91. アイシャとパトリック、まさかの
レティシアとリュシアンの成婚から五年の月日が経つと、帝国フォレスティエは以前と大きく様変わりしていた。
先代皇帝の時代の悪政はすっかり正され、新しい政策も皇帝夫妻の人々を惹きつける魅力と弛まぬ努力のお陰で、順調に実現している。
外交も代替わりする以前とは見違えるように盛んになり、今日もまた帝国には異国の賓客が訪れていた。
「ですから、僕はまだ妻を娶るつもりはありません!」
この日はフィジオ王国からエドガーが訪れていた。レティシアとリュシアンが揃ってエドガーの応待をしている頃、皇宮の廊下で珍しく鼻息を荒くして肩を揺らしながらズンズンと歩くパトリックは、何度も繰り返してきた文句を再び口にする。
「だからそれはどうして? きちんとした理由を聞かなければ、私だって納得が出来ません」
こちらも、これまで幾度となく繰り返されてきた台詞であった。
言葉の主はエドガーと共に帝国を訪れたアイシャ姫。五年前と比べて外見も仕草も大人びてきた彼女は、まるでこの不毛なやりとりすら楽しんでいるように見える。
まだデビュタントも迎えていない彼女のスラリと伸びた褐色肌の手足は、異国情緒漂う独特な意匠の装いによく似合う。
周囲に意志の強さを感じさせる緑色の瞳は、垂れ目がちな父親とは違い、凛々しい形をしていた。
「だから、何度も言いますがまだまだやらなければならない事がたくさんあるのです。それに何より、貴女はまだデビュタントさえ迎えていないではありませんか」
「だったらパトリック様、私がデビュタントを迎えた時には、晴れて妻にしてくださるのですか?」
「そういう事ではありません。あー! もう! 何度もお伝えしていますが、僕は今後もずっと妻を娶るつもりはないんです」
二人の歳の差は八つ。子どもの頃の八つは感覚として大きく違ってくる。
年上のパトリックからしてみればアイシャ姫は親類の娘という認識でしかなく、決して恋愛対象になりそうもない。
それでもアイシャ姫はめげずに何度もフィジオ王国に来ては直談判をし、会えない日々は毎日のように手紙を書くのだった。
「でしたらパトリック様、魔術で私を大人にしてください!」
「そんな事、無理に決まっているでしょう!」
「だったら私が立派な淑女になるまで、絶対にパトリック様は誰とも婚姻を結ばないでくださいね!」
パトリックからしてみればひどく子どもっぽい理屈だとしても、一方のアイシャはいつも真剣だ。
アイシャの目力を兼ね備えた深い緑色の瞳から、パトリックはそっと視線を逸らす。
あの後ベリル侯爵家は跡取りとして遠縁から養子を取った。パトリックはリュシアンから伯爵の爵位を賜った。だから今後急いで婚姻を結ぶ予定もない。
元から、命ある限り帝国やレティシアの為に尽くすと決めていた。
「僕は誰とも、婚姻を結ぶ予定もそのつもりもありません。僕の中のファブリスと共に、帝国と姉様に尽くすと決めたのです。薬師として、魔術師として、この地の平和を保つと」
ファブリスは姉アリーナの眠るこの地を守る為に。
パトリックは姉レティシアの治めるこの地を守る為に。
「立派な志ですわね。けれど私も、パトリック様と同じくらいにレティシア皇后陛下と、両陛下の治めるこの帝国の事が好きなのです」
今日のアイシャは決して引かない。
実はアイシャにもいくつか縁談が舞い込んできているのだが、パトリックの事を想う彼女は全てを断っている。しかし先日、いい加減脈が無いのであれば、縁談話を受けるようにとフィジオ王国の国王である祖父から苦言を呈されたのだった。
だから今日こそは、パトリックの口から何らかの約束を引き出したいと考えていたようだ。
「いいですか、パトリック様。味方はなるべく多い方が良いですよ。私は両陛下を裏切るような事は決してしませんし、フィジオ王国との繋がりだってもっと強固になります」
いつもと違ってしつこく食い下がるアイシャに、パトリックも違和感を感じた様子で首を傾げた。
「それは今でも充分……」
そこまで言ってパトリックは廊下を歩く歩みをを止めた。
アイシャはパトリックが突然立ち止まったので驚き、辺りを見渡した。しかし特に何かあるわけでもないようだ。
パトリックの方を見ると、廊下の石畳に目をやり、何か考え込んでいるような真剣な表情で口をギュッと閉じている。
アイシャはパトリックの横顔を見上げつつ口を開いた。
「私を、助けてほしいのです」
正直なところ、いつもの子どもじみた言葉だとパトリックが受け流す確率の方が高いと思った。
しかし意外なことに、パトリックはアイシャの言葉に興味を示したのである。
