バレンタイン(三)
「リリア嬢、君の発案かな?」
発案。この、チョコ作りの? まさか、全部分かっているの?
いつ知ってしまったのだろう。やはり私ではノエルにサプライズをしかけるなんて難しかったのか……。
リリアは慌てた様子で、しかし嬉しそうにチョコとノエルを交互に見た。
「は、はい! チョコ、嫌いではありませんよね? お姉様、ノエル様のために一生懸命作ったんですよ!」
「あぁ、好きだよ。ソフィアが作ったのだと思えば、尚更ね」
普通に会話をしているけれど、今ノエルは私を抱き締めている。その状態で、なんてこともないようにリリアと話しているのだが……正直、恥ずかしいので離れてほしい。
「食べていいの?」
「あ、駄目よ。まだ包んでないし……味見だってしてないもの」
見かけも味も合格だと料理長に言われたので、私とリリアは一つも食べていないのだ。料理長が合格と言ったのだから美味しいのだろうが、それでも不安なので一個ぐらい食べて確認したい。
それでもとチョコに伸ばされた腕を軽く叩き、抗議の目線を向けた。
「ノエル」
「なら、すぐに味見してくれないか?」
「……言われなくても、するつもりだったわ」
明らかに面白がっている様子にムッとしてそっぽを向いても、ノエルは笑うだけだ。
笑いながら再度チョコへ手を伸ばす。
「はい、ソフィア」
「……」
チョコを口元まで運んできた手が、何を企んでいるのか分からない。胡乱気に見つめてみるが、しかし何も起こらないので諦めて口を開けてチョコを迎え入れた。
「ん……」
美味しい。ここに至るまでに食べた黒焦げが嘘だったかのようだ。
するすると溶けていく甘い塊に頬を緩めていると「美味しい?」とノエルに訊かれる。味わいながらも何度も頷いて肯定した。
「じゃあ俺も食べよう」
本当はラッピングしてきちんとプレゼントしたいのだが、それまで待ってはくれないだろう。
だから一言促してから食べてもらおうと思ったのだが、
「んぅ……」
くいと首を回され、口づけられた。
「のえ、る、っ……」
まだ溶けただけのチョコと塊だって残っているのに、ノエルの舌は口内に侵入してきて甘い味を奪うように舐めとっていく。
私から奪っていったものは彼が喉仏を動かし、嚥下していく。そしてまた口づけてくる。
「はぁ……美味い」
チョコのことを言ったのか分からないくらい、濃厚な口づけを繰り返される。
わざとなのかと疑いたくなるほど大きく立てられる水音から少しでも逃げたくて目を固く瞑れば、もっと自身を感じてほしいと言わんばかりに腰を引き寄せられた。
駄目、なのに。だってリリアが。ここにはリリアがいるのに。
長い口づけの末にようやく解放されたので抗議しようと目を開けるが、また口を塞がれて喋ることもままならない。
「ん、ん、ぅ……」
もう既に息も絶え絶えで、鼻で空気を吸うことに集中する余裕もなくて、呼吸の合間に声が漏れていく。
霧のかかっていく視界の中、どこまでも甘く、甘く私を見つめるノエルの瞳に、どくんと胸が大きく鳴った。
視界の隅ではチョコをラッピングしたのだろう、袋を持ってそそくさと退散するリリアを確認できた。……ごめんなさい、顔が真っ赤ね。
「ソフィア」
「ぁ、……はぁっ」
耳に吐息混じりの声をかけられ、背筋がぞくぞくと粟立った。
気持ち良いような悪いような、よく分からない感覚によって力の抜けた私の身体をきつく抱き締め、今度は首筋でリップ音を響かせるノエル。
私はまったく、抵抗できない。だってこうして心底愛おしそうに名前を呼ばれて、求められて、嬉しくないはずがないのだ。
愛してる。誰よりもずっとずっと、愛している。私はもう、ノエルがいないと生きていけない。例え彼が大罪を犯して全世界の人間に追われることが――そんなことにはなり得ないと分かってはいるが――あったとしても、私は彼の側にいよう。
そのときの私がノエルにどんな行動を示すかなんて予想もつかないが、見捨てることだけはしない。彼を見捨てる私は、私ではない。ソフィアでは、ない。
