21.道
夜風が涼しく吹いていた。
夜も更けて、澄んだ半月は既に西に傾いている。漸く非人等が帰って行く足音を聞いて、えんは夜半の道を閻魔堂へと向かっていた。
僧衣のままで磔にされた僧の仕置きが物珍しかった所為だろう。藪の中に続く道は多くの野次馬の足に踏みしだかれ、いつもより幾分歩きやすかった。
遠くに、閻魔堂の小さな灯りが揺れる。
虫の音が響く小道を慣れた足取りで辿り、やがて消えたばかりの篝火の煙と凝った血の匂いを嗅いで、えんは暗く広がる刑場に目を遣った。
風に流される雲が、時折月を隠しては過ぎる。
明滅する刑場には、僧衣の骸が晒されている。只の骸とは言いながら、無残なその様にえんはそっと眉を顰めた。
夜風に雲が切れる。澄んだ半月が、磔られた骸のがっくりと項垂れた顔を照す。その顔が苦しげに歪められてはいないのを見て取って、えんは小さくほっと息をついた。
骸に背を向け、えんは閻魔堂の前に立つ。
扉に手を掛けると、僅かに開いた隙間から漏れ出す灯りが、足元に筋を作った。
開いた扉の隙間から、えんはそっと堂内を覗き込む───
仄かに揺れる蝋燭の光。
須弥壇上に厳しい顔で壇下を睨む閻魔王。
その傍らに鉄札を取る倶生神。
壇下には、赤と青の獄卒鬼がそれぞれに罪人を引き据えている。
えんの眼前でそれらは忽ち精彩を帯びてゆく。
浄玻璃の鏡が揺らめく蝋燭の光を映してきらりと光った───
「入れ、えん。」
閻魔王の声が、高く響く。
えんは僅かに扉を開けて、堂内へと身を入れた。
裁きの場に立ち、えんは引き据えられた二つの僧形の影を見る。
項垂れた顔はどちらも蒼白で、以前に此処で見た僧の方が、年嵩の分か僅かに落ち着いて見えた。
「申し訳、御座いませんでした。」
閻魔王が口を開くより先に、若い僧が静かに両手をついてそう言った。その目は、もうひとりの僧に真っ直ぐに向けられている。
年嵩の僧がたじろぐのが分かった。
若い僧が深く、頭を下げる。
殺した者と殺された者───二人が師弟であったのだと、えんは思い至る。
「謝罪すべきは私の方だろう───すべては、私の所為だ。」
そう言って、師であるおとこは若い僧の顔を上げさせた。
───いいえ。と、若い僧はおとこの顔を見上げて言う。
「初めはそうも思いました。しかし、手を上げましたのは、私でございます。私の短慮の為に現在の師を殺し、かつての師にも罪を負わせる事になってしまいました───」
悲しげに俯く彼に、「私の、所為だ───。」と、おとこは再び、苦々しげにそう言った。
「───双方、己の罪は分かっているようだな。」
えんが問うような目を向けると、閻魔王はそう云って二人の僧を見下ろした。
「お前達は罪を犯した。それは、どちらかが悪いというような単純なものでは無い。それぞれに犯した罪があり、負うべき責めがあろう。これからそれを、順に明らかにしてやる。」
そう言って、閻魔王は傍らに立つ倶生神に目を遣る。
「まずは師僧を殺した者からだ───その者の罪を上げよ。」
倶生神が畏まり、鉄札を取る。
「申し上げます───この者においては、師殺しの罪以前にはそう大きな罪は見られませぬ。しかしそうは申しましても、この罪ばかりは大罪に御座います。」
そう言うと、倶生神は細めた目で若い僧を見下ろした。
「───僧でありながら、怒りに我を忘れ戒を忘れて、人をそれも己の師である者を手に掛け死に至らしめた罪は、無間地獄にも堕ちる重罪。さらに、その罪によりかつての師に罪を負わせ、多くの者の心中にも傷を残しております。当人も刑場に骸を晒す身なれば、己の罪の重き事は重々承知の筈。この上は、どうぞ厳しき御裁断を───」
そう言って、倶生神は閻魔王を見上げて畏まる。若い僧はじっと項垂れたまま、聞いていた。
「他に、取り上げるべき罪はあるか。」
閻魔王が問うと、倶生神は再び鉄札に目を落とし、
「申しました通り───大きな罪は、御座いません。」と、僅かに躊躇いそう答えた。
───どうした。
閻魔王が重ねて問う。
「いえ───これはこの者の罪とは言えませぬが、この者は寺稚児で御座いました故。」
と、倶生神が意味ありげに閻魔王を見上げる。閻魔王が、そうかと頷いた。
