90. 幸せは続く
新皇帝リュシアンの下に行われた腐敗した貴族達の一層と様々な新しい政策により、徐々に平民達の暮らしぶりにも明るい兆しが見られ始めていた。
「さぁさぁ! 今日は皇帝ご夫妻のご成婚日! おめでたい日だからね! パンが安いよ!」
「お花はいかが? 新皇后レティシア様のお好きなお花ですよ」
今日の市場には普段よりも活気があふれ、そこかしこでレティシアとリュシアンの名が叫ばれた。
パン屋も、花屋も、食堂も、ここにある全ての店が今日ばかりは特に大忙しの模様で、何やらいつもと違った新しいメニューや商品を売り出してはお祝いムードに沸いていた。
この日帝国フォレスティエは、市井の民達からも人気のあったソフィー前皇后に代わり、レティシアを新皇后として迎える事になっていたのだ。
つまり、リュシアンとレティシアが正式に夫婦となる日である。
午前のうちに二人の婚姻の儀は終えられる事になっていた。それもこれまでの慣習をがらりと変えて、ごく近しい者だけで執り行われるという。
リュシアンとレティシアの意向により、豪華絢爛な儀式ではなく皇宮内にある皇族専用の教会で、厳かな雰囲気の中を近親者のみが婚姻の成立を見守る予定となっていた。
「私たちにいつもお心を寄せてくださるお二人ならば、きっと帝国はもっと良くなるわ」
「そうね、レティシア様は平民にも優しく接してくださるもの」
そう話すのは孤児院に併設された学校を手伝う女性達。
レティシアとソフィーは女性の社会進出と平民の子ども達の教育の為に、貴族の婦女子が学校で教育を施す団体を作り上げていた。
はじめはなかなか上手くいかなかったこの事業も、リュシアンが皇帝となってからは協力する貴族達が増え、徐々に規模を大きくしていくことに成功している。
「お二人は帝国の未来を思って、この喜ばしい日にもあまり贅沢な事をなさらないそうよ」
「若いあなたは知らないだろうけれど、ソフィー上皇后陛下が嫁がれた時には、これまでの慣習通りに盛大な儀式と披露宴が執り行われたのよ」
「けれど、それが普通だもの。お二人の取り組みが特別なのよね」
学校に通う平民や孤児院の子ども達と一緒に、皇帝夫妻のお祝い飾りを作る貴族の婦人達は、いつの間にやら手が止まり、そのような会話を繰り広げている。
ここ数年のレティシアは度々市井に下りて活動をしていたソフィーと共に行動する事が多かった。
その為民達も、レティシアの人となりを身近に知る事が出来たのだった。
時を同じくしてベリル侯爵家としても、貧しい人に対する医療や平民の子ども達への教育、救貧事業にも熱心に取り組んでいた為に、今日の新皇后レティシア誕生の歓迎ムードはまさに国をあげたものになっているのだ。
これまでの皇族とは違って帝国の民の暮らしぶりを今よりも良くする事を切に願うリュシアンは、自分達の暮らしぶりに関しては品位を最低限保つ程度の質素倹約に努めている。
そして今日の婚姻が結ばれた後も、皇帝夫妻はその考えを継続していくと二人揃って発表したばかり。
若い皇帝夫妻の人気は、今となっては平民だけでなく貴族達にも広がっている。
リュシアンによって先代皇帝時代の腐敗した政治は一層され、代わりに若く新しい貴族達が政に積極的に関わるようになった事で、そのような変化をもたらしていたのだ。
ちなみに前回ムサとソフィーの婚姻の儀が結ばれた時には、諸外国からも賓客を呼び、教会に入りきらないほど国中の貴族が呼び出された。
儀式後の街中のパレードは、それこそ生活の苦しい民達に対しての皮肉のような華やかさであったという。貴族達や一部の裕福な民は手を振って喜びを表していたものの、一部には恨めしげな視線を惜しげもなくムサに送る浮浪者も多く、馬車の中から現実を見た嫁いだばかりのソフィーはひどく胸を痛めたという。
その後も何日もかけて夜通しの披露宴パーティーが繰り広げられていたというのだから、今回の二人の婚姻の儀との違いは歴然である。
豪華な披露宴やパレードを行わない代わりに、今日だけは皇宮の一部が解放され、集まった帝国の民の前に皇帝夫妻が幾度か姿を現す予定だ。
帝国中の皆がそれを楽しみにしており、見に行ける者達も行けない者達も、それぞれ話題は尽きない。
