22.果
さて───
閻魔王の声が響く。
「次は、お前だ───少しは堪えたか。」
己の置かれた地獄の苦を思い出したのだろう。おとこは苦い顔で自嘲した。
閻魔王が厳しい顔でおとこを見下ろす。
「あの者を、地獄へ堕としたのはお前だ───分かっているな。」
「分かっております───」
おとこが首肯く。
「殺されたのが私でさえなかったなら、決してあのような死に方はさせませんでした。弟子として手元に置いたなら、面白い僧になったでしょう───惜しい事を致しました。」
閻魔王がおとこを睨む。
「口が減らぬな、責苦が足りなかったか。」
いいえ───と、おとこが首を振った。
「減らず口では有りません、真実を申し上げた迄でございます。」
そう言って膝元に目を落とし、おとこは言う。
「詰まらぬ事で、弟子を失いました。己の命は自業自得と納得して居りますが、あの者には申し訳ない事を致しました───」
倶生神が傍らの鉄札にちらりと目を遣る。
閻魔王が、憂い顔で頷いた。
「捕らわれて随分と苦悩した上で刑死した───己で犯した罪ゆえ仕方なかろうがな。」
おとこは苦々しげな顔を上げた。
「取り繕う術など幾らでもあったものを───」
吐き捨てる様にそう言って、おとこは顔を顰める。唇の端に皮肉げな笑みが僅かに浮かんでいた。
「私ならばそうしていました。私が寺内で貫主に次ぐ位を得ていたのは、躊躇わずにそれが出来るからです。貫主は己の事をよく弁えていらっしゃる。善良で、策を巡らす事など出来ぬ方だ───不測の事態にさぞ狼狽えられた事だろう。」
嘲るようにそう言って、おとこはふっと小さなため息を吐いた。
「あの方の事、どうにも出来ぬなりに、今頃さぞ心を痛めているでしょう。それはそれで───気の毒な事。」
そう言って、おとこは閻魔王を見上げる。
「さて、何から申し上げましょうか。」
呆れたようにおとこを見下ろし、閻魔王はふんと笑った。
「今度は覚悟が出来ているようだな。」
おとこは観念した様に、薄く笑みを浮かべる。
「もう、言い逃れるつもりはありません───身に染みました。」
そうか。と、閻魔王が頷いた。
「ならば、えん───」
不意に呼ばれて、えんは須弥壇上の閻魔王を見上げる。その顔に揶揄うような笑みが見えた。
「訊きたい事があるのだろう。訊いてみたらどうだ。」
おとこが振り返り、えんを見上げる。
閻魔王を睨んで置いて、えんは須弥壇の横手に立った。蝋燭の灯りがえんを照らす。
「───以前に、会ったな。」
おとこが呟く。えんは頷いた。
「随分と酷い目に遭ったみたいじゃないか。」
少し皮肉を込めてそう言ってやると、おとこは、そうだな───と、頷いた。
「訊きたい事はひとつだけさ───あんた、何をしたんだい。」
えんが問うと、おとこは嗤った。
「聞いていただろう───」
───じゃあ、と、えんはおとこに問う。
「なんで、そんな事をした?」
おとこの目が、えんを見る。
倶生神が、手にした鉄札からそっと目を上げた。
「───答えよ。」
黙ったままのおとこに、閻魔王が命じる。閻魔王を見上げ、おとこは諦めたように項垂れた。
「───知りたかったからだ。」
そう言って、おとこは顔を上げてえんを見た。
「他の者はどうするのか、知りたかった。どうすれば良かったのか、どうすべきだったのか。そして、罪を犯したその末に何が待つのか───それが、知りたかった。」
苦々しい顔でそう言って、おとこは倶生神の手にある鉄札を見た。
「どういう、ことだい。」
倶生神が小さく眉を顰めて、えんを見る。
「───この者は、同じ事を師僧に求められていたのです。」
静かにそう言って、倶生神は口を噤む。