「多くの僧等を惑わせたか───仕方があるまい、それ故に養われておったのだろうからな。罪があるとすれば惑わされた方、それはまた別の機会に裁いてくれよう。」
閻魔王の言葉に倶生神が肯く。
項垂れていた若い僧が静かに顔を上げた。
「どうだ、倶生神の言上に間違いはないか。」
これまでに、幾度も繰り返された問いなのだろう。彼は頷き、
「相違、御座いません。」とそう言った。
そうして、少し悲しげな顔で、しかし───と続ける。
「私が稚児として養われたのはその通りでございますが、皆さまを惑わせたつもりはありません。ただ───幼い頃より本当に慈しんで頂きました。その事で、皆さまに責を負わせる事になるならば、心苦しく思います───」
若い僧は眉根を寄せて閻魔王を見上げ、真っ直ぐにそう言った。
閻魔王が面白そうに彼を見下ろす。
「どうやら、お前に惑った者は多そうだな。だが、ひとは各々に己の罪を負わねばならぬもの───今は他人の事よりも、己の心配をする事だ。」
閻魔王は、改めて厳しい顔で彼を見下ろし、そう言った。
「倶生神の言葉が確かなら、お前の罪は重い───」
若い僧が、はいと答えて項垂れる。
「何故───師僧に手を上げた。」
閻魔王が問い質すと、彼は黙ったまま閻魔王を見上げた。
「殺してしまう程の怒りを感じたのであろう? それは何故かと聞いているのだ───」
───答えぬか!
黙ったままの彼に、閻魔王が声を荒げる。若い僧は、黙ったまま俯いた。
俯く彼に代わるように、師であるおとこが顔を上げる。
「私が、夜伽を命じたからに御座います。」
俯き口籠もる彼の横合いから、おとこが閻魔王を見上げて静かにそう答えた。
「───この者は、私が彼が稚児だった事を知って侮ったのだと思い、強い怒りを覚えたのでしょう。」
涙を湛えた彼の目が、おとこを見る。
「私は───稚児であった事を恥じはしないと、そう決めておりました。それなら私は、怒りを覚えるべきでは無かった───怒りをぶつけずとも、他に幾らもやり様があった筈です。あの時師が仰った通り私には慣れた事、そして、こうした事は慣れねばならぬ事だったのですから。」
そう、早口に訴える彼に向き直り、おとこは言う。
「───違うのだ。」
語気を強めてそう言うおとこを、彼は訝しげに見上げた。
「それ程に整った顔立ちをしていれば、そうではないかとは思ったが、お前が稚児だった事を知って侮った訳では無い───誰でも同じだったのだ。」
そう言っておとこは己の膝元に目を落とし、少しの間躊躇って再び顔を上げる。
「───寺内で地位を得て以来、弟子となる全ての者に、同じ事をして来た。それが───私の罪だ。」
彼の視線を避けるように項垂れ、おとこは言う。
「拒む者に無理を強いた事はないが、師弟であれば多くは従う。はっきり嫌だと言わなければ、泣く者を組み伏せた事もある───だから、私が命を落としたのは、当然の報いだ。」
そう言って、おとこは静かに顔を上げた。
「私の所為で罪を犯させた───辛い思いをさせた事と思う。」
───済まなかった。
深く頭を下げるおとこを、若い僧がじっと見つめる。
「罪を犯した覚えは無いと、言ったのではなかったか。」
閻魔王が皮肉げに問う。
「そのつもり───だったのですが。」
と、そう言って、おとこは閻魔王を見上げた。
「この度の事は、私から起こった事───私の罪に御座います。」
閻魔王が頷く。
「お前の罪は、この度の事だけではない。後程、重ねて来た悪事のすべてを吟味し、裁きを下してやる。だが、今はこの者の裁きだ。」
そう言って、閻魔王は若い僧を見下ろした。
「───分かったか。」
閻魔王が言うと、彼は閻魔王を見上げた。
「どうだ、その者を恨み蔑むか。その者の罪の為に、お前は取り返しのつかない罪を負い、今此処に引き据えられているのだ。」
閻魔王を見上げ、項垂れる己の師に目を向けて、彼は首を横に振った。
「師にどの様な事情があれ、私の犯した罪に変わりはありません。罪を犯してから是迄に十分考えました。私は───ただ私の罪を負い、その責を負うだけです。」