「助ける?」
ふと顔を上げ、アイシャの方を見つめて短く尋ねるパトリックの問いに、彼女は一縷の希望を見出した。
「ええ。私に望まぬ縁談が舞い込んでいるのです。パトリック様が私と将来を約束してくだされば、断る事ができます。だから私と、仮初の婚約を交わしてくださいませんか?」
「仮初の、婚約」
短く復唱するパトリックは、真面目な顔でアイシャを見つめた。黒目がちな瞳に真剣な面持ちのアイシャの姿が映り込む。
「はい、仮初の婚約です。別に私としては、本気で婚約を結んでくれても良いのですよ? でも、なにぶん返事に急ぐのです」
アイシャは期待が高まったことによる激しい動悸にそっと胸を押さえながら、あくまで軽い調子の言葉を続けた。
そうして次にパトリックが口を開いた時、アイシャはパッと大輪の花が咲くような明るい笑顔を見せたのだった。
◆◆◆
その日の晩……医務室の奥、様々な薬草の香りが強く漂う部屋で、パトリックはアヌビスと向き合っていた。
ある頃からベリル侯爵家ではなく、皇宮内の一角に住んでいるパトリックは、夜遅くまで医務室に入り浸っている事も多い。
「なんじゃと。それで、契約婚を?」
白髪の眉をピクリとさせ、皺に囲まれた目を大きく見開いたアヌビスは弟子の言葉に驚きを隠せないようだ。
「いいえ、『契約婚』ではありません。仮初の婚約です。時期が来たら、アイシャ姫の方から婚約破棄を申し出てもらうつもりですから」
「ほぅ、さすれば現実に婚姻を結ぶ気は無いという事かのぅ?」
長く白い髭が特徴的なアヌビスという老人は、そう言って指先に髭をくるくると巻きつけた。
この手遊びは、アヌビスが面白い物を見つけた時の癖である。
「ええ、もちろん。いつかアイシャ姫に相応しい方が現れれば、僕は甘んじて婚約破棄を受け入れるつもりです」
「ふぅむ。しかし何故そんな面倒な事を引き受けたんじゃ?」
「それは……あの時は、ファブリスが勝手に……」
「なんと、ファブリスが?」
「はい。全く、勝手な事を……」
少々不満げな表情のパトリックは、昼間アイシャと別れた後に心の内のファブリスと言い合いになった。
実は普段からパトリックとファブリスは必要があれば身体を使う精神の主導権が変わったりする事もある。
それが今日の昼間、アイシャとの会話の途中で突然ファブリスがパトリックの意識を押し除け、身体の主導権を握ったのであった。
「しかしのぅ、ファブリスとお主は一心同体。お主の事を一番理解しておるのはファブリスじゃろうて。ガチガチに凝り固まった理屈抜きの、お主の本音を代弁したんじゃろ」
「まさか。アイシャ姫はまだデビュタントも迎えていないんですよ。僕とは歳が離れすぎています」
「皇帝陛下と皇后陛下も、五つ離れておるぞい。お主達とそう変わらんじゃろ? 二人は幼い頃からお互いの事を好きで好きで堪らん様子で、あれは非常に微笑ましかったのぅ」
確かに幼い頃から歳の離れた者同士が婚約を交わすのは、この世界では特におかしな事では無い。
「とにかくそういう事になってしまったので、アヌビス様には一番にご報告したまでです」
「フォッ、フォッ、フォッ……! ファブリスも自分の気持ちに蓋をしてモタモタするお主にヤキモキしたんじゃろう。ワシも見ていてもどかしく思っておったからのぅ。いやぁ、この先が楽しみじゃ」
そう言って皺だらけの顔をくしゃりとさせた師匠に、パトリックは反論しなかった。
自分がいつからか胸に抱いていたアイシャへの秘めた想いが、そこまで周囲に知られていたとは思わなかったので、恥ずかしいやら情けないやらで耳まで赤くして俯いてしまった。
「僕は、帝国と姉様に尽くすと決めていたので……。まさかあんなに幼かった姫にこのような想いを抱くようになるなんて、夢にも思いませんでした」
「さっさと素直になれば良いものを。まぁいい、これからは素直に気持ちを口にする方が良いぞ。下手に隠しておくと、行き違いになってどうにもならなくなる事もあるのだからのぅ」
アヌビスは眦に皺を作りながら、愛弟子の事を慈しみを持って鼓舞した。
「でもっ、あくまで仮の婚約者でしかないのですよ! アイシャ姫がデビュタントを迎えた時、他に相応しい相手が居れば僕は潔く身を引くつもりです」
「まぁそういう事にしておくがいい。恐らくあのアイシャ姫は、お主の事を離さんだろうが。フォッ、フォッ、フォッ……!」
幼い頃から抱いていたアイシャの恋心の粘り勝ちと言ったところか、二人の未来がどのように開けていくのか、高らかに笑うアヌビスは楽しみに思うのであった。