おとこが小さく溜息を吐いた。
「師は幼い頃から私に伽を命じた。拒んでも無駄だった。言う事を聞かなければ、無理にも従わされる───」
浄玻璃鏡の面が、おとこの心の内に残る状景を映す。鏡の面に目を遣る者は、誰も無かった。
「幸か不幸か、私は逃げ出す事も出来なかった───もっとも、師はそれが分かっていたのだろう。」
私には───と、おとこは言った。
「───帰る所がない。元は武家だったが、不始末があって父は腹を切った。母は私を寺に入れた後、父の後を追った。」
俯いて立つえんを、乾いたおとこの目が見上げる。
「逃げ出しても行くところはない。幼い頃の私は、死ぬのも恐ろしかった。今思えば、そう教えられていたのだろう───よく地獄絵を見せられたのを覚えている。」
そう言って、おとこは皮肉げに笑って見せた。
「どうする事も出来ず、その頃の私はただ祈った。そして、仏は救っても応えてもくれない事を知った。散々私を嬲った師は、表では高僧と慕われ、やがて大往生と言われて逝った。穏やかなものだった。」
───報いさえもありはしない。そう知ったのだと、おとこは吐き捨てるようにそう言った。
「仏など、ない。ならば浄土もない。罪の報いが無いのなら、地獄もありはしない。法も道も、学んで見れば皆世を生き易くする為の方便だ。そこに仏は必要ない───だから私は、仏を信じるのをやめた。」
そう言って、おとこは閻魔王を見上げる。
「私は仏を信じない───しかし、私は信ぜずとも信じる者は居る。私には在りもしない仏でも、在ると思って救われる者もいる。なら、上手く使えばそれは力になる。信じもしない仏を十分に利用し、名を上げさせて頂きました。」
閻魔王が、小さな溜息をついた。
「己では信じもしない仏を使い、地位を築いて───お前は何をした。」
以前と同じ問いを、閻魔王はおとこに投げる。
「師と同じ───罪を犯しました。」
もう、言い逃れる事はしないと言ったおとこは苦しげに息を吐き、閻魔王を見上げたままでそう答えた。
「地位を得、力を得るほどに、己の処し方が正しかったのかが分からなくなった───だから、確かめたかったのです。」
苦々しい顔で見上げるおとこを、閻魔王は静かに見下ろす。
「己の闇を、幾度も繰り返して───答えは、出たか。」
顔に慚愧の表情を浮かべ、おとこは項垂れて首を振った。
───愚かだな。
閻魔王が静かに呟く。
「仏を信じぬのなら、何故せめて己を信じぬ。屈辱を越え、仏も師も縋るに足りぬと切捨てて、お前は己自身に縋ってその位を得た───それが答えだ。何も間違ってはいなかったものを。」
おとこが、顔を上げる。
閻魔王は悲しげにおとこを見下ろした。
「罪無き者を救いもせず、罪有る者に罰も下さぬ───なら、仏などは無いと、そう思って生きて来たのであろう。仏にもひとにも縋らず、己に縋って生きるのならば、己を信じ、信念を貫けばよかったのだ。つまらぬ事に囚われず、ただ己の心に従っておれば、この様な場には居らずに済んだものを───」
───愚か者め。
そう言って、閻魔王は溜息を吐く。
「───罪の果てを知りたいか。」
厳めしい顔で問う閻魔王を見つめて、おとこが頷いた。
「よかろう───倶生神。」
はい。と応えて倶生神が顔を上げる。
「このおとこの師は、どうなった。」
閻魔王の問いに、倶生神は傍にある鉄札の一枚を取り上げる。
「その者は、今も無間地獄に居ります。」
鉄札の面に走らせた目を上げて、倶生神が言った。
「己の悪行の罰を受けているか。」
閻魔王の言葉に、倶生神は首を振る。
「いえ、未だ罰を受けるには至っておりません。」
