番外編 猫が好きなソファー
黒猫が飼い猫になる前後の、幕間的なお話です。
少々素直ではない、あるソファー視点の物語となっております。
私はソファーである。名前なんてものはない。デニム生地とアンティーク調の白木で作られた、ただの二人がけ用ソファーだ。
初めての仕事場は、モデル事務所の待合室だった。美にこだわる場所で使われるぐらいだ。私のデザインはそんなに悪くないほうだと思う。
モデル事務所での仕事は、それなりに気に入っていた。なのに、ある日突然、居場所を失った。クライアントの連れてきた子供が、アイスを私の上に落としたからである。これだから子供は嫌いなのだ。私の上で飛んだり跳ねたり、ろくなことをしない。
よりによって食べ物を落とすなんて。ありえない。べっとりとしたチョコレートとバニラのマーブルアイスが、私の布に染み込んでいく。最悪だ。
「あら、これ布なの。もうちょっと良いソファー使いなさいね」
粗相をした子供の母親は、ちゃんと謝る気すらないようだ。それどころか、まるで私が悪いみたいな言い方をする。事務所の社長は、相手がクライアントということで、苦笑いを浮かべるしかないようだ。
クライアントが帰ってから、社長がある程度は拭き取ってくれたが、その日についた汚れは、小さなシミになった。文句を言いたくても、私には伝えるべき言葉がない。しょうがない。黙って我慢するしかないのだ。物は永遠ではない。そう納得しようとした。
だが、その翌日に、私は解雇された。私より汚れに強そうな、新しいソファーがやってきたからだ。人間とは実に勝手なものだ。だからと言って抗うことはできない。私はただのソファーなのだから。
次に仕事をすることになったのは、小柄な老婆の住んでいる、古い日本家屋だった。社長の知り合いの家らしい。このぐらいくたびれた屋敷と家主なら、私についた小さなシミの汚れなど気にしないということなのだろう。
捨てる神あれば拾う神ありである。消せないシミを、あれこれ言われたくないという意味では、こちらも気が楽で助かる。
人の出入りが多かったモデル事務所に比べると、この家は静かである。時折、訪問者がやってくることもあるが、普段は老婆が一人で暮らしているようだ。
朝が来ると老婆が起きてくる。台所に行って、朝食の準備を始めるのが日課だ。
包丁のトントンという音が聞こえてくる。リズミカルに続く音は悪くない。なぜだかわからないがホッとする。老婆が今日も元気に、生きている証だからだろうか。人が座った時に感じる心音に、少し似ているのかもしれない。
ただ存在することしかできない私にとって、動いている、それ自体が憧れである。どこかの国のおとぎ話では、空を飛ぶ絨毯なんてものがあったらしい。ならば空を飛ぶソファーがあっても不思議はないはずだ。私もいつの日か、自由に動き回りたいものだ。
しばらくすると、お味噌汁の匂いと、焼き魚の匂いが漂ってくる。お昼も夕方も、メニューの違いはあれ、どれも似たような味噌や醤油を使ったような和風の匂いが、この家ではずっとしている。
モデル事務所に漂っていた香水の匂いとは大違いだ。なんだか庶民くさくて、最初は少し嫌だったが、今はもう慣れた。いつもの日常というやつである。
だが今日は夕方になってから、いつもと違う匂いと音がした。甘い匂いと、香ばしい匂い。フライパンでバターが焼けるようなジューッという音や、パチパチと生地が焼ける音。老婆がテーブルに並べたのは、ココアとホットケーキだった。どうやら孫が来る日だったようだ。
ランドセルを背負った少女が、ドアを元気よく開けて走ってきた。小さな箱を手に持っている。
「おばーちゃん、連れてきたよ」
少女が箱を開けると、中に入っていたのは、小さな黒猫だった。箱から抱き上げられた子猫は、不安げに周りを見回しながら、ミャーミャーと鳴いている。
少女の手が離れた瞬間、黒い子猫は猛烈にダッシュし、私の下に潜り込んだ。猫は暗くて狭いところが好きだという話は、モデルの子達が話していたのを聞いて知っていたが、本物の動く猫を見たのは初めてだ。
壁際の隅っこを陣取り、ずっと心細そうにミャーミャー鳴いている。
「今日からここがクロのお家よ。怖くないから。出ておいで」
老婆が床に這いつくばって、心配そうに見ている。ミルクやおもちゃを用意して、必死に子猫の気を引こうとしているようだが、無駄だった。子猫は鳴き疲れて、私の下で眠ってしまったようだ。
様子を見守っていた老婆と少女だが、待ちきれなくなったのか私を移動させて、なんとか子猫を救出することにしたらしい。
