油断
「早――」
桜が顔を青ざめさせた時、馬は顔を逸らした。澱のように濁った亜人の瞳は、歩行者天国へと向けられていた。――細い足の筋肉が震える。息を詰めた桜は、すぐさま馬を拘束しようとツルを走らせた。
けれども、馬の方が圧倒的に早かった。素早くその場を跳躍した馬は、角を振り乱して群衆を駆けた。その先端は次々に人をなぎはらい、突き刺す。血しぶきが舞い、断末魔が響く。五分も経たないうちに、死体がいくつも転がる。
「やめなさい!」
桜は喉を絞るように叫んで、なんとか亜人の動きを止めようとツルで追うが、届かない。あまりにも馬が早いのだ。陽動や、注意を引くことすらかなわなかった。亜人はひたすらに殺戮を繰り返す。桜を置いて、もっと血を求めるように駆ける。桜はすぐにそれを追った。我に返った大介も、懸命にそれに続く。しかし二人とも、既にかなりの距離を引き離されている。
不意に、血をまき散らしていた亜人が走るのをやめた。ぐるりと頭を動かして、観察するようにあたりを見回す。――五歳くらいの子供抱え、もつれた足で走る母親を、その目に留めた。高い鳴き声が、暗い空に轟く。馬が母子に飛びかかった。母親の体は弾き飛ばされ、その腕から子供が転がり落ちた。「ママ」という悲鳴があがる。子供は鼻水と涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、それでも母親のところに駆けて行こうとした。そんな小さな体を、亜人の前脚が抑え込む。
「やめて! やめてよ!」
必死に立ち上がった母親は、亜人の蹄に縋り付いた。しかし、亜人は煩わしいと言いたげに鼻から強く息を吐くと、その柔らかな体を吹っ飛ばした。逃げ惑う群衆の中を、母親が転がる。金切り声で号泣する子供の体を、亜人は興味深げに嗅いでいた。
――大介の頭の中に、桃と鬼に教えてもらったことが過った。生まれたばかりの亜人には、憎しみも嫌悪もない。そこにあるのはただ、純然な食欲なのだと。
――亜人の長い舌が、子供のまろい頬を舐める。大きく口を開いた。
「やめろっつってんでしょ!」
――その歯が、突き立てられる直前だった。亜人の喉に、ツルが絡みつく。喉を縛られた亜人は、しかし息苦しそうにするような気配も見せず、ただギロリと桜に視線を向けた。殺意がはっきりと表れていた。
「……アンタの相手は、私よ」
肩で呼吸をする桜が笑う。母親が子供の名を叫んだ。子供はこの隙に、転がるように母親の元へ逃げた。亜人はもう親子に興味はないようで、ただ喉の拘束を解こうと暴れている。その隙に桜のツルは、亜人の四肢に巻き付いた。亜人の体が突っ張るが、桜の拘束はびくともしない。
――ようやく、亜人の動きを止めることが出来た。大介は桜の元に駆け寄った。
「さ……桜さん」
「大丈夫、大介君? 怪我はない?」
「ないです。あの……桜さんは」
「私は平気。応援ももうすぐ来るはずだから、多分怪我人は助かるわ。……ただ、この人がここから亜人を抑え込むことは難しいだろうけどね」
ああ、と大介は無表情をわずかに歪めた。この亜人は、確かに今でこ化け物のいでたちだが、しかし元はごく普通の人間なのだ。自分の姉と変わらない、一般人である。先程までごく普通に生きていた人間が、こんな風になってしまうのだ。――目の前の亜人は姉と、同じだ。この亜人にもきっと大切な人がいるし、大切に思われてもいただろう。馬が荒い鼻息を吐く。
「亜人の細胞核だけを壊して、助けてあげたいけど……この混乱の中じゃ、どういう経緯で亜人になったか調べるのは難しそうね」
亜人細胞ごと体を壊すしかないわ、と桜は低い声で言った。大介は無表情で、唇を噛みしめる。
このまま拘束しておいて、後から来る応援にこの亜人の”知り合い”を探してもらい、亜人細胞の核を聞き込みしてもらいたかった。だが、とても口には出来なかった。こんなものが街中に拘束されていたら皆ひどく恐ろしがるだろうし――それに、このまま拘束しておける確証もない。この亜人は、今の一瞬だけで多くの死者を出したのだ。ずっとこのままではいられない。
桜はゆっくり息を吐き出して、背中から太いツルを五本ほど伸ばした。先端を亜人に向ける。状況に気付いた亜人がますます暴れるが、桜の力には敵わない。桜はまっすぐに亜人を見据えた。ツルが、風を切るような速度で亜人の体を狙った。
その先端が亜人を貫く直前だった。亜人が、空を裂くような声量で高く声を張り上げた。瞬間、亜人の体が燃え盛ったのだ。
「えっ――!」
ツルに火が移る。桜は悲鳴をあげた。彼女はかろうじてツルを解きはしなかったが、力を緩めてしまった。その隙を突いた亜人が、ツルを体に絡めたまま、猛然とこちらに走ってくる。
「桜さん!」