倶生神に向けられたおとこの眼差しが、険しくなる。
「───現在は、無間地獄の内にある『孤地獄』に、己の幻影とともに囚われて居ります。」
そう言って、手元の鉄札に目を落とし、倶生神は憫れむ様な顔をした。
「己の幻影からは逃げられませぬ。己が他人にした事を、いつ迄とも無く繰り返され───己が何をしたのかを、思い知らされておりましょう。」
ううっ───と、呻く声がした。
見れば、おとこが地に蹲る様にして声を上げている。着いた手が、地を掴むように握り込まれ、ぽつりと涙の粒が落ちた。
「地獄には、一切の快楽が無い。なれば、ただ苦痛のみを感じておるだろう───いずれ時が来れば改めて無間地獄へ堕とし、己が蒔いた悪果の種が尽きるまで罪の報いを受けさせてやる。」
おとこの呻きが嗚咽に変わり、堂内に静かに響く。見下ろす閻魔王の顔に、寸の間憐憫の色が浮かんだのを、えんは見逃さなかった。
「悪因は悪果を生む。師の行ないに苦しみながら、お前はその師と同様、悪果を生じる因を作った───その罪は、軽くはないぞ。」
おとこが、顔を上げる。
「お前は既に、罪には報いのある事が分かっている筈だ───罪の報いに師僧と同様孤地獄へ繋ぎ、己のした事を分からせてくれようか!」
憐憫を隠し、怒りを含ませた閻魔王の声が響く。その顔に苦悶の表情を浮かべて、おとこが項垂れる。
「御存分に───。」
苦悶に顔を歪め、おとこは項垂れたままそう言った。
「赦しは、乞わぬか。」
厳しい声で、閻魔王が問う。
「赦しを乞える立場に無い事は、自身が一番よく分かっております。」
答えておとこは、閻魔王を見上げた。
「ですから、どうか───御存分に。」
もう一度そう言って、おとこは目を伏せる。その肩が、覚悟の重さに震えていた。
「───いいだろう。」
閻魔王が頷き、ふっと息を吐く。
「お前を師と同じ目に合わせたところで仕方がない。お前は───自分のした事が分かっているからな。」
そう言って、閻魔王は厳しい顔でおとこを見つめる。
「分かっている筈だ───師の場合と同様、お前の蒔いた悪因という種は、育って悪果を結び、さらにまた種を作る。ひと粒の罪の種が幾世代かを経る内に、幾千もの実を結び、また幾万もの種を生む。」
おとこが俯き、唇を噛む。
「一度蒔かれた種は容易には尽きぬ。そしてそれは、やがてお前の身に返るのだ───此処は追善も、また追悪も届く場所だぞ。お前の蒔いた悪因の種が実を結び続ける限り、お前を地獄から出す事は出来ぬ。」
そう言って、閻魔王は倶生神を呼んだ。
「地獄は広く数も多い───この広大な地獄の内には、どれ程の数の地獄がある。」
さて───と、倶生神は閻魔王を見上げる。
「大きくは八大地獄を数え、細かくは百三十六とも六万四千とも申します。」
───そうか。
閻魔王が頷く。
「お前は先程の者とは違い、既に僧としての地位を得ている。たとえ仏を信ぜずとも、僧として既に長い時を過ごし、法を学び道を知った上で此処にいるのだ───罪は限りなく重いものと思え。」
おとこが、静かに顔を上げた。
「───無間地獄行きは免れぬ、見るがいい。」
閻魔王が浄玻璃の鏡を指す。
おとこが目を凝らすと、鏡の面がゆらりと揺らいだ───
獄卒の手に捕らえられ、僧形の罪人が身を捩る。
おとこには、鏡に映る罪人のその心情までが手に取るように見えていた。
身を捩り、赦しを請う罪人はそれが無駄な事だと知っている。
此処に堕とされてから、どれだけの時が過ぎているのか。苛烈な責苦に、既に時の感覚は失われていた。
獄卒の刃が下腹に食い込む。ぶつりという音とともに、陽物が断ち落とされる。
