48:災厄と最期の一手
癒しの力を使えば、体の熱が、意識が、触れた箇所からルーファスへと流れていく。
周囲の音が次第に小さくなり、まるで分厚い幕越しに聞いているようだ。その音を辿ろうとすればふつりふつりと意識が途切れていく。
意識が混濁する……。それでも細切れの意識を手繰り寄せてゆっくりと目を開けた。
「……ごめんね、今は、ひとまずここで」
完全な治癒とまではいかず、ルーファスの四肢には負傷の跡が残っている。
それでも動けるまでは治せたし痛みもだいぶ引いたはずだ。
ルーファスの肩から手を放せば同時にくらりと視界が揺らぎ、気付いた彼が治癒したばかりの手で腕を掴んで支えてくれた。
「柚香様、大丈夫ですか!?」
「大丈夫……。力をこんなに使った事、無かったから……」
「申し訳ありません、僕を治すために力を使わせてしまって」
「そうよ、そもそもちゃんと私達を連れていっていればもっと……。という文句はやっぱり後にしないと。後になったらしっかりと文句は言わせてもらうけど。それで、次はブラッドね」
またも出かけた文句をやはり今回も飲み込み、柚香は立ち上がってブラッドへと向き直った。
彼の怪我を治すために手を伸ばす。だがそれに対してブラッドは「俺は平気だ」とはっきりと告げてきた。
「俺はそこまで負傷はしていない。動けるから気にするな」
「でも貴方も怪我してるでしょ。肩からも酷い血が……」
「これは傷を負ってた方が良いな。それにお前だって癒しの力を使って疲れてるだろう、ここで無理をして倒れられたら意味がない」
「……怪我を治さなかったからといって、帰りの文句が許されるわけじゃないわよ」
「覚悟してる。それより、今はあれだ」
ブラッドが洞窟の奥へと視線をやる。促されて柚香も彼の視線を追った。
こちらを睨みつけていた赤い瞳は先程より大きくなっている。むしろ今は瞳どころかぼんやりとだがその姿まで視認できる。
……近付いているのだ。
一度ニャコちゃんの電撃に臆して洞窟の奥へと逃げたが、様子を窺い、ゆっくりとこちらににじり寄ってきているのだろう。次第に鮮明になるその姿にぞわりと柚香の背が震えた。
「あれが災厄なのね……」
「あの形からすると元はドラゴンだろうな」
「ドラゴン? あれが?」
こちらの世界に来たばかりの頃、柚香はドラゴンを見た。
頭上を覆う木々の隙間からでも分かるほどの巨大さ。爬虫類のようでいて爬虫類にはない立派な羽。
その姿はまさはファンタジー世界を舞台にした物語に出てくるドラゴンそのものだった。壮大でいて荘厳、遠目からでも威圧されてしまう勇ましく雄々しい姿。
それに比べ、今目の前にしているあの異形の怪物はどうだ。
巨大な体躯と羽、そして長い尾。ドラゴンの面影こそ残してはいるもののけしてドラゴンとは言えない。体躯も羽も尾も、体の至るところが歪に崩れてひしゃげている。
「かつてはドラゴンだった、と言った方が正しいかもしれないな。ドラゴンは長命だが災厄ほど長く生きるものはない」
長命な種族のドラゴンの中でも、終わりの分からない寿命をもったドラゴン。
死ぬこともなく仲間と共に生きることも出来ず、薄暗い洞窟の中でたった一匹。負のエネルギーが溜まった体は元の形を維持できずに崩れ、いつしかそれが滲み出て……。
その果てに人を喰らう事でしか眠りにつけぬ『災厄』になったというのか。
ブラッドの話を聞き、柚香は改めて異形の生き物を見た。
やはりおぞましく、そして今までの被害を考えれば到底同情など出来るわけがない。
……それでも災厄と呼ばれるまでを想像すれば胸が苦しくなる。
だけど、いや、だからこそ、ここで倒すのだ。