よっぽど疲れていたのだろう。子猫はぐっすり寝ている。だが半目が開いたままだ。残念ながら、この子猫は寝顔が不細工なタイプのようだ。ブサ猫というやつなのだろうか。
しばらくして、子猫は老婆の腕の中で目を覚ました。爪を立てたのか老婆が少し痛がっている。
「あらあら。御機嫌ななめですね」
「私が抱っこしてあげる。クロおいで」
少女に抱かれていた子猫は、お腹が空いたのか、尻尾をゆらりと動かしてから、少女の腕から逃れて、ミルクのところに向かった。夢中でミルクを舐めている。
子猫の頭を撫でる少女が嬉しそうに笑う。
「これでおばあちゃんも安心だね。おじいちゃんが居なくても、もう寂しくなくなるよ」
「……そうだね」
老婆は少し悲しそうな表情を見せた。この家のもう一人の家主は亡くなっていたようだ。モデル事務所にいた時も、彼氏と別れた子が、寂しさを紛らわせるために猫を飼い出したという話をしていたが、それと同じようなものなのだろうか。
元気を取り戻した子猫は、探検をするかのように、部屋のあちこちを走り回った。騒がしいことこの上ない。人間の子供も苦手だったが、猫の子供もやはり苦手だ。ろくでもないことをしでかしそうでヒヤヒヤする。
子猫は棚や荷物の段差を利用して、私に乗り移ってきた。私の上でやたらと飛び跳ねたり、引っ掻いたりを繰り返す。
私の体はデニム生地でできている。猫の爪はいい感じに引っかかるから、爪研ぎにはちょうど良いのだろう。だがこの子猫が大きくなるまで、その調子でガリガリやられると、きっといずれは、私の布に穴が開いてしまう。そろそろやめてほしいものである。
だがその心配は、早々になくなった。老婆が爪研ぎ用のポールを買ってきたからだ。子猫はそちらに夢中になり、私で爪研ぎをすることは、ほとんどなくなった。すでに少しだけボサボサになっているところがあるが、多少は我慢をするしかないだろう。
小さなシミも、ボサボサも、自分では動けない私が、この世に唯一残せる、今ここに存在するという痕跡なのだから。
子猫がミルクを飲むたびに、毎日少しずつ大きくなっていく。いつの間にか、私の上で寝るのが当たり前になっていた。重みが増していくのがよくわかる。子猫の定位置になっている隅っこが、じんわりと温かくなる。
寝息を立てる子猫の腹には、小さな白い模様がある。ミルクをたっぷり飲んで膨れた腹が上下して、小さな心音が伝わって来るのが、やけに心地よい。ただそれだけのことなのに、私にとっては特別な時間に感じられた。
珍しく子猫がやってこないなと思った時は、炊飯ジャーの上で寝ていることが多い。あんな狭い場所で寝なくても。こちらのほうがよっぽど居心地が良いだろうに。
別に騒がしいだけの子猫に、興味なんてないし、来てほしいわけじゃない。ただもっと良い場所があるという提案をしているだけだ。
だが猫は気まぐれである。こちらの気持ちなんてものは、お構いなしだ。人間ですら振り回されているのに、ただそこにいるだけの私に、どうこうできる存在ではない。なすがまま。それが私の生き方である。
この穏やかな毎日が、いつまでも続くと思っていた。
だがある日、老婆の様子がおかしくなった。さっきご飯を食べたばかりなのに、また朝ごはんを作っていたり、ご飯を作りかけのまま、どこかへ行って戻ってこなかったり。
遊びに来る孫も、異変に気がついたようだ。娘夫婦が同居をしようという話をしはじめて、あっという間に引越しする日が決まった。
いろんな荷物が運び出され、いつものように私の上で眠っていた子猫は、ケージの中に入れられた。アンティークショップに売られる予定になっていた私は、最後まで部屋に残されていた。配達の業者がやってきたようだ。大柄な男が二人がかりで私を持ち上げて、外に運び出す。
老婆や少女、子猫とは、どうやらここでお別れのようだ。もうあの子猫が私の上で暴れたり、爪研ぎをする心配もない。実にせいせいする。
さて次は、どこの家にもらわれていくことになるのやら。ぜひ今度は、子供も子猫もいない家にもらわれたいところだ。
私の新しい職場は、すぐには見つからなかった。長い間、アンティークショップの片隅に、売れ残りのソファーとして、私は鎮座し続けていた。
「色はいいんだけどね。シミもあるし、ほらここ、ボサボサってなってるし」
パッと見の色や形で気に入ってくれても、本格的に買おうとじっくり観察した段階で、シミと爪研ぎ痕を見つけた客に、購入をしぶられて終わるということを、何度か繰り返していた。
スマートフォンをいじっていたアルバイトの店員が、私をちらりと見る。
「店長、値段下げたほうがいいんじゃないですか。このままだと売れませんよ、それ」