幾人もの弟子を汚した物を断ち落とされ、衣を剥がれた身から皮を剥ぎ取られて、灼けた鉄串に尻の穴から頭頂までを刺し貫かれる。そうして、その身が焼け失せるまで焔に炙られるのが、その罪人に科された責め苦だった。
下腹の痛みに呻く罪人を掴み上げ、獄卒が身の方々に刃を入れてゆく。やがてその傷口に手を掛けて、総身の皮を剥ぎ裂かれるのだ。
怖ろしさに震えながら、その罪人は我が身を振り返り、救いの無さに涙する。
その罪人の蒔いた悪因は既にあちこちに悪果を結び、それらは追悪の業として自身の身に積まれてゆく。どう取り繕ったところで、どう詫びたところで、赦される筈もない。地獄の責め苦から逃れる術はない───
獄卒の手が、べりべりと罪人の身から、皮を剥ぎ取ってゆく。傷に手が掛かる度にその罪人は悲鳴を上げて許しを乞うが、獄卒の手に容赦はない。やがて総身の皮を剥ぎ取られ、その罪人は苦痛に疲れてぐったりと地に身を横たえた。
恐怖と後悔、そして諦めが罪人を襲う。地獄の責め苦から逃れる事は出来ない。獄卒が既に火の中から取り上げ、目の前にかざしている鉄串に貫かれ、焔に炙られ焼け失せたとしても、無間地獄に堕ちた身には死の安らぎは訪れない。ほんの一時死ぬ事さえも許されず、生きたままその身が元に帰るのを、為す術もなく見ねばならない。そうして、元の姿で獄卒の前に据わり、繰り返される責め苦の恐怖に震えねばならない───
ずぶりと熱く焼けた鉄串を刺し込まれて、その罪人は苦痛に叫ぶ。どれほど叫んだところで獄卒の手が緩む事はない。太い鉄串は次第におとこの臓腑を破りながら、その身をゆっくりと貫いてゆく。
頭蓋の内を貫かれ、その罪人は地獄でなければ生きてはいられない筈の苦痛に身悶える。脳味噌が灼かれ、目の前が霞むが、焔の中に入れられれば、目玉などすぐにも焼け失せて、何も見えなくなる。真っ暗な焔の中でただ身が焼けていくのを感じながら、その身が焼け失せるのを待つ時が、その罪人には最も辛かった。
───己が何をしたのかを、思い出すがいい。
獄卒が罪人にそう言い渡し、串に刺された身を焔に投じる。じりじりと焼かれてゆく苦しさに悶えながら、罪人は闇の中に自分の罪を見せられる。既にどうする事も出来ないその罪を。
罪人の泣き声が響く。
後悔と苦悶に満ちたその声を、獄卒等が嘲笑う。
───最早、遅い。
そう云って嗤うのだ。
取り返しの付かぬ罪を見せられながら、いつまでとも知れず続く苦しみに、罪人は泣き続ける───
───見たか。
そう問われ、おとこは我に返る。
地獄の責苦の有り様が、生々しくその身に残っていた。
「あれが、いずれはお前が繋がれる、無間地獄の苦だ。」
身を抱いて俯いたおとこの顔には、恐怖と共にどこか納得した様な表情が浮かんでいる。
「───だが、お前の罪は重い。ただ真っ直ぐに無間地獄に落とすだけでは生温いほどにな。だからお前は無間地獄ヘ到る前に、無数にあるという地獄の全てを巡るのだ。仏を信じてこなかったお前には、縋るものとてあるまい。共に行ってくれる者も無い。次第に深くなる地獄の、恐怖と苦痛に耐え切れなくなったその時に、無間地獄に至るがよい。」
突き放すようにそう言って、閻魔王はおとこを厳しい顔で見下ろした。
おとこが静かに顔を上げる。そうして、おとこは閻魔王を見上げ、
───ありがとう、御座います。
と、そう言った。
えんは、驚いておとこを見る。
その顔には穏やかな表情が浮かび、唇には僅かに笑みさえ浮かんでいる。
閻魔王がふんと笑った。
「良いのか、それで───」
おとこは深く頭を下げて、
「───得心が、ゆきました。」
と、そう言って、長い息を吐いた。
閻魔王が、獄卒鬼を呼ぶ。
