Ep01. 癒える者、癒えぬ国
王国東部戦線、後方治療陣。
テントの布地は魔物の血と消毒液の匂いを吸いすぎて、もう本来の色を思い出せなくなっている。夜になれば気温は容赦なく落ち、朝になれば今度は鉄と硝煙の匂いを運ぶ風が吹き荒れる。そういう場所だった。快適さという概念そのものが、この戦線には存在しない。
テントの中には呻き声がひとつの旋律のように満ちていた。誰かの荒い息遣い、誰かの啜り泣き、誰かの譫言。それらが混ざり合って、ひとつの巨大な生き物の呼吸のように聞こえてくる。アズマリアはその呼吸の真ん中に、いつものように膝をついていた。
白銀の髪を後ろでひとつに束ね、白い治療衣の裾を血で汚しながら、彼女は目の前の兵士――右脚を魔獣に食いちぎられかけた若い男――の傷口に両手をかざしている。手のひらから溢れる淡い光は、まるで水面に落ちた月光のように、傷口の縁からゆっくりと染み込んでいった。
肉が繋がる。骨が軋みながら位置を戻す。血が止まる。
それだけの、地味な奇跡。
「……っ、ぐ、うぅ……!」
兵士が呻く。痛みは伴う。《神癒》は麻酔ではない。壊れたものを正しい形へ戻す作業には、当然それ相応の負荷が肉体にかかる。アズマリアはその叫びを聞き流すことに、もうずいぶん前から慣れてしまっていた。慣れる、というのは、ある種の麻痺でもある。
◇ ◇ ◇
「――終わりました。三日は無理をしないように」
アズマリアが手を離すと、兵士は自分の脚を何度も擦り、涙目でこちらを見上げた。感謝の言葉より先に、驚きの方が勝っているような顔だった。当然だろう。ついさっきまで千切れかけていた自分の脚が、傷跡ひとつなく元に戻っているのだから。
「あ、ありがとうございます、聖女様……!」
「いえ。次の方をお願いします」
感情を込めない声で、次へ次へと処置を進めていく。負傷者は絶えない。魔王軍との戦争はもう何年も続いていて、終わりの気配すら見えない。アズマリアの一日は、傷ついた誰かの隣に座ることで埋め尽くされている。
テントの外から、遠く歓声が聞こえてきた。
「《紅蓮》様が出られたぞ!」
「見ろ、あの火柱! 一撃で百は薙ぎ払っただろうよ!」
兵士たちの声が弾んでいる。その声には、さっきまでこの治療テントの中で漏れていた呻き声とは正反対の、明るい熱がこもっていた。アズマリアはその声を聞きながら、無言でガーゼを畳んだ。何も感じない、と自分に言い聞かせるのは、もう日課のようなものだった。
◇ ◇ ◇
休憩時間、テントの外で夜風に当たっていると、副官らしき男が二人、少し離れた場所で話しているのが聞こえてきた。声を潜めているつもりなのだろうが、静かな夜には残酷なほどよく通る。
「しかし《神癒の聖女》ってのは、いったい何のためにいるんだかな」
「治療係だろう。悪いとは言わんが、戦力にはならん。防御魔法も使えなきゃ、範囲攻撃の一つも撃てん。魔力量だけならエレオノーラ様に迫るって話なのに、宝の持ち腐れだ」
「まあ、傷を治すのがお役目なんだから、それで十分と言えば十分なんだろうがな」
特に悪意のある声色ではなかった。それがかえって始末に負えない。悪意なら、まだ反論のしようもある。だがこれはただの、当たり前の事実として語られる評価だった。まるで天気の話でもするみたいに、あっさりと。
アズマリアは何も言わず、その場を静かに離れた。
◇ ◇ ◇
この国において、聖女の価値は「どれだけ魔王軍を薙ぎ払えるか」で測られる。
《紅蓮の聖女》エレオノーラは炎で。
《轟雷の聖女》アロセールは雷撃で。
《衝撃の聖女》リザは衝撃波で。
彼女たちの魔力は攻性の術式に変換され、戦場という舞台で最大限の戦果を挙げる。民衆はその戦果に熱狂し、彼女たちを英雄と呼ぶ。理屈としては単純だ。魔力量×術式変換効率×詠唱速度――この掛け算の結果が、そのまま戦場での「有用性」に直結する。攻撃魔法は分かりやすい。何人倒したか、どれだけの範囲を焼き払ったか、数字で示せる。
対して回復魔法は、術式構造そのものが根本的に違う。
攻撃魔法が「己の魔力を外部へ叩きつける」術式であるのに対し、回復魔法は「対象の生体術式――つまり肉体そのものに刻まれた、生命を維持するための設計図のようなもの――を読み取り、正しい状態へと再構築する」術式である。理屈の上では、攻撃魔法よりよほど繊細で高度な制御が要求される。だが、その繊細さは戦場では評価されない。派手さがない。数字にならない。ただ「治った」という結果だけが残り、それが当たり前になればなるほど、価値は目減りしていく。
アズマリアの《神癒》は、その回復魔法の系譜の中でも異質だった。通常の回復魔法が人体の生体術式にしかアクセスできないのに対し、彼女の力は対象を選ばない。人間、獣、植物、水、大地――それらすべてに共通する、もっと根源的な「あるべき形」への回帰を促す力。だが、その異質さに気づいている者は、この戦線にはまだ、誰もいなかった。
◇ ◇ ◇
夜、誰もいなくなった治療テントの片隅で、アズマリアは小さな革張りの手帳を開く。そこには彼女自身の几帳面な字で、日々の記録が綴られていた。
『本日、治療した人数――十四名。うち重傷者六名。全員、後遺症なく回復』
数字だけを見れば、立派な戦果と言っていいはずだった。だが誰もこれを戦果とは呼ばない。呼ばれたことがない。十八年間、ずっと。
手帳を閉じ、彼女は静かに立ち上がる。窓の外――いや、テントに窓はない。布の隙間から漏れる月明かりを頼りに、彼女は王都の方角を見やった。今夜も、あの祈りを捧げなければならない。理由も分からないまま、幼い頃からずっと続けてきた習慣。最高司祭グレゴリウスは「聖女として当然の務め」としか説明しなかったが、アズマリアはその言葉に一度も納得したことがなかった。
――誰も知らない。
毎晩、彼女が聖樹に祈りを捧げるたび、淡い光が根を伝って地下深くへと流れ込んでいくことを。
それが何のための光なのか、王国の誰一人として、正しく理解していなかった。
◇ ◇ ◇
王都へ帰還する馬車の中、アズマリアは揺れる荷台の隅で膝を抱えていた。窓の外を流れる景色は、戦線から離れるにつれて少しずつ穏やかさを取り戻していく。焼け跡から、畑へ。瓦礫の街から、石畳の街へ。
馬車が王城の門をくぐる頃には、すでに日は落ちきっていた。城内は静まり返っている――否、静まり返っているように、彼女には見えていただけだった。
その静けさの向こう側で、これから彼女の人生を根底から覆す言葉が、すでに用意されつつあることを、この時のアズマリアはまだ知らない。
◇ ◇ ◇
次に彼女を待っていたのは、癒やしを求める誰かではなかった。
彼女自身の居場所そのものを、根こそぎ奪い取ろうとする、冷たい宣告だった。




