29.仏の種
───行ったかい。
そう言って、えんは閻魔王を見上げる。
閻魔王が頷いた。
盆会が終わり送り火も絶えて、夜の閻魔堂には少し肌寒いほどの涼しい夜風がさやさやと吹き込んでくる。秋の虫の鳴き声が、堂の外から聞こえ始めていた。
「生まれ変わったのかい───」
倶生神が肯く。
「つい、先ほど。」
そう言って、倶生神が傍らの鉄札を取る。
思わずその鉄札に目を遣るえんを、閻魔王が笑った。
「心配せずとも、無事人として生まれ変わっておる───平穏に過ごせるかどうかは、本人次第だがな。」
そうか、そうだね───と、えんは静かに笑って頷いた。
「大丈夫で御座いましょう。我が子がしっかりと後を弔ってくれているようですから。」
倶生神が笑みを浮かべる。
「今度は連れて来なかったのか。」
閻魔王が、皮肉げな顔でそう言った。
「───本人が、来ないと決めたのさ。」
いつまでも一緒にいるべきではないと分かっていても、会えば互いに別れ難くなる。子供心にもそれが、分かっていたのだろう。
───賢い子だな。
と、閻魔王が呟いた。
「こういう時には、子供の方が潔いものでございますね。」
倶生神が感心した様にそう言う。
えんは、ああ───と、頷いた。
「本気で僧になるようだよ。その内にあの二人がいた寺に入るかも知れない。貫主が弟子にしてみたいと言ってるそうだからね。」
閻魔王が、笑いながら顔を顰める。
「何もその様な曰くの付いた寺へ入らずともよかろうに、物好きな事だ。」
───そうでもないだろうさ。
そう言って、えんは閻魔王を見上げる。
「あの子も世間では罪人の子だよ。それは何処へ行っても、ついて回るだろうさ。分かっていて弟子にする方が、物好きなんだよ。」
倶生神が少し悲しげに頷く。
「そうかもしれません───しかし、どちらもそれを承知の上なら、それで良い事ではありませんか。」
ああ、そうだね───と、そう言って、えんは堂の外に目をやった。
秋の空に、十五夜を過ぎたばかりの月が明るく光っている。
「あの二人は、どうしてる───」
あの夜の、月明りに浮かぶ若い僧の顔を思い出し、えんはぽつりとそう訊ねる。
倶生神が微笑んで、傍の鉄札を取った。
「若い方は、無事師の元に届いたそうにございます。既に修行を始めているとか。」
鉄札の面をそっと眺める倶生神に、えんは、そうか───と、頷く。
「なかなかに強情だとは思ったが、無間地獄の苦にも揺るがなかったようだ。地獄の獄卒を師とする事に、戸惑いも恐れもなく、ただ素直に喜んでいると、当の獄卒鬼が呆れておった。」
そう言って、閻魔王が笑った。
倶生神が、笑みを浮かべる。
「あの方が呆れる程なら、さぞかし立派な僧となりましょうに。」
さて───と、閻魔王は首を捻る。
「既に菩薩の位を得ながら、獄卒の姿を取るような捻くれ者を師とするのだ───立派とはまた少し、違った僧が出来るかも知れぬぞ。」
そう言って笑う閻魔王を、えんは驚いた顔で見上げた。
「仏様が、地獄の鬼をやってるのかい。」
問うと、閻魔王が頷く。
「地獄に在る仏は案外に多いと言っただろう。中にはそうした仏も在る。」
納得のいかない顔で見上げるえんに、倶生神が微笑む。
「地獄には、優しいばかりでは救えぬ罪人も多いのです。罪を知り、罪を悔いる者でなければ、仏と言えど救う事は出来ませぬ───」
ですから───と、倶生神はえんを見る。
「己の罪に向き合わぬ者には、その手を汚して責め立ててでも、罪を教える仏も居ります。姿は恐ろしい獄卒鬼でも、心の内に深い慈悲を持つ───立派な仏に御座います。」
へえ───と、えんは赤青の獄卒鬼等に、目を遣る。目が合うと、獄卒鬼等はにやりと笑った。
「さて我々は、それほどに立派なものではありませぬ。」
