ひさしぶり
怪物に抱き込まれているようなむっとした湿度の中、制服の布が太ももにまとわりつくのが気持ち悪くて、あたしはぎゅっと眉に力を入れて足早に歩いていた。
夏の夜だった。
夏に落ちていくような夜だった。
あたしはその日の夕飯にしようとしていたハンバーガーの入った紙袋を右手に下げていて、裸の右膝がそれにぶつかるたび、がさがさと安っぽい音が所在なさげに夜の街に落ちた。
有名な繁華街ではないけれどそれなりに栄えた小さな飲み屋街には明かりが溢れていた。賑やかな光、賑やかな声、賑やかな匂い。なにもかもががやがやと五月蝿かった。時計を見ると夜の八時を過ぎていて、まだそれほど遅いわけではないのに、もうすっかりできあがったサラリーマンたちが道端で騒いでいる。昼間はまるで戦闘服みたいに着こなしている制服が、なんだか無防備の象徴に思えて、あたしはさらに足を速めた。
もう一度時計を見る。次の電車まであとちょうど十分くらい。今日ももうこの時間には母さんは家にいないはずだ。別にいたからと言って、遅くなって怒られたことはないけれど、仕事用の化粧をして仕事用の服を着て「おかえり」と言う母さんを見なくていいのは、嬉しいのか寂しいのか、なんなのか。
大きな居酒屋が並ぶ通りが途切れる。ふっとあたりの彩度が落ちる。見つけられずとも気にしないとでも言うようにささやかな明かりをつけるだけの飲み屋がぽつりぽつりと道端に建つ通りに入る。
あたしが向かう先、一際ささやかに佇む飲み屋の前に、ひょろりと細いシルエットが見えた。口元に手をやって、それを下ろして、ふぅう、と白い煙を吐き出す。
煙草を吸いに出てきた人、だろうか。それとも、何かから逃げる口実に、煙草を吸っている人、だろうか。
店の入り口から漏れる光がその人の影を地面に長く伸ばしていて、何故だかあたしはそれを見て、ずっと昔に読んだことのあるあしながおじさんの童話を思い出した。
あたしは昔、あの話が大好きだった。それと同時に、読むたびに、自分の中にある底のない暗闇を覗き込んでいるようで、それが嫌で嫌でたまらなかった。姿の見えないあしながおじさんに想いを馳せる主人公に寄り添うように、彼女の煌めく日々にときめきながらページを捲っていたくせに、主人公が望んだものを過不足なく手に入れる結末を読むたびに、なんで、どうして、と行き場のない憤りを感じたものだ。
あしながおじさん、さようなら、と密かに心の中でつぶやきながら、その地面に伸びた真っ黒い影をひらりと飛び越えようとした時、ふとその人が顔を上げた。
「あ」
「え」
どうしてだろう、なんでその時その男の顔を見ようと思ったのかわからない。
そしてどうしてあたしがまだその顔をはっきり覚えていたのかもわからない。
ただ、全身が、びりっと痺れて、あたしは飛び越えられなかった男の影を左足で踏んだまま固まった。
夜はとても静かだった。男の後ろの飲み屋からは、さっきまでそこらじゅうに溢れていたような嬌声も笑い声も聞こえてはこなかった。そしてあたしは静かに混乱していた。この男にもう一度出会ったこの偶然に対してなのか、それともこの男を自分がまだ覚えていたことへの驚きに対してなのか、とにかくあたしは呆然としてしまって、何も言わずに立ち尽くしていた。同時に、決定的な選択肢を間違えた時に襲われる恐怖のような、体の芯の方がゆっくりと冷えていく感覚に全身がひたひたと沈んでいくのを、やけに冷静に感じていた。
二人してずいぶん不自然に押し黙った後で、男が咥えていた煙草を長い指で挟んだ。ごつごつと骨ばった指だった。
「ひさしぶり」
低くかすれる声で、男はまるで自分自身にその言葉の意味を問いかけるみたいに呟いて、
「……って、言うべきなんだろうな、ここは」
そう、あたしをゆらりと見下ろした。