「でも、どうやって……」
「……俺達はこれを使う予定だった」
ブラッドが手にしていた小さな瓶を見せてくる。
その中身の毒性を説明されて柚香は思わず体を強張らせた。瓶に入っていれば平気だと言われても、そんな危険なものが目の前にあるというだけで警戒してしまう。
だが確かにそれ程の毒性となれば、ブラッドの言う通り災厄を倒せるかもしれない。
「でも、問題はどうやってそれを飲ませるかよね……」
「やつは動いている獲物に対しては噛みつく傾向にある。だから俺が奴を引きつけ、飲み込まれた瞬間に瓶の蓋を」
「駄目!!」
まさに決死と言える方法に柚香が慌てて制止する。
「そんなの駄目。聖女の癒しの力だって、飲み込まれた後に使えるか分からないじゃない」
「だが外気に触れると毒性が薄まる。それにこの方法なら、誰か一人が犠牲になれば済むだろう」
柚香の制止に対して、ブラッドも引く様子はない。
だからといって彼を行かせられるわけがなく、柚香が更に反論しようと口を開いた。だがそれより先に別の声が割って入り、そのうえ伸びてきた手がひょいと瓶を奪ってしまった。
手にした瓶の中身を見つめるのはヴィートだ。彼の視線は先程よりもはっきりとしており、液体の揺れを眺める瞳から視力が殆ど回復したのだと分かる。
「ヴィート、返せ」
「返せもなにも、そもそもこれは俺の発案だ。さっきは俺が動けなかったからブラッドに託したが、今となっては俺がやるべき事だろう」
「駄目よ! ヴィートにもブラッドにも、そんな事させられない!」
『ウルルルナァ、ンナンナ』
柚香が慌ててヴィートを止め、彼の手から小瓶を取ろうとする。
だが柚香の手が伸びる直前、別の手かヴィートから瓶を奪ってしまった。ブラッドが奪い返した……、わけではない。
ルーファスだ。まだ手足には傷が残ってはいるものの、瓶を軽く揺らす動きを見るに支障は無さそうだ。
「ヴィート様もブラッドさんも何を言ってるんですか。この毒薬は僕が王宮から盗みだしたもの、つまり僕には最後までこの毒薬を管理する責任があるんです」
「ルーファスまで何を言ってるの!」
『ンナ、ミァー、ニャッ! ウルルル!』
今度はルーファスが自ら行くと言い出すので、柚香は慌てて彼を止めた。
それどころかリュカまでもが「僕が、僕がやります!」と訴えだし、ルーファスの手から瓶を奪おうとするではないか。ルーファスが瓶を高く掲げ、リュカの手が届かないようにしている。
そんなルーファスに対して、ブラッドは最初は自分がと反論し、それに対してヴィートが己の発案だと主張し、リュカもいまだ手を伸ばしてルーファスから瓶を取ろうとしている。
誰もが自分が行くと言い出す中、柚香は何か止める術は無いのかと考えを巡らせ……、
次の瞬間、ニャコちゃんがぴょんと自分の身体に飛びついてきた。思わず「きゃっ!」と声をあげ、ずり落ちかけたニャコちゃんを慌てて抱き抱える。
「ニャコちゃん、どうしたの!?」
『ンナォォオー!』
「お、怒ってるの……?」
低い声で鳴きながらニャコちゃんが眼前まで迫ってくる。普段ならば飛びついてくれば額をぶつけてきたり鼻でキスをしてくるのだが、今は柚香の目をじっと見つめて低い声でしきりに訴えてくるだけだ。
耳を伏せたその表情は怒っているのが一目で分かる。お風呂で洗った後や爪切りをした後にもニャコちゃんは怒って文句を訴えてくるが、今はその時とは比べ物にならないほど意志が強く、あまりの迫力に柚香でさえ臆しかけそうなぐらいだ。
それ程までに必死でなにかを訴えている。
今、この場でニャコちゃんが訴えることは……。