「精々が、罪人どもを責め立てて憂さを晴らすばかり。」
そう口々にいう獄卒鬼等が、案外に情が深い事をえんは思い出す。仏とは行かずとも、彼等も見た目の恐ろしさの下に、慈悲の心をしっかりと持っているのだろう。
「この世には、自らの手を延べて苦しむ者を救おうという仏もちゃんといる。ただ───延べられる手が優しいとは限らぬがな。」
そう言って笑う閻魔王自身が、罪人と向き合い、その手を汚す事を厭わぬ仏なのだと知るえんは、閻魔王を見上げて唇に小さな笑みを浮かべる。
地獄へやった師僧の方はどうしたかと尋ねると、獄卒鬼等が、さて───と笑った。
「手近な門より放り込んで来ましたゆえ、どうなったやら───」
乱暴だね───と、苦笑するえんに、獄卒鬼等は笑って答える。
「道すがらひとを救って歩く様な罪人は、放って置いても構いはしませぬ。」
「これで、我等も忙しい身に御座いますゆえ。」
それで十分と、口々にそう言う獄卒鬼等を見て、えんはほっと息を吐いた。
───どうした。
と、閻魔王が笑う。
「あれは僧だと言ったではないか。」
笑って頷き、えんは閻魔王を見上げる。
「けど───あの世も地獄もついこの間までは、無いものと思い定めてきたんだろう。そう急に、変われるものかと思ったのさ。」
えんがそう言うと、閻魔王は面白そうに笑った。
「信じずとも、知らなかったわけではあるまい。見えぬものは信じぬが、目の前に見れば躊躇わず受け入れる───それがあのおとこの才なのだろうな。」
なら───と、えんは笑う。
「いずれ仏も信じるだろうよ。目の前に見ただけじゃなく、その手で散々な目に合わされたんだからね。もっとも───仏とは見えなかったかも知れないが。」
悪戯げな笑みを浮かべて見上げるえんを、閻魔王が睨む。
「浄土で善人を迎えるばかりが仏ではないわ。それでは罪人どもは身の置き所があるまい。」
───ああ、そうだねえ。
そう言って、えんは笑う。
どれほどの罪を犯した者にも、欲に執われ藻掻く者にも、在るべき場所を与えるのが、閻魔王の慈悲なのだと、えんは知っている。
笑みを浮かべるえんを見下ろし、閻魔王が云う。
「地獄とて浄土と同じ仏法に守られた地、幼いお前はそれをちゃんと分かっていたぞ。」
さて───そうだったか。
そう憎まれ口を利いて、えんは開け放したままの戸口に立って空を見上げる。冴え冴えとした明るい月が地を照らしている。
久し振りに、何もかも収まるところに収まった気がして、えんは心地よく伸びをした。
それぞれに、いろんな思いを抱いてそこに在るんだろうが───
それでも、皆が在るべき場所で己の思いを追うのなら、それは幸いなのだろう。高く昇った月を見上げて、えんはそう思う。
気がつけば、背後がゆっくりと闇に落ちて行く。えんは振り返らず、後ろ手で静かに堂の扉を閉めた。
初秋の夜半は穏やかで、涼風が静かに流れ、月明かりに煌めく夜露が美しい。
この美しい夜もまた、恒河の砂の数ほどもいるという幾多の仏に守られているのだろう。
えんは、僧である事を決して棄てないと閻魔王を見上げたあの若い僧を思い出す。数多の仏を生むほどにひとの思いというものは強いのだと、えんはふっと小さなため息をついた。
───仏の種か、敵わないねえ。
呟いて、えんは目を上げる。
僧が皆、仏になれるわけもない。それでも彼等は心の内に、それぞれ仏の種を持つ。どれ程の種が芽吹くものかは知らないが、悪の種から悪の実が育つ様に、仏の種は芽吹けばやがて仏果を得るのだろう。
ふうっと大きく息を吐き、誰かの思いが守る景色の中をえんはゆっくりと歩き出す。
見ればいつもと同じ道の先に、どこまでも穏やかな夜半の野辺が続いていた───