しぶしぶという感じで、店長は値札の数字を修正したようだ。値下げ品を意味する、赤い札のようなものを張り付けられた。
私は何も変わっていないのに、数字や紙切れのせいで、自分が一瞬で、安物に成り下がったかのように扱われるのが、実に不愉快だった。
だがそんな文句は、ソファーの私には言いようがない。なすがまま。されるがままである。
もしこのまま売れなかったら、私は処分されるのだろうか。
私はもう誰にも必要とされていないのだろうか。使ってもらえないソファーなんて、ただの粗大ゴミでしかない。ゴミになった私は解体されるのか。それとも燃やされるのか。どちらも想像するだけでゾッとする。
おぞましい妄想に引き込まれそうになった私は、遠くから聞こえる楽しそうな笑い声で引き戻された。
アンティークショップに新しい客が訪れたようだ。小柄な可愛らしい女性と、少し顔が怖い男性の二人組だ。
「雰囲気があって良いお店だね」
「君が好きそうなお店だと思って、目をつけてたんだ」
女性が尊敬の眼差しで、背の高い男性を見上げている。
「前に部長も褒めてましたよ。『クライアントを接待する時は、彼に頼めばぴったりの店を探してくれる』って。さすが先輩」
「だからもう、先輩はやめろって。夫婦なんだから」
「しまった。つい癖で」
お互いへの気遣いが感じられる、良い感じの夫婦だ。まだ新婚ホヤホヤなのだろうか。初々しいカップルのようだ。
できることなら、こういう夫婦の家に連れて行って欲しいものだが。あまり期待すると、後でガッカリする羽目になる。私は無心で二人の会話に耳をすましていた。
二人が私の前にやってきた。しばらく眺めてから、座り心地を二人で試している。
女性が背もたれのボサボサになっている箇所を指差した。
「見て、この毛羽立ってるところ。もしかしたら猫が爪研ぎしたのかな」
「本当だ。なら猫が好きなソファーかも」
「じゃあ、これにしようかな。お値段も手頃だし、大きさもちょうど、あの家に合いそうだよ」
「そうだね。綺麗な空色だし。古い家でも馴染みそうだな」
夫婦は店長に話しかけている。どうやらこの夫婦の家に、お引っ越しすることになりそうだ。
良かった。この二人なら大事に使ってくれるに違いない。長く待った甲斐があったというものである。
私の運ばれた家は、見覚えのある屋敷だった。また同じ家に戻ることができるなんて、運命というやつなのだろうか。
引っ越ししたばかりなのか、部屋のあちこちに梱包されたままの荷物が残っていた。私の搬入が終わった後に、夫婦がリビングに持ち込んできたのは、小さなケージだ。
ふたを開けると、何か黒い塊が動いた。二人の会話から予想はしていたが、やはりこの家にも、あの獣はいるようだ。
しばらく部屋の様子を伺っていた黒猫は、すぐに私の下に潜り込んだようだ。やはり猫というのは、暗くて狭い場所が好きらしい。
黒猫は飼い主の二人に、クロと名前をつけてもらうと、ようやく私の下から姿を現し、ニャーと鳴いた。この家の住人になる決意表明でもしたのかもしれない。
黒猫がこっちを見た。スンスンと鼻をつけ、私の匂いを嗅いでいる。危険はないと判断したのか、黒猫がひょいと飛び上がり、私の上に乗ってきた。
ごろんと横になって腹を見せて、大きく伸びをしている。黒いお腹に小さな白い模様がある。なんだか見覚えがある模様に似ている。まさかな。
ふいに顔を上げた黒猫は、背もたれの上に飛び乗った。爪研ぎ痕がある場所をじっと見ている。やめろ。やめてくれ。子猫ならまだしも、お前のような成猫にやられたら、たちまち穴が開いてしまう。
その時だった、飼い主の女性が声をかけた。
「だーめ。爪研ぎは、ちゃんと買ってきたやつがあるでしょ」
なんとか黒猫は、爪研ぎを諦めてくれたようだ。助かった。どうやら私は、命拾いをしたようだ。
黒猫はまるで覚えているかのように、あの子猫がお気に入りだった、いつもの定位置に移動し、眠り始めた。黒い塊が寝そべっているところが、じわじわと暖かくなってくる。懐かしい温もりだ。
前にいた家よりは、少し騒がしいかもしれないが、新しい生活も悪くないかもしれない。
だが、あくまで『猫が』好きなソファーであって、『猫が好きな』ソファーではない。私は猫なんて、ちっとも好きではないのだ。そこは間違わないように。
ここまでのんびりすぎる連載にお付合いいただき、ありがとうございました。
「俺、猫だけど夏目さんを探しています。」の書籍版が、明日、2019/05/10に宝島社様より発売されます。
詳細は活動報告に記載してありますので、興味のある方はぜひご確認のほど、よろしくお願いいたします。




