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実熟れ時  作者: 皇 凪沙
29/30

28.子

この章を読む前に同シリーズ中の「夏の初め」「巣立鳥」を先にお読み頂くことをお勧め致します。


 盆会も終わり、少し秋らしくなってきた昼前の空に、すいと蜻蛉(とんぼ)が飛んで行く。今夜には、きっと灯りが点くだろう。そう思いながら、えんは閻魔堂の扉を閉めた。

 戻ろうと歩き出して、えんは足を止める。

 藪の間の道を辿り、向こうからやって来る人影は役人の姿をしていた。

「どうしたんです。」

 近づいてきた男に声をかけると、男はえんの姿を認めて笑んだ。

「此処に来れば会えるかと思ってな、会えて良かった。」

 そう言って、男は額の汗を拭う。

「何か、御用でしたか?」

 役人の用事など、あまり良い事はあるまいと内心で思いながら、えんは問う。

「この間の件だが───」

 えんが訝しげな顔をすると、男は笑った。

「伝えてくれと頼まれた件だ。」

 ああ───と、えんは頷く。

「律儀にお伝え下さったんですか。」

 少しだけ呆れた様な笑みを浮かべて、えんが言う。

「死んだ者の伝言を預かっておいて、そのままでは寝覚めが悪いからな。」

 そう言って、男は笑った。

「それに───生きている者にも感謝された。」

 伏せっていた貫主は、男の伝言を聞いて涙を流し、

───分かりました。

と、そう言った。

 心のつかえは簡単には取れないだろうが、それでも少しは軽くなったのだろう。その後は身体も徐々に回復しているという。

「───相談したいのは、此処からでな。」

と、男はそう言った。

「伝言を伝えに行った時に、この間の書物の話になった。残っているなら供養したいと言うのだが、それを私が許すわけにも行かないのでな。既に引き取られたと、そう話したのだが───」


 そうでしたか───

 そう言って、貫主は男を見上げた。

 どの様な方に引き取られたのでしょうとそう問われ、男は小僧の話をした。

「まだ幼いが、僧になると決めた様だ。今はまだ無理でも、いずれ必ず役立ててくれよう。きっとあの者も納得してくれるだろうと思う───書は読まれるのが一番だろうからな。」