何処からともなく現れた赤青の獄卒鬼等が、須弥壇下に膝をつく。
「───連れて行け。」
おとこが立ち上がり、清々しい顔でえんを振り返った。
「出来たら我が寺の貫主に伝えてくれ。どちらも納得のゆく道を与えられ、行くべき道を行った───だからもう気に病まずともよい、と。」
えんは頷き、問う。
「───あんたの道も、納得できる道なのかい。」
そう言いながら、えんは浄玻璃鏡に映し出された無間地獄の様を思う。犯した罪の報いとは言え、到底納得のいく行く末ではないだろう。しかも、おとこにはこれから地獄を巡る長い苦悶の時が待っている。
しかし、おとこは僅かに皮肉気な笑みを浮かべて肯いた。
「無論だ。来た道が間違っていないのなら、行く道も変わりはしない───長い間の胸のつかえも取れた。」
えんは、おとこを見上げる。
「地獄を巡って、行き着く先は無間地獄なんだろう───怖くないのか。」
えんがそう云うと、おとこは笑った。
「恐ろしいとも。けれどもそれは、罪の報いだ。」
そう言っておとこは、えんを見る。
「───貫主殿は、あれでも私を見出してくれた方だ。もう、傍らでお助けする事は出来ないが、許してくれと伝えてくれ。」
えんはふうと息を吐き、肯く。
「───分かったよ。」
とそう言うと、おとこはえんに礼を言った。
「少しでも、気持ちが楽になられれば良いが───」
呟く様にそう言って、おとこはえんに背を向ける。待ち兼ねた赤青の獄卒鬼等に引き立てられて、おとこは奥の闇へと消えて行った───
「酷いね───」
おとこの背を見送って、えんは呟いた。
「───なにが酷い。」
笑みを浮かべて問う閻魔王をえんを、えんは顔を顰めて見上げた。
「だって───」
と、そう言って、えんは浄玻璃の鏡に映る無間地獄の苦の様を思い出す。
「確かに罪は深いんだろうが───あれ程の罰を受けるほど、悪い奴だったのかい。」
後味の悪い思いでそう言うと、閻魔王は笑った。
「構うまい。どうせあの者が罪人として無間地獄ヘ至る事はないだろうからな。」
怪訝な顔で見上げるえんを見て、閻魔王は再び笑った。
「仏を信ぜずとも、あの者は僧だ。誰より法を学んでもいる。地獄を脱する方法など幾らも知っている筈だ。己の為すべき事を知れば、いつまでも地獄の罪人では居るまい───」
そう言って、閻魔王は皮肉げな顔をした。
「───地獄でただ苦しんでいたところでなんの益もない事を、あのおとこはよく知っているからな。」
僧であれば───と、倶生神が笑みを浮かべる。
「為すべきは、他人を救う事で御座いましょう。地獄の内で苦しむ者を救うのは───それはもう、罪人とは申せませぬ。」
えんは、倶生神を見上げた。
「じゃあ、なんなのさ。」
倶生神が、微笑みを浮かべてえんを見る。
「御仏───にごさいましょう。」
そう言って、倶生神は笑った。
「───そういう事だ。信ずるに足る仏がなければ、己がなればよい。僧とは仏の種を持つ者、時は幾らでもある。道さえ誤らねば、無間地獄に至らぬうちに目指すものを得るだろう。そうでなくとも───悪果の種など尽き果てようぞ。」
そう言う閻魔王を、えんは呆れた顔で見上げた。
「それでも今は地獄の罪人だろう───道を誤ったらどうするのさ。」
閻魔王がふんと笑う。
「万一、道を外れた時には、裁きの通りの行く末が待つだけだ。」
もっとも───と、閻魔王はえんを見る。
「───あの者は、罪には報いのある事を知っている。容易に道を誤る事はあるまいがな。」
そう言って、閻魔王は面白そうに笑った。
「心配はあるまい。あの者は、捉われるものがない。唯一あの者を縛っていた闇からも解き放たれた───これからは己の信念に従って、思う道を行くだろう。」