あたしが男を覚えていたように、男もあたしを覚えていたらしい。最後に会ったのはたぶんあたしが小学生の頃で、五年以上は前のはずなのに、どうやらあたしはそれほど変わっていないらしい。目の前の男と同じように。
「何してんのお前、こんなとこで」
ゆっくりと口から煙を吐き出しながら、感慨も戸惑いも見せないその声は、記憶の中の喋り方のままあたしにそう問いかけた。その嘘みたいに白い煙が夜空に向かって立ち上っていくのを意味もなく目で追いかけながら、
「……バイト」
あたしは目一杯の動揺を押し隠し、男に負けないくらい無愛想に答えた。
「あ?」
「バイト」
片眉を上げた男の視線が、あたしの顔から、胸元のリボン、スカート、ローファー、右手の紙袋、とゆっくり動いて、それからもう一度あたしの顔に戻ってきた。
「お前何歳だっけ」
「十七……今年で十八」
「高三」
「そう」
「受験じゃん」
「……しない」
「あ?」
「受験、しない」
「働くの」
なんでこんな話この男にしてるんだろうと思いながら、俯向くように頷いた。かさりと紙袋が夜に鳴った。
もう一度男が長い指を口元に持っていき、煙草を咥えた。ずいぶんゆっくりと、そしてずいぶん静かに、男が息を吸う。変な匂い、と思った。バイト先の先輩が吸うのとも、隠れて煙草を吸っている高校の先生の体に染みついているのとも、全然違う。苦いのか甘ったるいのかよく分からない匂いが、男の体から滲み出していた。
「……あのひと、そういうの意地でも行かせそうだと思ったけどな」
その不思議な匂いの煙を吐き出しながら男がどうでも良さそうに呟いた。
何故だろう、その分かったような、そのくせ本当にどうでもよさそうな呟きに、何故かそのとき瞬間的にカッとなった。
何を、知っているっていうの。
何を知ろうともしていなかったくせに。
何年も前に、数えるほどしか会ったこともないくせに。
どうしてそんな、見透かしたみたいなことを言えるんだ、こいつ。
拳を強く握りこむ。ぎゅっと下唇を噛み締めながら見上げると、そのあたしの怒りに気づいたのかなんなのか、男はぱっと煙草を指から離した。まだ長い煙草がぽとりと地面に落ちる。
目を細めて私を見下ろし、薄汚れたコンクリートの上で燻る煙草を踵でぐりっと踏みつけて、
「……ま、知らねえけど」
ーー 昔々、あたしの、兄、になる予定だった、かもしれない男は、そう言って、かすかに、馬鹿にするみたいに笑ったのだ。
鍵を開けて入った家は真っ暗だった。玄関に真っ赤なハイヒールはない。もう母さんはとっくに出勤したんだろう。ローファーを無造作に脱ぎ散らかして、2LDKの部屋に「ただいま」と呟いた。返事の代わりに、後ろで玄関扉が薄っぺらい音でがちゃんと閉まった。
リビングに入る。最近はもう置き手紙すらない。それは別に、母さんがあたしの親としての義務を放棄したからとかそういうことではなくて、単純に、互いにその必要性が分からなくなったからだ。
テレビをつけ、外の温度と同じくらいに生温いハンバーガーを食べ始める。噛んだ瞬間マヨネーズが溢れ出て、量産品の味が口の中を満たした。
テレビの中ではお笑い芸人が大声で何かに必死に突っ込んでいる。色鮮やかなバラエティ番組。白々しい笑い声があたしひとりきりのリビングの静寂を埋める。
この場所で、向かいの席に母さんが座って、ぼろりと涙をこぼしたのはもう2ヶ月前だ。
仕事帰りの母さんは、あたしが渡した紙切れをよく見ようとして、床に落とした。それを拾おうとしたとき、今度はかけていた眼鏡が落ちた。眼鏡を拾おうと床に手を伸ばし、足元がふらついて、眼鏡を踏んで割ってしまった。
前屈するような格好で、割れたレンズを踏んづけたまま、何故か母さんは固まってしまった。マネキンみたいに動かない母さんにあたしは慌てて、洗面所からタオルを持ってきて、母さんの足を動かしてその下でばりばりに砕けた眼鏡を片付けた。母さんのくるぶしの冷たい硬さに驚いた。ストッキングに包まれた踵は乾いた地面みたいにひび割れていて、割れたガラスは刺さっていなかった。
