第七十一話 そうじゃない部分も
第七十一話 そうじゃない部分も
……ポーン。
……ピンポーン。
ピンポーン。
「……うるせぇな。……あ!菅原!」
慌てて起き上がり玄関に向かう。ドアスコープを覗くと、そこには菅原がいた。深呼吸をする。早く出ないと帰ってしまう。意を決してドアを開ける。
「……紫門さん。いたんですね」
間が怖い。“紫門さん”の前にあった少しの間が。そこに菅原の答えのすべてがある気がした。
「菅原、あの、俺……いや違う。アクアパッツァを作ったんだ。俺は」
「アクアパッツァ?」
「知らねぇだろ。アクアパッツァ」
「バカにしすぎだと思います。知ってますよ。アクアパッツァくらい」
「知ってんのか!じゃあお前が知ってるアクアパッツァとは少し違うかもしれねぇ……なんかグチャってしてる……」
「初めての一人料理でアクアパッツァを選ぶところが紫門さんって感じですね」
「褒めてる?」
「褒めてます」
菅原が部屋に入る。
「ちゃんと片付けたんですね。素晴らしい」
言えない。菅原の返事を聞くのが怖くて無駄に片付けたなんて。
「ここに座ってろ。今準備するから」
「ありがとうございます」
準備をしながら菅原を見る。少し疲れた顔をしている。何をしていた?どうして電話に出なかった?聞きたいことは色々ある。でも今は菅原にアクアパッツァを食べさせることが俺のやるべきことだった。
「これなんだけど……鯛を買ったんだ。でも俺、下処理とか知らなくて。スーパーでやってもらえるのも知らなくて。自分でやったらボロボロになっちまって。材料も一から揃えたら結構な金額になっちまった。白米もさ、炊飯器がなくてパックごはんで。嫌だったらごめん……」
言い訳ばかりしてしまった。菅原は何も言わずに、俺の話にただ頷いていた。
「……いただきます」
菅原は手を合わせた後、アクアパッツァを一口食べた。
「……美味しい。美味しいですよ」
「マジで!?マジ!?よかったぁ……マジでよかったぁ……」
緊張から解放され、床に崩れ落ちる。
「大変だったんですね」
「え?まぁ、そうだな。大変だった。色々と。色々とな……」
「そうみたいですね」
菅原がもう一口食べる。
「美味い?」
もう一度尋ねる。
「美味しいです。紫門さんも食べましょう」
「そうだな」
菅原に促され、一口食べる。少し生臭い気もするが、思っていたよりも美味かった。
「魚の下処理は難しいですからね。私はしっかり教えてもらえたけど、紫門さんは自分で調べてやったんですよね?だとしたら結構センスありますよ」
「育ての親に教えてもらったのか?あの寺で」
「そうです。漁港が近いので、魚をもらうことが結構あるんですよ。色々な魚です。名前もわからないような。それをお刺身にしたりして。お刺身が余ったらそれを煮込んで煮魚にしたり。私はお刺身よりも、その煮込んだのが好きでした」
照れくさそうに笑う菅原を俺はただ見ていた。
「そうか……御影家を辞めたら、その場所に戻るのか?寺を買い戻せなくても」
「そうですね。そうしたい気持ちはあります。漫画家としてやっていけるなら、向こうで描きたいかなって。やっぱりあそこが好きなんです。育った場所というのもありますけど、海があって、自然があって。夜は真っ暗で怖いですけど、でもちゃんと街が眠ってるみたいで好きなんです。星も綺麗なんですよ。ここは都会だから星があまり見えないけど、でもあっちはオリオン座とかはっきり見えますよ」
「オリオン座……俺も見てぇな、オリオン座。こっちじゃ全然見えねぇもんな。小学生の時、理科の授業で夜に星を観察しろって言われてさ。でも何も見えなかった。星の光が小さすぎて。まわりも明るいしな」
「理科の授業、ちゃんとやってたんですね」
「バカにしてんなぁ。やってた。ちゃんとな。でもリベンジしてぇなぁ。オリオン座。オリオン座だったか憶えてねぇけど。菅原とな」
「……」
沈黙。わかっていた。