凛として閻魔王を見上げる彼を見て、えんはあの日の晒し場を思い出す。彼には此処に、もう一人の師が見えているのかも知れないと、えんはふとそう思った。
「よかろう───」
彼の目を見据えたまま、閻魔王が頷く。
「僧である身が怒りに我を忘れ、戒を忘れて、師僧を殺したのだ。その罪は重い。しかし、その始まりは師であるそのおとこから起きた事。酌むべき事情もありまた、お前は僧となって日も浅い───」
そう言って、閻魔王はじっと断罪を待つ若い僧を見下ろす。
「───もしこの場で直ちに僧である事を棄てて還俗するならば、この度の事は殺意のない過ちとして、その罪を減ずる。それでも殺生の罪は罪、地獄へ堕つるは免れぬが、地獄の内でも一番に苦の軽い等活地獄へ遣わそう。ただし───還俗すれば、この後二度と僧として仏に仕える事は許さぬ。」
怯えた様に見開いた目を閻魔王に向け、彼は小さく息を飲んだ。
「僧として罪を受けるというならば、その罪は重い。己を律し、やがては法を説くべき身が、師を傷つけ殺すなどとは許しがたい大罪───よって、僧である事を捨てぬなら、その身を無間地獄に繋ぐ。」
鋭い声でそう言って、閻魔王は厳しい顔で彼を見下ろす。
「地獄の底で己の不徳を思い知り、一から修行し直すがいい。」
打つような声で云う閻魔王を、彼はほっとした顔で静かに見上げる。
その顔を一目見て、えんは彼が一瞬の迷いも無く僧である事を選んだ事を知った。
「───ありがとう御座います。」
そう言って彼は、閻魔王に向かい深く頭を垂れる。
「本来なら、とうに破門となるべき身───まだ僧として修行する事をお許し頂ける道があるなら、何処へでも参ります。」
笑みさえ浮かべて言う彼に、
───やめておけ。と、師であるおとこが、慌てたように言った。
「師僧であるお前がそう言うか。」
閻魔王の言葉に、おとこは頷く。
「あまりに代償が、大き過ぎましょう。」
閻魔王が嗤う。
「そうであろうな。」
そう言って閻魔王は、浄玻璃の鏡を指した。
等活地獄の様なのだろう、鏡の面には獄卒鬼等に打ち殺される罪人達の姿が映る。
「等活地獄の苦の様は見ての通りだ。日に幾度も死を繰り返すとはいえ、その苦は一瞬の事。磔よりも苦はあるまい。刑期は五百年と言えど、真摯に罪を悔い勤めるなら、三回の忌日迄には地獄を出て生まれ変わる道もある。しかし───」
そう言うと、閻魔王は再び浄玻璃の鏡を指す。
そこには業火に遮られ、一寸先さえ判らぬほどの地に、蠢く罪人等が見えた。
「───無間地獄に堕ちれば、その苦は限り無い。七重の鉄城の内は、一切が火炎に包まれ、毒気悪臭に満ち、罪人の阿鼻叫喚する大音声が絶え間無く響くところだ。此処に置かれるだけでその苦しみは計り難いが、此の地にてさらに厳しい修行を積む事となる。」
閻魔王の顔が、一層厳しいものになる。
「導くのは無間地獄の獄卒。その辛さは無間地獄の苦にも劣らぬものと思え。辛さに逃げ出すのは勝手だが、逃げ出したところでそこには阿鼻叫喚の地獄が広がるばかりだ。帰るところを無くせばそのまま、地獄の罪人と成り果て、二度とは僧に戻る事は出来ぬ。それでも───」
───僧を棄てぬと言うか。
閻魔王の目が威すように、若い僧を睨み付ける。
彼は、躊躇いもなく頷いた。
「唯ひとつ残った道、御師様に頂いた道でございます。決して、棄ては致しません。」
閻魔王が呆れた様にため息をつく。
「一度は地獄へ堕ちた者の修行がなるのに、どれだけの時がかかると思う。永劫に近い時を地獄の底で苦しむ事になると分かっているのか。」
彼は閻魔王を見上げた。
「どれ程時が掛かろうと、御仏が共に在って下さいます。」
そう言う彼を嗤い、閻魔王が問う。
「仏が、お前を救うと思うか───」
真っ直ぐに閻魔王を見上げる彼を、おとこが制した。
───やめておけ。
彼の肩を掴み自分の方を向かせて、おとこはもう一度そう言った。
「───仏はお前を救いはせぬ。ひとにその手を延べる事は無い。私はそれを、よく知っている。だから、言うのだ。」
どれだけ救いを求めて叫んでも、仏は答えはしない。救いの手が差し伸べられる事はない───だから。
彼の目が、師であるおとこを見る。
