幕間 ー面影ー
店長になってから、時間が過ぎるのが早くなった。
朝、店に来る。
納品を片付けて、発注をして、シフトを確認する。
昼になれば弁当が売れて、夕方になれば学生たちがやってくる。
誰かが休めば代わりを探して、見つからなければ自分が入る。
夜勤へ引き継いで、一日が終わる。
眠って。
また朝が来る。
そんな日々を、久世蓮司は繰り返していた。
「店長ー、休憩入っていいですか?」
「いいよ。戻り何時?」
「四十五分後です」
「了解。いってらっしゃい」
「いってきまーす」
バックヤードへ消えていくアルバイトを見送り、蓮司はレジ横の商品を整えた。
昼過ぎ。
客足は少し落ち着いている。
揚げ物の残りを確認して、時計を見る。
もう少し待って、夕方に合わせて追加するか。
そんなことを考えていた、そのときだった。
「……久世くん?」
呼ばれて、顔を上げた。
入口の近くに、一人の女性が立っていた。
その隣には、小さな男の子。
蓮司は数秒、その顔を見つめた。
「……高瀬?」
名前を呼ぶと、女性の顔がほころんだ。
「やっぱり久世くんだ」
「久しぶり」
「久しぶり」
高瀬咲希だった。
高校を卒業してから、ほとんど会うこともなくなった。
何年ぶりだろう。
蓮司が思い返している間に、咲希は店内を見回した。
「ここで働いてたんだ」
「まあね」
「バイト?」
「店長」
「えっ」
「なんだよ」
「久世くんが?」
「だから、どういう意味だよ」
「いや……」
咲希は何かを言いかけて、笑った。
「意外だなって」
「よく言われる」
昔の自分を知っている人間なら、そう思うのも無理はない。
蓮司自身、少し前までは想像もしていなかった。
誰かと争うためでもない。
誰かの上に立つためでもない。
ただ働いて。
飯を食って。
眠る。
明日も同じような一日が来る。
そんな生活を、自分が選ぶなんて。
「……お母さん」
小さな声がした。
蓮司は視線を下げた。
咲希の隣にいた男の子が、彼女の服の裾を掴んでいる。
隠れているというほどではない。
ただ、蓮司をじっと見ていた。
知らない大人が何者なのか。
見定めているような目だった。
「あ、ごめんね」
咲希が男の子の背中に手を添える。
「悠誠。お母さんの昔のお友達」
「…………こんにちは」
「こんにちは」
蓮司が返すと、男の子は咲希を見上げた。
咲希が小さく頷く。
それから、少しだけ前へ出た。
「たかせ、ゆうせいです」
教えられた通りなのだろう。
ぺこりと頭を下げる。
「久世蓮司です」
蓮司も、つられるように頭を下げた。
顔を上げる。
悠誠も、顔を上げた。
「…………」
蓮司の動きが止まった。
「久世くん?」
「……いや」
なんでもない。
そう答えながら、もう一度男の子を見る。
――ゆうせい。
その名前が、妙に耳に残った。
どういう字を書くのかは知らない。
ただ。
――ゆう。
その音を、頭の中で繰り返した。
「……お母さんの、ともだち?」
悠誠が聞いた。
「ん?」
「お母さんと、ともだち?」
「ああ。まあ……そうだな」
「まあって何?」
「高瀬、いちいち拾うなよ」
「だって久しぶりなんだからいいじゃん」
咲希が笑った。
悠誠は二人を交互に見る。
それから、少しだけ首を傾げた。
その仕草を見た瞬間。
蓮司の頭に、一人の顔が浮かんだ。
「……悠真」
ほとんど、息のような声だった。
「……ゆう……?」
咲希が聞き返す。
「え?」
「今、何か言った?」
「……いや」
蓮司は悠誠を見た。
似ている。
そう思った。
顔立ちそのものがそっくりなわけではない。
目元はむしろ咲希に似ている。
輪郭にも、どことなく母親の面影がある。
けれど。
少し首を傾げて、人の顔を覗き込む仕草。
そのときの目。
警戒が解けた途端、ふっと柔らかくなる表情。
一瞬だけ。
相馬悠真が、そこにいた。
「…………」
そんなはずはない。
分かっている。
悠誠は高瀬の息子だ。
悠真とは何の関係もない。
それなのに。
「おじさん」
「…………おじさん?」
「ここで働いてるの?」
どうやら安全な人間だと判断されたらしい。
さっきまで咲希の横から様子を窺っていた悠誠が、今度は蓮司を見上げている。
「働いてるよ」
「店長なんだって」
咲希が言う。
「てんちょう?」
「そう」
「いちばんえらい?」
「……まあ、この店の中なら」
「じゃあ」
悠誠がアイスケースを指さした。
「アイス買っていい?」
「それ決めるの俺じゃねえよ」
「ダメです」
ほとんど同時に咲希が答えた。
「なんで?」
「さっきお菓子買ったでしょ」
「でも店長なんでしょ?」
「店長にもできないことはある」
「いちばんえらいのに?」
「世の中そういうもんなんだよ」
「久世くん、五歳児に何教えてるの」
咲希が呆れたように笑った。
悠誠は不満そうに頬を膨らませる。
その顔を見て。
蓮司も笑った。
「…………」
まただった。
今度は、笑った顔。
咲希によく似た子供なのに。
ふとした瞬間だけ、別の誰かが重なる。
悠真。
馬鹿で。
うるさくて。
人懐っこく笑って。
いつも自分の隣にいた男。
「……なんで見てるの?」
悠誠に言われて、蓮司は我に返った。
「悪い」
「僕の顔、なんかついてる?」
