EP75.帰港の日
辺境伯館の書斎には机いっぱいに書類と地図が広げられていた。
窓から差し込む昼下がりの光が羊皮紙の山を柔らかく照らしている。インクの匂いに混じって暖炉で温められた茶の香りが漂っていた。外からは水路のせせらぎと遠く学び舎から聞こえる子供たちの声が絶え間なく届いてくる。
アズマリアはリザが持ち帰った交流協定の草案を丁寧に読み進めていた。
「正式な代表団を送るとなると誰を選ぶべきでしょうか」
その問いにヴィルヘルムが腕を組んで考え込んだ。
「王国側からは正式な使節が必要になる。グレゴリウス殿か、あるいは王家の誰かか」
「王家ですか」
「ああ。こういう場には権威の裏付けが必要な場合もある」
その会話にフェリクスが興味深そうに口を挟んだ。
「魔族の方々にも同行していただくのはいかがでしょうか」
「魔族が?」
「はい。グランディア諸島の伝承にも《虚無》の影響があったのなら、ガルシュタイン様のような直接その苦しみを知る方の言葉には大きな意味があるはずです」
その提案にアズマリアは深く頷いた。
「良い考えだと思います。人間だけでなく魔族の視点も伝えられれば」
数日後この提案を伝えるためアズマリアは国境の交易地を訪れた。
「我らも同行させていただけるのか」
ガルシュタインは驚いたように、しかし確かな喜びを滲ませて応じた。
「光栄なことだ。我らの苦しみが遠い島々にも伝わっていたという事実を、この目で確かめたい」
その言葉にアズマリアは静かに微笑んだ。
「一つお願いがあります」
「何なりと」
「代表団の一員に、あの国境で出会った若い魔族の方――甲冑を纏っていた、あの方も加えていただけないでしょうか」
その名指しにガルシュタインは少し意外そうな顔をした。
「なぜ彼を」
「彼は最初に私たちに心を開いてくださった方の一人です。その経験を島の方々にも伝えていただければ」
その説明にガルシュタインは深く頷いた。
「良い人選だ。すぐに伝えよう」
準備はそれから数ヶ月にわたって慎重に進められた。代表団の人選、贈答品の用意、そして双方の言語をより正確に橋渡しするための通訳の育成。
その過程でセーラとダリオも若い世代の代表として代表団への同行を志願した。
「あたしたちも行きたいです」
セーラの申し出にアズマリアは少し驚いた。
「危険も伴いますよ」
「分かってます。でも境界の卓での経験を、もっと大きな舞台で活かしてみたいんです」
ダリオも隣で力強く頷いた。
「俺たちが若い世代の橋渡し役になれたなら島の人たちとも同じようにできるはずだ」
その熱意にアズマリアは深い感慨を覚えた。
「分かりました。きっと貴重な経験になるはずです」
代表団の顔ぶれが少しずつ固まっていく。人間、魔族、そして若い世代――この物語がこれまで積み重ねてきた多様な繋がりを体現するような顔ぶれだった。
出発の日が近づくにつれ辺境エルグラードには、これまでにない期待に満ちた空気が漂い始めていた。
「今度は私も、一緒に行きたいです」
ある夜アズマリアはヴィルヘルムに、そう切り出した。
「あんたが?」
「はい。エリアーナのことは心配ですが。でもこの目で、あの島々を確かめてみたいんです」
その決意にヴィルヘルムはしばらく考え込んだあと静かに頷いた。
「なら家族皆で行こう。エリアーナも、きっと良い経験になる」
その提案にアズマリアの目に驚きと確かな喜びが浮かんだ。
この一歩がアズマリアたちの物語を、さらに大きな世界へと導いていくことになる。海の向こうでどのような出会いが待っているのか。その答えを確かめる日が静かに近づいていた。