「あら、もう花嫁衣装のレティシア様のお姿を見たの? 私は次の回なの。楽しみだわ!」
午後になると街中で今しがた皇宮から帰って来たという娘が友人に、お披露目の為に姿を見せた皇帝夫妻の様子を興奮気味に話して聞かせていた。
「とっても素敵だった。お二人が時々ふと視線を交わすところなんか、こちらにまで愛情が溢れていたわ」
「そうなの。あぁ! 時間が来るのが待ち遠しい!」
豪華な披露宴やパレードなど行わなくとも、二人の婚姻を多くの者が祝福し、そして帝国の未来に希望を膨らませていた。
◆◆◆
普段は限られた者しか足を踏み入れる事を許されない皇宮の庭園の一部には今、厳重な警備の中を多くの民がひしめき合っていた。
普段の生活では決して目にする事のない、きちんと手入れのなされた美しい庭園の風景に心を奪われ、初めて間近に見る宮の荘厳な佇まいに言葉を失う平民達。
この時ばかりは集まった貴族も平民も等しく、その時が来るのを今か今かと待ち侘びていた。
一方で、婚姻の儀を無事終えたレティシアとリュシアンは、息つく間もなく庭園に面したバルコニーへと移動する。
少しでも早く、待ち侘びる民にその幸せな姿を見せる為に。
「レティシア、平気か?」
廊下まで観衆のざわめきが耳に届くほどバルコニーが近くなると、正装で身を包んだリュシアンは、自らの傍らにそっと寄り添うレティシアの方へと労りの声を掛けた。
皇族の婚姻の儀はやたらと長く、朝早くから支度をしていたレティシアが疲れたのでは無いかと心配をしているのだった。
「はい、平気です。集まった民衆の声が、こんな所まで聞こえてくるなんて凄いですね」
穏やかな会話を交わしながら、たった今婚姻の儀を終えたばかりの新婚の二人は並んで廊下を進む。
気を利かせた侍従とマヤは、後方の少し距離を取ったところについて来ていた。さりげなくレティシアが後ろに目をやると、マヤは大きく頷いてみせた。
実は婚姻の儀の直前に、レティシアが正装のリュシアンを見てあまりに素敵だと、花嫁のベールを整えていたマヤに囁いた事をリュシアン本人は知らない。
そしてリュシアンは婚姻の儀に参列したエドガーに揶揄われるほど、花嫁姿のレティシアに目を奪われていたのだから、周囲からすればこの二人の言動は微笑ましい事この上ないのだ。
「あの……今日のリュシアン様は、いつもに増して凛々しくて……本当に素敵です」
マヤから「直接お伝えください。きっとお喜びになられますから」と背中を押されたレティシアは、意を決したように言葉を口にした。
もうあと少しでバルコニーに到着してしまう。それまでに伝えようと心に決めていた。
唐突なレティシアの褒め言葉に驚いたのか、それとも気恥ずかしさからか、リュシアンは目を大きく見開いて一瞬言葉を失った。
しかしすぐに破顔して、エスコートする腕に添えられたレティシアの手にそっと自らの手を添えた。
「そうか? レティシアがそう思ってくれていたのならば重畳。他の誰にいくら褒められたとしてもそう嬉しくはないからな」
「エドガー殿下はリュシアン様の装いを相当褒めてらっしゃいましたよ」
「あれは揶揄っていたんだ。それよりも叔父上はレティシアの話ばかりしていたぞ。だからあまり見るなと、減ってしまうと釘を刺しておいた」
いつの間にやら緊張感がほぐれたのか、二人はいつものように自然体で言葉を交わす事が出来ていた。
特にレティシアは儀式の間中ずっと身体に力が入った様子であったから、リュシアンは人知れずほっと胸を撫で下ろした。
今日この晴れの日に花嫁であるレティシアが身に纏うのは、上皇后ソフィーとレティシアの乳母であるマヤ、そしてレティシアの母親という三人によって手縫いで仕上げられたドレスだ。
リュシアンは隣に寄り添うレティシアの花嫁姿をその瞳に映すと、その気高い美しさに自然と笑みが零れるのであった。
「そのドレス、これまでと随分趣向が違っているが非常に美しいと皆が褒めていたな。確かによく似合っている。レティシアはいつも美しいが、俺も今日は格別だと思う」
「ふふ……。だって何より心がこもっていますもの。無理を言ってしまったのに、ありがたい事です」
新郎新婦である二人の間には、庭園に咲く花の蜜のような甘い空気が流れている。