「まぁ、お前は嫌だろうけどな。俺が見えねぇ見えねぇ言ってさ。面倒くせぇだろうな……」
こんなことが言いたいわけじゃない。聞きたいことはたくさんある。たくさんあるのに。
「あの、私もやってみたいことがあるんです」
「な、何?」
珍しいと思った。菅原がやってみたいこと。行きたいところでも、欲しいものでもなくやってみたいこと。
「遊園地とかにある、宝探し?あれがやってみたいんです。五百円くらいだったような。砂利の中にある宝石を探すやつ。宝石っていっても、ほとんど価値のないものだと思うんですけど。でも、やってみたいなぁって」
そう言ってまた、照れくさそうな顔をする。
「宝石探し……」
「紫門さんがくれたじゃないですか、これ」
菅原の指が、首にかけられた真珠のネックレスに触れる。
「紫門さんが貝から真珠を取り出しているのを見て思い出したんです。子どもの頃、遠足で遊園地に行った時やりたいと思ったこと」
「やりたいって言わなかったのか?育ての親に」
「言わなかった。だって言えなくないですか?母が養育費を渡しているかどうかもわからなかったし……」
「今すぐ行くか。菅原、そういうのは今すぐ行く方がいい」
「そういうところも紫門さんらしいですね。でも、別にそれを恨んでいるとか、悲しんでいるとかではないんです。仕方なかった。仕方なかったんです。宝石探しはできなかった。でも魚の捌き方は教えてもらえた。どっちが悪いとか良いとかそういう話ではなくて」
「だからこそ今すぐ行きたい。お前の願いはすべて叶えるって決めたから」
たった今、そう決めた。
「勝手に決めないでください。それに今日はまだ色々話すことがある」
「くっ……怖い。菅原、俺怖い。それが怖い。お前の話を聞くのが怖い。それに俺だってたくさん聞きたいことがある。でも怖くて」
「逃げていきましたもんね」
「それに関しては悪かった。ごめん。情けない。でもな、このアクアパッツァは詫びとかそういうんじゃない。菅原に作りたかった。食べてほしかった。あと、自分一人でできることを俺が知りたかったんだ」
「なるほど。わかりました。それで、紫門さんが聞きたいことってなんですか?」
「俺が先?」
菅原が頷く。
「初めて親父に俺のことを聞いた時、どう思ったか聞きたくて。見えない、祓えないって聞いた時」
「正直……可哀想だと思いました。でも紫門さんを初めて見た時、可哀想だと思った自分を恥ずかしく思いました。自分って嫌なヤツだなぁって」
「いや難しい、難しい。どうして自分を嫌なヤツだと思った?」
「だって、紫門さんがそのことを気にしているように見えなかったから。視えないことも、祓えないことも。祓えないのに『破ァッ!』とか言ってるし。勝手に可哀想と思ってしまったって」
「一生懸命考えたんだぞ!『破ァッ!』って。今だったら多分『滅ッ!』とかにしてたかもな」
「はは。どっちにしろ……」
「どっちにしろ何だよ!?」
「でも一緒に過ごしているうちに、紫門さんにも葛藤があると知った。深い悲しみがあることも。御影家を背負う覚悟があったことも」
そうだ。こいつは俺を見ていた。ずっと。
「いろんなことを学んだ気がします。あなたから」
「俺から?」
「はい。紫門さんから。外側からはわからない悲しみや苦しみもあること。人に頼ること。自分がしたいことを口にしてもいいこと」
「俺はお前に教えられるような人間じゃねぇよ。週刊誌に載るような人間だぞ」
「でもそうじゃない部分もたくさん見てきました」
「……」
喉の奥が苦しくなる。誰も見てくれなかった部分を菅原が見つけてくれたような、そんな。
「それで私、思ったんです。あの、結婚しませんか」
「……は?」
意味がわからない。どこから結婚に繋がった?俺のことが好きってことか?付き合うでもなく結婚?
俺はただ混乱していた。
眠りにつくことのない街の、たった一つの部屋の中で。