「分かって居ります。」
若い僧はあっさりとそう言った。
「御仏は手ずからひとをお救い下さる事は無いかも知れません。土台、ひとを救うのは、ひとにございましょう。御仏はただ、其処に在って下さるのみにございます。」
そう言って彼は、もう一度閻魔王を真っ直ぐに見上げた。
「手を延べて救うては下さらずとも、御仏はいつでも共に在って下さいます。私が地獄の底へ堕ちれば、御仏も共に地獄の底に在って下さる。だから───」
───私は御仏を知りたいと思うのです。
唯真っ直ぐにそう言う彼を見下ろし、閻魔王が呆れたような笑みを浮かべる。倶生神が手にした鉄札をそっと伏せ、小さく息を吐いた。
「お前には───仏が見えているのだな。」
少しだけ哀しげな声で、おとこが言った。不思議そうに顔を上げ、彼は己の師であるおとこを見る。
「応えずとも、救わずとも、仏はお前と共に在るのだな。」
彼が躊躇いなく肯くのを見て、おとこは長い息を吐いた。
「───そういう事だ。」
閻魔王が云った。おとこが頷く。
「僧である事を棄てるつもりはないのだな。」
おとこの問いに彼は静かに肯いた。
「御師様に───幼い頃よりお仕えした師に、無理にとお願いして漸くお許し頂いた道でございます。お許しを頂いたその時に、自ら棄てる事は決してしないと決めております。」
きっぱりと答える彼に、おとこは師僧の顔になって頷く。
「ならば、御仏と共に思う道を往くがいい───往かず後悔するよりも、お前にはその方がいい。」
若い僧は笑みを浮かべ、
───ありがとうございます。と、そう言った。
「仕方が御座いませぬ───」
倶生神が、穏やかな顔で閻魔王を見上げる。
「今此処で何を言っても、この者の心は揺るがぬでしょう。無間地獄の苦をその身に受ければ、或は心を変える事もあるかも知れませぬが───事によるとそれでも変わらぬかも知れぬ程の、強い思いで御座います。」
閻魔王が、うむと頷く。
「生半な覚悟であれば直ぐに後悔する事となろう。己で選んだ道である事を、肝に銘じよ。」
若い僧が閻魔王を見上げ、「はい」と答えて両手をついた。
「ありがとうございます。」
そう言って頭を垂れる彼を見下ろし、閻魔王がふんと笑う。
「その口で、恨み言を言う事にならねば良いがな───」
そう言って、閻魔王は獄卒鬼等を呼ぶ。
はっ、と応える獄卒鬼等に、倶生神から受け取った鉄札を渡し、閻魔王は命じる。
「この者を、鉄札と共に無間地獄の獄卒に渡せ。後は良い様にするだろう。」
はい、と、ひとつ頭を下げて、赤青の獄卒鬼が立ち上がる。
その手が肩に掛かると、彼は思わしげに師僧を見上げた。
「───その者の裁きはこの後だ。お前は立ち合わぬ方がよいだろう。」
閻魔王が云った。
「お気遣い、ありがとう御座います。」
そう言って、おとこが自嘲の笑みを浮かべる。
「例え僅かに数日の師弟とは言え、弟子に見せたい姿では御座いません。もっとも───私の犯した罪を思えば、断罪される様をこそ晒すべきなのかもしれませんが。」
苦々しい顔で云って、おとこは弟子であった若い僧を見る。
「納得が行かぬと言うなら、この後の醜態を見てから行け。だがもし仮にも師であった者を哀れと思うなら───」
───分かりました。
と、おとこの言葉を遮る様にそう言って、彼は静かに目を伏せ頷いた。
「申し訳ございません───私はこれで、お暇させて頂きます。」
そう言う彼におとこは、
「済まない───。」と、頭を下げる。
いいえと答えて、彼は数日だけの師僧を見上げにっこりと笑う。
「この後も、僧である事をお認め頂き、ありがとうごさいました───きっと何時か己の納得の行く僧となります。」
そう言って最後に深々と頭を下げて立ち上がると、彼は傍らで待つ獄卒鬼等に身を委ねた。
「───連れて行け。」
閻魔王の声が響く。
もう一度師を振り返り、若い僧は獄卒鬼等に引かれて消えて行った。
その後ろ姿を見送って、えんはほっと息をつく。
───安らかな行く末とは、違うかも知れないが。
行く末が僅かなりとも安らかであるようにと、そう言って涙を零した老僧の姿を思いながら、えんは笑みを浮かべて小さく呟いた。