特に今日という日には、何度もレティシアを見つめては目を細めるリュシアンに、レティシア自身もふと気付いては頬を染めるという事が幾度となくあった。
「俺が不甲斐ないばかりに、レティシアには色々と辛い思いをさせてしまった。それでもこうして隣に居てくれる事に、心から感謝しているんだ」
「そんな……。私はリュシアン様のそばに居られる事が、こうして今隣に立てる事が何よりも嬉しいのです」
一度目の人生を含めれば、二人は人より長い婚約期間を経ている。行き違いや様々な試練を乗り越え、晴れて夫婦となったのだから、その喜びもひとしおだろう。
「随分と遠回りしてしまったが、俺もこの日が無事迎えられて嬉しい」
「私も、ずっと夢に見て来ましたから嬉しいです。ずっと……」
思わず言葉尻の声を震わせ、じわりと涙ぐむレティシアは、過去の出来事や二度目の人生を得てから起きた事を思い出したのだろうか。
リュシアンはその姿に胸が痛んだのかギュッと眉根を寄せると、今にも涙が溢れ出しそうなレティシアの眦をそっと指先で拭う。
「この国の誰よりも美しい皇后が泣き顔では、夫である俺が民から責められてしまいそうだな」
「ごめんなさい……。でも、これは嬉し涙ですから」
「どんなに豪華なドレスも、今日のレティシアの装いに勝るものはないだろう。レティシアの崇高な魂を包むのはやはり、その一着が相応しい」
一生に一度の事だからと、ドレスを新調する事を勧めるリュシアンに、レティシアはお針子並みの腕を持つ三人に仕立てて欲しいと願った。
三人はそんなレティシアの為にとそれぞれが心を込めて取り掛かり、皇帝の花嫁に相応しい出来栄えのドレスを仕上げたのである。
その意匠は皇族御用達のお針子がこれまでに仕立ててきた、単に豪華絢爛で値の張るドレスとは違う。品のある上質な素材と丁寧な造りが、華やかな顔立ちのレティシアによく似合っていた。
「この花も、わざわざアイシャ姫が私の為にと選んでくださって。それをエドガー様が大切にこの国まで運んでくださったのだと思うと、そのお心遣いに胸が熱くなりました」
レティシアが手袋をはめた手で優しく撫でるようにした銀色の髪には、アイシャが育てた花と異国の珍しい花々で作られた存在感のある花飾りがそこかしこに挿してある。
「確かに。叔父上とアイシャ姫には感謝しないとな。宝石で出来た髪飾りよりも、こちらの方がレティシアが映える」
花束と揃いの花飾りが、正装を纏ったリュシアンの胸元を鮮やかに彩っていた。
どうやらリュシアンはとことんレティシアを褒める事にしたらしい。褒めれば頬を染めるレティシアが可愛くて仕方がないようだ。
一方のレティシアは、つい先程愛する人と夫婦となったくすぐったさと、いつにないリュシアンの甘さに胸が落ち着かない様子で目を伏せる。
後ろから付き添う侍従もマヤも、二人の仲睦まじい後ろ姿に、思わず頬が緩むのだった。
二人がバルコニーのすぐ前の広間まで到着すると、警護の為に先回りして待っていた騎士団長ディーンとパトリック、そしてアヌビスが集まっているのが見えた。
新婦の弟らしく立派に正装したパトリックは、リュシアンにエスコートされたレティシアの姿を認めるとパッと破顔する。稀有な力を持つ魔術師といえども、まだ成人していない少年なのだ。
いつも通り弟としての態度でレティシアに近付こうとして、どうやら隣のアヌビスに窘められたようだ。
パトリックの中のファブリスがそうさせるのか、やはり師匠であるアヌビスに叱られるとシュンとして肩をすくめるパトリック。
やがて軽く咳払いをしてからリュシアンに近付き、仰々しい素振りで口を開く。
「皇帝陛下、皇后陛下、万が一お二人に危害を加える者が居たとしても、この空間は僕とファブリスが編み出した魔術で完璧に護っていますのでご安心ください」
「助かる。万が一という事もあるからな、備えをしておいて損はないだろう」
「はい。アヌビス様と何度も攻撃を繰り出して試しましたが、この魔術の鉄壁は少しも傷付くことは有りませんでした。どうかご安心ください」
「頼りになるな。ありがとう、パトリック」
「勿体無いお言葉、感謝いたします」
