46:贄の王子の最期の一手
災厄の住処は岩が積み上がった洞窟の中にあり、奥に進むにつれて陰鬱とした空気が濃くなっていた。腐り落ちる直前の果実のような匂いがむせ返りそうなほどに充満している。
そんな空気をブラッドは荒い呼吸で吸い込んだ。今となっては匂いがどうのと気にしている場合ではない。
打ち付けた体が痛む。左腕は痺れて指先が上手く動かない。
だがまだ生きている。
……辛うじて、と言えるかもしれないが。
「ヴィート、無事か?」
岩場の影に隠れていたヴィートの元へと身を低くして駆け寄る。
その瞬間に走った激痛に右肩へと視線をやれば痛々しい裂傷が目に着いた。鳥かごの火傷跡を切り裂くように傷が皮膚を裂き、血が溢れている。
だが幸い右手はいまだナイフを握れている。もっともナイフは酷く刃こぼれしており、使い物になるかは微妙なところだ。
せめてと一太刀浴びせたものの傷一つ着けられず、それどころか振り払われた尾に全身を打ち付けてこちらが負傷した。歯が立たないとはまさにあの事を言うのだろう。
「ブラッドか?」
ブラッドの呼びかけに対し、ヴィートは見目の良い顔を歪め、真横にいるというのに尋ねてきた。
こちらを向いていてもなお彼の瞳は定まっておらず、更に眉根を寄せて目を凝らしてくる。
「見えてないのか」
「やられた。目が合った瞬間に視界が白んでそれっきりだ」
「最期に見るのがあれとは、悉く運の無い王子だな」
「まったくだ」
岩に身を隠し、半ば投げやりになりながら言葉を交わす。
そんな会話に「僕達も同じですよ」と声が入ってきた。もちろんルーファスである。岩の影からひょこと顔だけを覗かせて苦笑を浮かべる。
こんな状況なのだから、ヴィートに限らず自分達も最期に目にするのは『あれ』と言いたいのだろう。
「確かにそうだな。それでルーファス、お前はどうだ」
「目はやられてませんね。まぁ、手と足は動きませんけど」
「酷いのか?」
「見ない方が良いぐらいには」
ルーファスは苦笑を浮かべているが、その額には玉のような汗が浮かんでいる。
手足の状態はそれほどに酷いのだろう。
「……万策尽きたな」
とは、溜息交じりのヴィートの言葉。
隣に座り岩に背を預け、つられるようにブラッドも息を吐いた。相変わらず濁った空気が満ちている。
万策尽きた、同感である。
ヴィートとルーファスは旅に出るまでに過去の文献を漁り、災厄への対処法を考えていた。全体像と弱点、それに大まかな行動パターンは把握していた。
それに合わせて策を練り奇襲のタイミングを考え、火薬まで用意していたのだ。
だがそれらすべて敵わなかった。災厄は奇襲など物ともせず、爆ぜた火薬に怯むことなく襲ってきたのだ。
そもそもヴィートとルーファスが過去の文献を参考にしたといっても、その過去を踏まえて現状の『四人を食わせて災厄を眠りに着かせる』という方法が最適とされているのだ。
「悔しいなぁ……」
ヴィートが本音を漏らし、空を仰ぐように上を向いた。
これで青天の空でも広がっていれば、視力を失った彼の視界でも眩さを感じて気分も晴れたかもしれないが、あいにくと頭上には荒れた岩肌しかない。殺風景な暗がりはまるでゆっくりと迫る緞帳のようだ。
次いでヴィートは胸元から小さな瓶を取り出した。
「ついにこれの出番だな」
「例の薬か」
ブラッドの言葉に、ヴィートが頷いた。
手の中にある瓶を目を凝らして凝視しているあたり、ぼんやりとは見えているのだろうか。
透明な瓶の中で揺れるのは毒薬、最後に残された一手だ。
人間なら一滴で死に至ると言われており、たとえ災厄でもビン一本分飲ませれば無事では済まないだろう。
