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(あああああやらかしたあああああああ!!!!)
後悔に悶えながらそっと横をうかがう。隣に座るカーディナルは無言のまま前だけをじっと見ていた。あまりにも無遠慮なすみれの言葉に気分を害したのだろう。
ただでさえ配慮に欠けることを言ったのに、表立って責められなかったのをいいことにしてつい上から目線じみた余計な一言まで付け足してしまった。怒られないほうがおかしい。きっと嫌われてしまった。この世界における唯一の味方だった人の地雷を踏み抜いて、一体自分は何をしているのだろうか。
(もっとカーディナルさんのことを知りたかっただけだったんだけどな……)
心の中で言い訳がましく呟く。彼が仮面をつけることになった理由なんて、仮面修道会の意義を聞けば予想できたはずなのに。その存在に偏見など抱いていないと、私もそちら側の人間だと伝えたい。そうすれば、カーディナルは多少なりとも心を開いてくれるだろう。そう軽々しく思った結果、重い過去を無暗につついて彼の機嫌を損ねるだけに終わってしまった。
軽率な思考回路を恨み、的外れのシミュレーションを悔やむ。一つ会話の選択肢を間違えただけで、きっともう取り返しがつかなくなった。今さら「馬車の中に戻ります」だなんて言えない。客席と御者台を繋ぐ小窓は小さくて、とても通り抜けられる大きさではない。移動したいなら一度馬車を停めてもらう必要があって、けれどそんなわがままを言いだせる雰囲気ではなかった。客席にいる者達も、きっと嫌な顔をするだろう。
自業自得の、気まずい気まずい馬車の旅。今日泊まる予定の街に到着するまで、生きた心地がしなかった。
*
「ねーねーすみれちゃん、どうだった!?」
「どう、って……何が?」
宿は一人部屋だった。きっと街で一番立派な、高そうな宿だ。委縮しつつも荷物を下ろす。けれど一息つく暇もなく、隣の部屋の璃々がやってくる。その笑顔はやたらときらきらしているように見えた。
「だから、カーディナルさんと! 二人っきりだったじゃん! すみれちゃんってああいう人がタイプだったんだねー。ミステリアスっていうの? でも、落ち着いてて物静かな人だから、大人っぽいすみれちゃんとお似合いだと思う!」
「ちょっ……!? ベ、別にそういうのじゃ、」
「ごまかさなくていーって! あたしは応援してるから! 頑張ってねー!」
頑張るどころかついさっき好感度がマイナスになったし、そもそもこれはそういう感情ではなくて。人として気になるだけで、異性としての興味ではないというか。カーディナルだって自分なんかに好意を寄せられたら迷惑だろう。そもそもそんなもの抱いていないけれど。
「それでそれで? なんかあった?」
「ふ、普通に話してただけだよ。運転の邪魔をしちゃ悪いから、ちょっとだけだけど」
「すみれちゃんってば奥手ー。もっとガンガンいけばいいのに」
「無理無理無理!」
必死に首をぶんぶん横に振る。一緒にお菓子を食べて、二人きりで少し話して。それだけで大躍進だ。これ以上は望まないし、できはしない。
多分もう二度とそんな時間を過ごすことはできないと思うが、夢は醒めるまでが短いからこそいい。下手に長ければ、起きたときの喪失感が大きすぎる。だから自分勝手な物言いだけれど、今がちょうどいい引き際だった。
(って、これじゃ本当にカーディナルさんのことが好きみたいじゃん!)