リュシアンの隣で弟の報告を聞いていたレティシアは、ファブリスと共存する事にすっかり慣れた様子のパトリックが、魔術師として非常に頼もしい存在になっている事を実感するのであった。
リュシアンへの報告を終えるなり、サッとレティシアに近付いたパトリックは、幼い頃の面影の残る笑顔を見せる。
「だから姉様も、安心してね」
「ええ、ありがとう。パトリック」
定刻までのひととき、仲睦まじく微笑み合う姉弟だったが、少し離れた場所ではアヌビスとディーンが、二人揃って何やら囁き合っている。
「レティシアは皇后陛下になられたのじゃからのぅ。いくら弟だからといっても、今後パトリックはレティシア陛下として敬意を表さねばならぬというのに……。全く、あの出来が良過ぎる弟子は、それを何度言っても聞かぬのじゃ」
「仕方がありませんな。パトリック殿の姉君への偏愛は有名だ。あのリュシアン皇帝陛下も二人の姉弟愛には、嫉妬するのを諦めたと零しておりましたからね」
「パトリックの中のファブリスの性質も影響しているのだろうが……。最早皇帝陛下も認めているとなると、こりゃあどうにもならんのぅ」
「まぁまぁ、良いではないですか。彼は偉大なる魔術師としてこの国の為に活躍されておりますからね。流石に独占欲の強い皇帝陛下も、ここは一つ男としての余裕を見せる意味でも、大目に見るつもりなのでしょう」
師匠の立場としていつもマイペースな弟子の様子にがっくりと肩を落とす仕草をするアヌビスは、そうは言ってもどこまで本気で落ち込んでいるのか分からない。
何故ならばアヌビスが優秀さを認め、この世でリュシアンとレティシアと同じくらいに可愛がっているのが、弟子であるパトリックなのだから。
その事はディーンも重々承知している。そしてリュシアンの剣の師であるディーンもまた、何かあればレティシアを独占しようとするリュシアンに、同じような思いを抱くのであった。
「お互い、いつまでも優秀な弟子の事で頭を悩ませますな」
「おやおや、確かにそうさのぅ。フォッ、フォッ、フォッ……!」
アヌビスがいつもの笑い声を上げた時、ちょうどお披露目の時を告げる鐘の音が辺りに響いた。民達の歓声は一層大きくなる。
少々緊張した面持ちのレティシアは、ふと隣のリュシアンの顔を見上げた。リュシアンはもう、前を向いて鐘がなり終えるのを待っている。
その時、雲の切れ間から差した太陽の光を浴びて、リュシアンの髪は光の糸のように一層神々しく煌めいた。空よりも深い青の瞳にも、サッと光が差し込む。
それを見てレティシアが何を思ったのかは分からない。しかし緊張で強張っていた彼女の表情は、ゆるりと柔らかくなった。
「行こうか」
とうとう鐘がなり終えると、リュシアンがレティシアの方を向く。
目が合うと、まるで条件反射のようにふわりと表情を綻ばせるリュシアンの低く甘い誘いに乗って、新皇后レティシアとリュシアンは一歩、また一歩と静かに進み出た。
そしてその日は陽が落ちるまで繰り返されたお披露目で、皇宮に集まった人々は皇帝夫妻の姿だけでなく、世にも不思議な現象を目にする事になる。
「わぁ! 見て! 空に虹が三本も!」
「これは……ヒソップ? どこからこの花びらが?」
犯人は言わずもがなあの人だったのだけれども、何も知らない民達は、神様までもが二人を祝福しているのだと口を揃えて言った。
それほどまでに、帝国フォレスティエの民は皇帝リュシアンと皇后レティシアの成婚を心から喜び、時折二人がごく自然に見せる仲睦まじい姿に熱狂していたのだ。
これまでの皇族の常識を覆すレティシアの装いは、やがてそこに至ったエピソードと共にあっという間に帝国中へと広まり、しばらくの間は貴族の婦人方にも豪華絢爛なドレスは時代遅れだと言われるほどの影響力となるのは後の話。
また、どこからか皇帝夫妻がヒソップの花を大切にしているという噂が流れると、そのうち街中の花壇や庭園には色とりどりのヒソップが溢れた。
薬草として優秀な働きをもつヒソップ。帝国ではこれらのヒソップが多く流通し、奇しくもそれがこれまでなかなか医療にかかる事が出来なかった貧しい人々の治療にも役立つ事になる。
どれもこれも、実は意図的に広めた人がいるとかいないとか。