そして、だからこそ。
こうやっていつも受け身なばかりなのを、直したい。私だって愛を示したい。積極的なノエルに甘えてばかりではいけないと思うのだ。
今日はバレンタインデー。リリアの『答え』が脳裏をよぎった。
『バレンタインとは、大切な人に感謝や愛の気持ちを伝える日のこと。そう聞いたわ』
ならば今日、勇気を出すべきなのだ。恥ずかしがらず、素直に。
本当は厨房でするつもりはなかったが、この人がいてくれるならどこでも変わらない。愛すべきこの人の隣が、私の場所なのだから。
「ノエル、っ……」
強めに胸を押して二人の間に空間を作ると、不思議そうに顔を覗き込まれた。
昼間に見せた腹黒さなんて、欠片もない甘ったるい表情。その顔を両手で挟んで、じぃっと見続ける。
そして気持ちの決まったとき、形のよい薄い唇に自分のそれを寄せ、軽く重ねてみた。
「……」
パチパチと瞬きだけをするノエル。他に何も反応はない。
瞬き……だけ? 反応に困っているの? う、嬉しくない、とか……? 自意識過剰な行動だったのかしら……。
いいや、きっと違う。足りないのだ。これくらいでは、大人なノエルには足りないというだけ。
ならばもう一歩を踏み出すまでだ。
ノエルの首に腕を回し、つま先立ちになる。そうしてもっと強く唇を押し付け、ノエルの下唇を柔らかく食んでみる。
どうなのか……これ以上は流石に、恥ずかしいのだけれど。
しかしノエルは固まったままだ。相変わらず瞬きばかりをしている。
もっと……勇気を出せと仰るのですか、神様……!
現れた、頭の中でゴーサインを出す神様に応援されながら、舌の先だけをそろりと出してみる。
いつもは進んで私に触れる柔らかなそこを、舌の先で控えめに舐め、愛撫する。
それでもノエルは反応してくれない。目の瞬きをないものとすれば、彫像そのもののようだ。……もっと、ということだろうか?
ちらと、微かに開かれている唇を見やる。
あぁ、無理だ。一瞬で分かった。私には、無理だ。あの中に自分の舌を入れるなんて恥ずかしすぎる。
他の方法なんて、あったりはしないだろうか。
そんな、恥ずかしさから生まれた『逃げ』の提案に、私はすぐにでもすがりつこうと思った。
キスを中断して、他の方法を探すことを。
だが、もっとも、ノエルは何をすれば喜んでくれるか分かっていないのだ。こちらがどんな愛を示せば伝わってくれるか、知りたい。
困りきった顔でノエルの目を見上げると、これまでずっとパチパチしていた瞬きが止まった。次いで、切なそうに細められる。
彼はゆっくりと、妖艶な動きで己の唇を舐めた。まるで私の舌が触れた跡をなぞるかのような舐め方に、ぎゅっと胸の奥を掴まれたように息苦しくなった。
――あぁ、愛しい……。
「ソフィア……」
私を抱き締めて囁くノエル。私も応えるように両腕を背中に回し――
「あ、やぁ……」
歯を立てながらも強く吸い付かれ、その痛みに大きく震えた。
きっと真っ赤に痕がついただろう。その場所を、先ほど私がノエルの唇にやったように舌の先で愛撫される。触れる熱さがそのまま彼の気持ちの熱さのように感じられてしまう。
熱くて、とろけそうで、このまま溶けきってしまいそうだ。ノエルが私を、溶かしていく。
大切な人の腕の中で、暖かい体温にこうして包まれていると、こんなに幸せでいいのかと不安になる。それくらい、心が歓喜しているのだった。
肌を焼いてしまいほどに熱の籠った吐息を感じて、いいように翻弄されながら、溢れる幸せと底のない深い愛情に溺れそうになる。思考がぼやけ、考えも纏まらなくなっていく。
今はただ、この心地よい空間にいられればそれでいい。それだけで、いいのだ。
チョコレートよりもずっと甘く、ずっと柔らかくとろけるここにいられるなら、他に何もいらない。
「愛しているよ、ソフィア」
「えぇ……私も愛してるわ、ノエル」
二人で笑い合えるならば、何よりも幸せなのだから。