倶生神が穏やかな笑みを浮かべて、手にした鉄札に目を落とす。
「生前───あの僧は己の信念に従って、多くの者を救いもしたのです。」
閻魔王が頷く。
「ああして地獄へ放して置けば多くの者を救うだろう───それで仏と呼ばれる事になれば、当の本人は嫌がるかも知れぬがな。」
そう言って笑う閻魔王を見上げて、えんはおとこの顔を思い出す。
もしも本当にそうなったなら、おとこは皮肉げな顔で、
───そのようなものではない、と心底嫌そうにそう云うだろう。
そう思って、えんはくすりと笑った。
───分かったよ。
そう言って、えんは須弥壇を見上げる。
「若い方はどうなるんだい。」
問うと、倶生神は傍に置かれていた鉄札を取り上げた。穏やかな目でその面を眺めて、えんを見る。
「新しい師の元で、厳しい修行を積む事になりましょう。」
閻魔王が頷く。
「まだ僧がどの様なものなのかさえ知らぬのだ。学ぶべき事は幾らもあろう。一度は師をその手にかけたのだから、此の度は殊に厳しき師を用意しておいた。修行の辛さに音を上げねばよいがな。」
地獄の内でも最も深く厳しいという無間地獄で、一体どの様な行を積む事になるのか。問うと、閻魔王はにやりと笑った。
「法を知り、道を学び───世の為、他者の為に祈るのだ。」
───それだけかい?
ひとの世と何も変わらなく思えるその答えに拍子抜けして、えんは思わずそう言って閻魔王を見上げた。
「それだけだ。どこに在ろうと、僧としてすべき事は変わりはしない───ただ。」
と、閻魔王はえんを見る。
「無間地獄に在るのは辛いぞ───罪を犯した僧等は、己の身を無間地獄に置き、地獄の苦をその身に受けながら、己の事は脇に置き、他人を救う為に道を学び祈るのだ。それが彼等に課される行であり、受ける報いだ。」
生きている人間がその様をつぶさに聞けば、血を吐いて死ぬと言われるほどに、無間地獄の苦は苛酷だと言う。呵責を受けぬまでも、そこに置かれた者は間断の無い苦しみを受ける。その無間地獄のただ中で、己の事は微塵も願わず、他人の為に学び祈れる者が居るならそれは───
「そんな事が出来る奴は───それはもう仏様か。」
閻魔王が笑う。
「そう言うことだ───それゆえ、厳しく問い糾したのだ。本当に僧としての道を貫くのかとな。」
そこで揺らぐ様なら、どうせ修行が成る事はない。ただ無間地獄の罪人と成るだけだろう。
「己で道を選んだのだ、後戻りは出来ぬ。しかも、それはまだまだ遠い道のりだ。あの者は、仏となる前にまずは僧とならねばならぬのだからな。」
厳しい声音で言ってみせる閻魔王に、倶生神が笑みを向ける。
「大丈夫で御座いましょう。閻魔王様があれほど嚇かしても、微塵も揺らがぬ強い思いを持って臨むのです。それに───」
と、倶生神は意味有りげに笑う。
「あの方が師であれば、決して中途半端な事は致しますまい。」
倶生神を見上げ、えんはふっと息を吐く。
「地獄の罪人が、仏になるのか───」
呟くと、閻魔王が笑った。
「不思議に思うか───しかし案外に、地獄の底から生じる仏も多いのだ。そうした名もない仏が、世には幾らも在る。三千世界には、恒河の砂の数ほどの仏が居るというからな。」
本当かい───。
驚いてそう問うと、閻魔王は知らぬわと笑った。
「我とて数えてみるほど暇ではない。だが───浄土天界には幾らでもいる。」
そう云う閻魔王自身もまた、仏の列に身を置いているのだと、えんは思わず笑みを浮かべる。
「そういうものか。」
そう言って見上げると、
「そういうものだ。」
と、閻魔王は楽しげに笑った───