たが外気に触れると毒性が弱まるため、取り扱いはかなり難しいのだという。
つまり瓶を持って災厄に食われ、口内で蓋を開けて液体を出さなければならない。
ゆえに『最期の一手』である。
「使わずに帰るつもりだったが……。万策尽きたからって大人しく食われるのは癪だろう」
「ヴィート様って本当に往生際が悪いですよね。あ、それ、盗み出したの僕なんですよ。元々は王宮で徹底管理されていたんですけど、今頃きっと大慌てですね!」
顔だけ出したルーファスが悪戯っぽく話せば、ヴィートが「よくやった」と彼を褒めて笑う。
二人はまるで悪巧みを誇る子供のようではないか。つられてブラッドも笑みを浮かべた。
万策尽きて、なおこうやって笑っていられるのは気分が良い。
心残りはあるが……、とナイフに巻いたハンカチに視線を落とせば、ヴィートが名前を呼んできた。
「ブラッド、お前まだ歩けるんだろ」
「あぁ、遅くはなるが動けないわけじゃない。それを持って災厄の口に飛び込むなら俺が適任だ」
「……柚香のところに」
「言うな。目だけじゃなくて口までやられたいのか」
ブラッドが容赦のない言葉で話を断ち切ればヴィートが肩を竦める。その奥ではルーファスまでもが物言いたげな表情をしているではないか。
それでもブラッドの意思は変わらず、瓶を渡せとヴィートに手を伸ばした。
「ヴィートは目をやられて、ルーファスは手足が動かせない。災厄に飲まれた瞬間に瓶を開けられるのは俺しかいないだろ」
「だが、お前はまだ……」
「それに、災厄は逃げる獲物は噛みつくが止まっている獲物は先に息の根を止める。まともに動けない二人は瓶ごと潰されてから腹の中だ」
「言い方ってもんがあるだろ。……だけどまぁ、それが事実か」
ヴィートが雑に頭を掻き、瓶を差し出してくる。
それを受け取り、次いでブラッドは腰に差したナイフの柄に触れた。白かったハンカチは血で汚れているが、それでも柔らかな肌触りが手に伝う。
これを受け取った時のやりとりが思い出され、こんな場だというのにブラッドの表情が僅かに和らぐ。
だが次の瞬間、地を這うような怒声が聞こえ、頭上に巨大な影が掛かった。
見つかった、と考えると同時に反射的に顔を上げる。
そしてそこに君臨する異形の姿を視界でとらえた瞬間、ブラッドの胸に恐怖が湧いた。災厄の姿はこの場に来て幾度となく目にし、死ぬ覚悟はとっくに出来ていた。だというのにそれすらも凌駕するおぞましさ……。
死ぬ。
鼻先に突きつけられた死の事実に、ブラッドは瓶を握りしめて立ち上がった。
災厄の咆哮が狭い洞窟内に響き、更に濃くなった空気に肺が呼吸を拒否するように息が詰まる。
それらを堪えて走りだせば、災厄が巨体を翻して追ってきた。その動きもまたおぞましい。
地鳴りのような足音に、追いかけられているのだと本能が訴える。荒れた洞窟の岩肌を駆けながら背後を確認すれば、あと数歩の距離にまで異形の怪物が牙を剥いて迫っている。
来い、とブラッドは握りしめていた瓶の蓋に手を掛けた。
だがその手が揺らいだのは、異形の怪物の背後に覚えのある人物の姿が見えたからだ。
「柚香……!」
「ニャコちゃん! 電撃!!」
ブラッドがその人物の名前を呼ぶ。
その声に威勢の良い声が被さり、次の瞬間には周囲が一瞬にして弾けたように白んだ。
眩さで目も開けられぬ中、災厄のものと思わしき声が聞こえる。甲高く、耳障りで、聞いているだけで脳を揺さぶるような鳴き声。
悲鳴すらおぞましいのか、そんな事を考えながらブラッドが目を凝らせば、身を捩り逃げていく災厄の姿と、入れ替わりにこちらに駆けてくる柚香の姿が白んだ視界で見えた。