そんなわけがない。だってすみれは彼のことをほとんど知らないし、彼もすみれのことを知らない。相手は顔も名前もわからない人だ。これはあくまでも未知のものに対する興味のようなもので、異性として見ているわけではない。きっと向こうも似たようなものだろう。
カーディナルはこの世界では誰よりすみれに親切にしてくれたけど、そもそも他の異世界人が辛辣すぎるため優しさのハードルが下がっている。唯一すみれを一人の人間として扱ってくれたからほだされたなら、なびいたのなら、それは恋でも何でもない。ただの依存だ。錯覚だ。惹かれているわけでも、ましてや一目惚れなんてものでも断じてない。そもそも、顔も見えない相手に一目惚れだなんてありえない。
「ていうか、わたし達は日本に帰るでしょ? そんな風に思うわけ……」
「ふーん? でもさ、ちょっとぐらいは好きにしてもいいと思うよ。結局どうするかはすみれちゃんの自由だし、さ」
「え……」
その言葉を反芻する暇も与えられないまま、璃々は「じゃあねー!」と明るく言い残して去っていく。ぽつんと佇んだままのすみれには、とっさに別れを告げることしかできなかった。
*
その日は結局眠れなかった。柔らかいベッドの上で何度も何度も寝返りを打つだけ打っていたら、いつの間にか夜が明けていたのだ。身支度を整えてもそもそと朝食を摂る。カーディナルとは目も合わせられなかった。
そろそろ出発しようと、客席に乗り込む璃々達に続こうとする。すると御者台から声をかけられた。カーディナルだ。
「今日は、こちらでなくてよろしいのですか?」
「えっ……」
「一度走り出してからでは、移動が難しくなります。ですので、最初から御者台にいらしたほうがよろしいかと」
「で、でも、わたし、」
「一人で馬車を走らせるのも、中々退屈でして。話し相手がほしいのです。貴方が嫌なら、無理にとは言いませんが」
仮面の下で彼がどんな顔をしているかはわからない。「おい、なにしてんだ? さっさとしろよ!」無粋なカミーユの怒鳴り声も今は背中を押してくれる福音にしかならない。すみれは弾かれたように走り出し、御者台にぽすんと座り込んだ。
「き、昨日は本当にごめんなさい!」
「過ぎたことです。気にしていませんから、そう怯えずとも大丈夫ですよ。むしろ感謝したいぐらいです。……私に罪がないなんて、そんなことを言ってくれたのは貴方だけでした」
ゆっくり馬車が動き出す。銀色の馬の蹄の音と、石畳の上を車輪が転がる音に邪魔されないように、カーディナルの声だけに集中する。
「私は罪の子であり、この仮面こそが私に課せられた罰です。けれど確かに、母が犯した罪と私の背負う罪は別で……私の罪は、私自身に責のないものなのかもしれません。それでも、誰も私を赦してくれなかった。仮面修道会にとっても、私は厄介者でしたから」
「……」
「ですから、昨日貴方にああ言われたあと、少し自分でも考えて……救われたような、気がしたのです。……たとえ当たり前のことであっても、人にそれを認められたことはありませんでしたから」
「わたしは本当に何も知りませんし、部外者もいいところですけど……そんなわたしの言葉でも、カーディナルさんの心を軽くできるなら、生意気なのを承知で何度だって偉そうなことを言いますよ」
風になびく黒髪を押さえる。カラーもパーマもかけていない、生まれつきつやのあるさらさらのストレートな黒い髪。自分の身体で唯一自慢できるその髪は、赤髪ばかりのラムグルナではひどく目立った。褒めそやされるのは璃々だけだけれど、それについてはもう今さらだ。
風で乱れて邪魔になることのないように、荷物から櫛とゴムとそれから鏡を取り出した。風除けを上げ、隣に座る青年を盗み見ながら髪を梳かす。こちらはおさげで髪の色もまったく違うけれど、緩く縛った三つ編みはまるでお揃いのようだった。
「カーディナルさんはカーディナルさんです。顔も名前もなくたって、貴方が一人の人であることに変わりはありません。第一、貴方が言う罪ってなんなんですか? 親の罪を子供まで背負わされるなんて……ずっと自分を責め続けなきゃいけないなんて、そんなことがあっていいはずないんです。いくら母親でも、自分を捨てた人のせいで貴方が苦しむなんて間違ってます」
