣隊ってことは、まさか」
リゼルの笑顔が、先ほどまでよりも明るくなる。
「我々は全員、あなた様のもとへ帰るつもりでございます」
サービス終了したはずのゲーム世界は、終わっていなかった。
そして三百年間待ち続けた元部下たちが、今。
現実世界へ帰ってきた。