「いや」
少し迷ってから、蓮司は答えた。
「知ってるやつに、ちょっと似てた」
「だれ?」
「昔の友達」
「お母さんも知ってる?」
蓮司は、一瞬だけ咲希を見る。
「……いや」
咲希は不思議そうに首を傾げている。
「たぶん、知らない」
「どんな人?」
「馬鹿なやつ」
「ぼく馬鹿じゃないよ」
「お前のことじゃねえよ」
「似てるって言った」
「顔とかじゃなくてだな」
「じゃあ何?」
「……なんだろうな」
自分でも、うまく説明できなかった。
「でも」
蓮司は少し笑った。
「いいやつだったよ」
「ふーん」
悠誠は分かったような、分かっていないような顔で頷いた。
五歳なら、そんなものなのだろう。
「もう、行こっか」
「アイス」
「買いません」
「店長」
「俺を巻き込むな」
「ほら、店長もダメだって」
「俺は言ってない」
「久世くん」
「……ダメです」
「えー」
悠誠が不満そうな声を上げる。
蓮司は笑った。
普通の子供だった。
母親と買い物に来て。
アイスをねだって。
断られて。
不満そうな顔をする。
どこにでもいる、五歳の子供。
それなのに。
やっぱり。
似ている。
そう思った。
*
「ありがとうございましたー」
自動ドアが閉まる。
ガラス越しに、悠誠が咲希の手を握った。
少し歩いて。
何かを言って。
咲希が笑う。
「…………」
蓮司は、その後ろ姿をしばらく見ていた。
「ゆうせい、か」
小さく呟く。
どういう字を書くのだろう。
それから。
「……似てたな」
何が、と聞かれれば説明できない。
顔がそっくりだったわけではない。
声だって違う。
悠真が五歳だった頃を、蓮司は知らない。
それでも。
もし悠真が普通に大人になっていたら。
もし。
あいつが今もどこかで笑っていたなら。
「…………」
そこまで考えて、やめた。
「店長ー」
「ん?」
「揚げ物どうします?」
「あ」
時計を見る。
いつの間にか、夕方が近づいていた。
「追加しよう。そろそろ混む」
「了解です」
仕事に戻る。
油の温度を確認する。
商品を並べる。
レジに客が来れば、「いらっしゃいませ」と声をかける。
いつもの店。
いつもの午後。
いつもの日常。
かつて。
どうしても手に入れたかったものだった。
そして。
これを選ぶことができたのは。
悠真がいたからだった。
だから蓮司は、忘れない。
相馬悠真という人間がいたことを。
自分の右腕で。
親友で。
どうしようもない馬鹿で。
それでも。
最後まで自分のことを考えていた男を。
忘れるはずがなかった。
*
「お母さん」
「なに?」
コンビニを出て、しばらく歩いた頃だった。
「あの人、お母さんの友達?」
「そうだよ」
「高校の?」
「うん」
「ふーん」
悠誠は咲希の手を握ったまま歩く。
しばらくして。
「お母さん」
「ん?」
「僕のお父さんも、お母さんの友達だった?」
咲希の足が、ほんの少しだけ緩んだ。
「…………そうだね」
少し考えてから、答える。
「たぶん、そうだったと思う」
「久世さんも知ってる?」
「どうだろう」
咲希は首を傾げた。
「知らないんじゃないかな」
「そっか」
悠誠はまた前を向いた。
それで話は終わったのだと思った。
けれど。
「ねえ、お母さん」
「ん?」
「僕のお父さんって、どんな人だったの?」
咲希の足が止まった。
「…………」
悠誠が見上げている。
何かを疑っているわけでもない。
悲しそうな顔をしているわけでもない。
ただ、知りたい。
それだけの顔だった。
「急にどうしたの?」
「なんとなく」
「そっか」
咲希は笑おうとした。
どんな人だったのか。
答えようとする。
優しかった。
――きっと。
自分を大事にしてくれた。
――たぶん。
悠誠が生まれることを、喜んでくれた。
――はずだ。
けれど。
その人が、どんな顔で笑ったのか。
どんな声で、自分の名前を呼んだのか。
どんなふうに、自分の隣を歩いていたのか。
どうして自分は、その人との子供を産もうと思ったのか。
思い出そうとすると。
そこだけが。
どうしても、ひどく遠かった。
「お母さん?」
悠誠の声で、咲希は我に返った。
「……ごめん」
「わかんない?」
「…………うん」
少し迷ってから。
咲希は、正直に頷いた。
「お母さんもね。よく分からないの」
「自分のお父さんなのに?」
「そうだね」
困ったように笑う。
そして。
咲希は、悠誠の手を握り直した。
「でもね」
悠誠を見る。
「あなたのことは、大事だよ」
「うん」
「それだけは、ちゃんと分かる」
悠誠はしばらく咲希を見上げていた。
それから。
「……そっか」
小さく頷いた。
「じゃあアイス買って」
「それとこれとは別です」
「えー」
「家にあるでしょ」
「違うやつがいい」
「明日ね」
「明日?」
「明日」
「絶対?」
「覚えてたらね」
「覚えてる!」
悠誠が笑う。
咲希も笑った。
二人は、また歩き出した。
母親と。
その息子。
手を繋いで歩く。
どこにでもいるような、普通の親子だった。
ただ一つ。
そこにいるはずだった人のことを。
一人は、決して忘れず。
一人は、思い出すことができず。
そして一人は。
まだ、何も知らなかった。
ーー第五部 僕が生まれた、その先で