「……母にとっての私は、望まれない子だったのです。その私が子をなせば、さらなる悲劇が生まれるでしょう。私の罪は、両親の子として生まれてしまったことでした。その贖いとして、私は誰も愛さず愛されない、孤独な生涯を、」
「はぁ? なんですか、それ」
仮にカーディナルの母親が、暴行か何かの結果で彼を身ごもってしまったのなら、生まれた息子とその血筋を憎むようになるのも仕方ないのかもしれない。けれどもしもそうでないなら、カーディナルが生まれたのは彼の両親の責任であって彼のせいでもなんでもなく、彼に矛先を向けるのは筋違いも甚だしいだろう。
避妊を怠り、堕胎することもなく、自分で生んだ小さな命を厭うその考えが、すみれには理解できなかった。カーディナルに独身でいることを強いて、彼がそれにおとなしく従おうとすることだってそうだ。そんなものに従う必要はないし、どうしても逆らえないというなら理解ある相手とともに避妊でも断種でもなんでもすれば済むだけの話だろう。一人で生きなければいけない理由にはならない。
事情を知らない者の傲慢さだと、対岸で生きる第三者の勝手な言い分だと頭ではわかっている。けれど言わずにはいられない。怒りのあまり恥じらいを殺したすみれの口から飛び出る言葉は、彼にとってあまりなじみのあるものではなかったようだ。簡単に説明すると、カーディナルは戸惑ったように小首をかしげた。
「命が宿ることを阻害するような行為は、背徳の罪に当たります。自然の摂理に反していますから。胎児を殺すことに至っては、ただの殺人ではないですか。……たとえあの人がそういった類のことを行おうとしていても、それを可能にする医師や道具はそうそう見つからないでしょう」
「ようするに、自分で責任も取れなくて女神様のせいにもできないからカーディナルさんに責任を押しつけてるだけってことじゃないですか。カーディナルさんも、なんでもかんでも一人で抱え込みすぎです。そんなに自罰的に生きてたら、いつか潰れちゃいますよ」
「……ええ。ありがとうございます。妙ですね、貴方といると言わなくてもいいことまで口走ってしまう。このような余計なお喋りに興じるなど、私らしくもない」
カーディナルが笑った、ような気がした。礼を言われて微笑まれるなんて、今の言葉にそんな要素はなかったはずだが。けれどもしすみれの勘違いでないのなら、彼の胸の内にはどんな感情が渦巻いているのだろう。
仮面越しにその下の顔を夢想する。目は優しく細められて、口角はほんの少し持ち上がって。けれどそれはしょせんすみれの空想だ。本当の彼はどんな顔で笑うのだろう。彼の素顔を一度でいいから見てみたい。その望みを遮るのはたった一枚の仮面で、それがとても遠かった。
「侍女殿も、そう悲観することなきよう。その顔と名前は貴方だけのもの。どうか大切になさってください。……周囲がそれを受け入れないのですから、己の胸に秘めるだけでも十分だとは思いますが。必要であれば、仮面修道会に紹介状を書きますよ?」
「あはは。そうですね、お願いしようかな」
彼の言葉はどこまでが本気で、どこまでが冗談なのだろう。これではすみれに帰還する気がないと言っているようなもので、けれどカーディナルはそれについては触れなかった。まさか気づいていないわけがないだろうが、その静寂がありがたかった。だって、あまりにも惨めだったからだ。
居場所がないのはこの世界だけではない。元いた世界でもそうだ。それはすみれが臆病で傲慢だったから。周囲に適応する努力を怠り、いつか誰かが仲間に入れてくれると待つばかりだったから。日本に戻ったところですみれに帰る場所はないし、そもそも待っている人もいない。だったらいっそ、こちらの世界でひっそりと暮らしたい。
禊の旅が終わって璃々が日本に帰れば、誰もすみれのことなんて気にしないだろう。「そういえば聖女様のご友人様の姿が見えないが、きっと来た時と同じように聖女様にくっついて帰還したのだろう」……そう思われて、ほうっておかれて、やがては忘れ去れる。そのときにようやくすみれは新しい人生を始められるはずだ。
今までの自分を捨てて、すべてを一からやり直して。きっとそううまくはいかないだろう。結局何もかもが嫌になって、また同じことの繰り返しになってしまうかもしれない。けれど、傍にカーディナルがいてくれるなら少しは頑張れるような気がした。
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