 男がそう言うと貫主は頷き、天井を見上げて呟いた。

「出来るなら、この手で育ててみとう御座います───寺内の僧を二人も死なせてしまった私の元へなど、来てはくれないでしょうが。」

 男は貫主の目を見る。

 その目は、その言葉が決して戯れに出たものではないと語っている。

「まだ、十二にもならぬのだ、他寺に出すのは早かろうが───」

 いずれ、数年のうちには修行先を見つけねばならない。住持もいつまでも元気でいるとは限らない歳だ。それならば───

「───それも良いかと思ったのだが、どうであろうな。」

 穏やかな笑みを浮かべて問う役人に、えんは───さあ、と答えて首を捻る。

「住持がなんと言うかねえ。もちろん本人もだけれど───」

 男が、えんを見る。

「無理にと言うわけではない、今すぐの話でもない。ただ、考えてみてもらいたくてな───取り次いではくれぬか。」

 そう言われて、えんは苦笑する。

「あたしを間に立てずとも、よろしいでしょうに。」

 えんがそう言うと、男は首を振った。

「お主に間に立って欲しい。私が一人で行けば無理を通す様なことになってしまうかも知れぬ。何より、あの子の気持ちを尊重したい。」

 また少し、えんは男に呆れた目を向ける。

「お役人に知り合いは他にありませんが、随分とお役人らしくない方なんですね、お役人さんは。」

 そう言うと、男はそうかと笑った。

「分かりましたよ。先ずはあたしが───お話しして来ましょう。」


 少しだけ穏やかになった日差しが、された縁側を照らしていた。盆会の賑わいの過ぎた境内を、赤い蜻蛉がひとつふたつ過ぎてゆく。

───どう思う。

 僅かに涼を含んだ風が静かに吹き込む寺の座敷で、えんは小僧に訊ねる。小僧は困ったような顔をして、隣に座る住持を見上げた。

 お前が───と、住持は穏やかな声で言った。

「どうしても嫌だと言うなら別だが、悪い話ではない───いつまでも此処に置くわけにもいかないだろうし、私もあとどれだけ生きていられるか分からない歳だ。」

 小僧が躊躇うように俯く。

───たぶん。

と、えんは言った。

「あちらの寺の貫主様は、この度の事の償いがしたいんだろうね。そんなものに付き合わされるのはごめんだと言うなら、そう言ってやればいい───」

 小僧がそっと顔を上げた。

「───でも、それが分かった上で、貫主様の気が済み、自分も得をするんならいいじゃないかと思えるなら、悪い話じゃあないと、あたしはそう思うけどね。」

 小僧が逡巡(しゅんじゅん)するのを見て、えんは笑う。

「迷うなら、一度会ってみたらどうだい。あたしも会ったことは無いからなんとも言えないが───良い人には違いない様だよ。」

 少し考えて、小僧は今度は頷いた。

「分かりました───そのように、お伝え下さい。」

 えんは頷く。

 住持が穏やかな顔に笑みを浮かべて、小僧を見ていた。



───お待ち下さい。

 帰りかけたえんを呼び止め、小僧がえんのそばに立つ。

 なんだい───と、訊ねると、小僧は寸の間躊躇って、言った。

「───父は、どうなりましたでしょうか。」

 歳に似合わぬ大人びた目で見上げる小僧を、えんは静かに見下ろす。

───知っていたのか。

 えんがそう言うと、小僧は、はい───と頷いた。

「以前、施餓鬼会(せがきえ)をと仰って下さった時から───でございますよね。」

 えんは頷く。

食法餓鬼(じきほうがき)───って言うんだそうだ。」

 聞いた事があるかと訊ねると、小僧は小さく頷いた。

「だから───あんたに説法を頼んだのさ。あの後も、ずっと近くにいた筈だ。」

 はい───と、頷き、小僧はえんを見る。

「姿は見えずとも、ずっと(そば)に居る事は分かっていました。」

 そうか───と、えんは頷く。

「閻魔王からのお呼出しでね───あんたのおかげで、もう十分に満足したらしい。だからもう餓鬼ではいられないのさ───満たされぬ思いに苦しむのが餓鬼だからね。」

 そう言うと、小僧は少し悲しい顔をした。

「わたくしなどの拙い説法では、足しにはならなかったでしょうに。」

 そう言う小僧を、えんは笑う。

「そうじゃない───あんたの説法だからこそ、満ち足りた餓鬼なんて言う面妖なものが出来上がったんだろうさ。」

 父がどんな気持ちで聞いていたか、考えてごらんとそう言うと、小僧は頬を染めて俯いた。

「どんな高僧の説法より、あんたの説法は効いただろうよ───父親だからね。」

 はい───と、小さく頷いて、小僧はえんを見上げる。

「父は───また、ひとの世に生まれましょうか。今度こそ幸せに、生きて下さいましょうか。」

 少しだけ不安げな顔で、そう真っ直ぐに問う小僧にえんは笑みを向ける。

「さあね、あたしには分からないよ。」

 そう言って、えんは小僧を見る。

「なんなら───今夜閻魔堂に来てみるかい。」

 そう訊ねると、小僧は少しだけ逡巡し、いいえ───と首を振った。

「父は───きっと幸せに生きてくれると、わたくしはそう思います。」

 そうか───と、えんは頷く。

「ならきっと、そうなんだろうさ。」

 はい───とそう言って、小僧が笑う。

「わたくしも、父が心配しないですむ様な生き方をします。」

 それがいい───と、そう言って、

「やっぱり僧になるのかい。」

と、問うと、小僧は頷いた。

 それから少し悪戯げな顔をして、

「あれから、和尚様が少し厳しくなりました。」

と、笑みを浮かべてそう言った。

「年が明けたら、母は住込みで働く事になりました。わたくしは、寺にお部屋を頂きます。」

 えんは、そうか───と頷く。

 けじめをつけるのにいい潮時と、母も住持もそう思ったのだろう。

 あの夏の日、暗がりで幼い子を抱えて包丁を握りしめていた女の顔が浮かぶ。えんは唇に静かな笑みを浮かべた。

「───寂しくないかい。」

 近くにいるとは言え、これからは思うように母とも会えなくなるだろう。

 揶揄うように訊ねると、小僧は少しだけ寂しげな顔をして、いいえ───と首を振った。


 帰りぎわ、山門で小僧がえんを見送る。

───それじゃあね。

 そう言って背を向けるえんに、

「ありがとうございました。」

と、少し改まった様子でそう言って、小僧は大人びた仕草で頭を下げた。

 参道の途中で振り返ると、小僧の背中が石段を跳ねるように遠ざかって行く。子供らしいその様子を、えんは微笑みながら見送った。

 見上げると、夕暮れが近づいた秋の空が、ほんのり赤く染まり始めていた。

───今日は、ゆっくり帰ろうか。

 小僧の父の行く末は、後で聞けばそれでいい。それもいいかと思いながら、えんは夕暮れの近い道をゆっくりと歩き出した。


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