第302話 天狗の掟
~天狗谷 最奥~
両側を断崖に挟まれた谷底は、奥へ進むほど細くなる。
だが最奥だけは、大きく口を開けるように拓けていた。
そこは、天を衝く岩峰が円形に連なり、底には常に風が渦巻いている。
吹き上げる気流が岩肌を削り、赤茶けた鉱脈と黒い岩盤を露出させていた。
空は見えるが、飛び上がろうとすれば乱流に叩き落とされる。
正に、風を掴む者だけが生き残れる地形。
——そして、掟に従う者だけが生かされる場所でもある。
その広場の中心で、一人の若い天狗が膝をついていた。
武具は何も持たされず、額を地に擦りつけている。
「あ、あの……申し訳、ありません」
地に着いた両手足と同様に、発される声も大きく震えていた。
広間の最奥に鎮座する存在――
天狗族の長である大天狗・天刑は、静かにそれを見下ろしつつ、数拍置いて口を開いた。
「問う」
風よりも冷たい声が木霊する。
「お前は、命を受けたな?」
「……は、はい」
「命令は“谷の結界を維持せよ”。
……誰の許可で、結界石の配置を変えた」
若い天狗は一瞬、言葉に詰まった。
「……気流が乱れておりました。
あのままでは、下層が――」
「答えになっておらぬ」
天刑は、ゆっくりと立ち上がる。
「個の判断で、結界石を動かしたな」
「……っ」
「掟にあるか? “考えろ”と」
数秒の沈黙。
その間に若き天狗は、隠し立てや言い訳は無意味だと悟る。
「……ありません」
「ならば、裁きを受ける義務がある」
次の瞬間だった。
「待て!」
割って入る声。
片翼の天狗――真鴉が、片翼を翻しながら二人の間に飛び込んだ。
「結果として、被害は出ていない! むしろ――」
「異端が、口を開くな!」
強い否定の言葉。だが、天刑は真鴉へと視線すら向けない。
「掟は“結果”を見ない。
“従ったか否か”のみで裁く」
「それは裁きじゃない。ただの――」
「まだ、言うか」
天刑は、そこで初めて真鴉を見る。
「……残る片翼も、失いたいのか?」
その言葉に、周囲の天狗たちが息を呑む。
――かつて、
真鴉は長である天刑に異を唱え、挑み、敗れた。
皆の前で片翼を引き裂かれ、空を奪われた。
それだけの事をされながら、今回も真鴉は拳を握り締め、退かなかった。
己の信念のため。そして、未来の天狗族のために。
「……それでも――」
言い終える前、天刑は小さく息を吐き言葉を遮る。
「愚か、也」
次の瞬間。
風の塊が上空から叩きつけられた。
若い天狗の身体が宙を舞い、岩壁に激突し周囲に鈍い音が響き渡る。
翼が――あり得ない方向に折れ曲がっていた。
命は奪わない。
だが、空は奪う。
それが、この谷の掟。
「異端者に、飛ぶ資格はない。翼は、従う者のためにある」
真鴉はこうなると分かっていながら、何もできなかった。
その事実が、胸を抉る。
自身の無力さに残った片翼を震わせ歯を食いしばりながら、俯きかけた。
――その時。
「……なるほどな」
場違いな声が、谷に落ちた。
天刑も、真鴉も、全ての天狗が声の方に視線を向ける。
岩棚の縁。
荒巻く風の中で、三つの影が立っている。
その中心で、風に髪を揺らしながらゆっくりと広場全体を見渡した阿吽は……、心底アホらしそうに言った。
「マジでゲロみてぇな理屈だわ」
天狗たちが一斉にざわめく。
既にキヌは、翼を折られた若い天狗の治療に動き出し、ユラもそれに追従している。
「空を飛べるほど自由な種族のくせに、“個の思考”を捨てろってか? そんなもん、クソ程つまんねぇだろ」
天刑を見据えながら言い放つ。
それは天狗族からすれば馬鹿馬鹿しいセリフ。だが、異端と呼ばれる真鴉からすれば清々しい程に真っ直ぐで……、誰よりも高らかに叫びたい口上だった。
「何奴だ? ……まぁ良い。侵入者は何人たりとも生きては返さぬ」
「お前が天刑だな?」
阿吽は口の端を吊り上げ、静かに告げた。
「そんな掟、俺が叩き壊してやんよ」
次話は3/13(金)投稿予定です♪