片付け終わって、なんだかあたしは疲れてしまって、いつもの席に座った。母さんも、ようやく体の動かし方を思い出したかのように、あたしの向かいに腰を下ろした。そうしてしばらくの間、二人して沈黙していた。狭苦しい夜だけがリビングを満たした。
「……限界なのかもね、もう」
母さんが、小さく呟いた。そして自分の呟きに驚いたみたいに少しの間固まって、ぱち、ぱち、と瞬きをした。
どうやら、口に出したら、限界、という言葉の重みに、ぽきりと心が折れてしまったようで。俯いたまま、ぼろりと、母さんの目から涙がこぼれ落ちた。
意外と動揺はしなかった。ずっとずっと頑なに意地を張り続けていた人が折れる様は痛々しかったけれど、それだけといえば、それだけだった。ずっと前から予想していたみたいな冷静さで、あたしは目の前の細い女の人の震える肩を、ずっと遠くから見ていた。そして、進路調査表のしわを丁寧に伸ばし、一番上に書いた大学の名前を、消しゴムで消した。
まあ、そんなことがあって、あたしは最近バイトを始めたし、母さんは最近昼の仕事を辞めて夜の仕事を始めた。再開した、と言ったほうが正しいかもしれない。でも、あたしがまだ小学校に上がる前、あたしの面倒をみながら女手一つで子供を育てるために母さんが夜の仕事をしていた、あの頃と決定的に違うことがある。
それは、一度目は、あたしとともに暮らすための選択で。
二度目は、あたしがいなくなってから女として暮らすための選択だということだ。
もそもそと乾いたハンバーガーを咀嚼する。ちかちかと目まぐるしく変わるテレビの光がテーブルに忙しなく落ちては消えて、遠いところで起こっている何か面白いらしいことに対する笑い声ばかりが薄暗いリビングに反響する。ずるり、とレタスが薄いパンの間から滑り落ち、ぺちゃ、と色あせたテーブルクロスに落ちた。
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間に合わないかもしれない、とは、店を出た時点で思っていた。遅番の大学生がなかなか来なくて、出勤二分前にようやく来たと思ったら、たらたら準備をするものだから、あたしの退勤時間が十五分も遅れてしまった。快速が止まらないこの駅で、この時間に乗り遅れたら次は十七分後。夜になってもちっとも爽やかにならないこの蒸し暑さの中、冷房もないホームで十七分も待つなんて、ただの地獄だ。
ネオンの間を通り抜け、この間男と出会ったあたりを小走りに通りすぎる。あれからもう三度バイトに入っているけれど、男と会うことは一度もなかった。あの人がこの辺りで働いているのか、この辺りに住んでいるのか、それともただあの日はたまたまこの辺りに飲みに来ていたのか。あたしにはわからないし、きっとこれからも知ることはないんだろう。
線路が見える。電車が来ている。小走りから、本格的に走り始めようか、それとももう諦めようか、膝のあたりの関節が一瞬迷う。がさっとハンバーガーの入った紙袋が揺れる。鞄を抱え直した、その瞬間、ぷるるるるる、と発車を告げるベルが鳴った。
あたしは改札口へと伸びる階段の手前で立ち止まった。汗が背中を伝ってスカートのウエスト部分にじっとりとしみ込んでいく。肩で息をする。体が熱い。
間に合わなかったあたしを置いて、電車がゆっくりと、寝起きの気怠さを引きずるようにゆっくりと動き始めた。遠ざかっていく。車掌がホームを戻っていく。立ち尽くすあたしの横を、どこか知らない街から乗ってきたんだろう、数人のサラリーマンが陽気な笑い声をあげながら通り過ぎる。
どうした姉ちゃん、迷子か、と、そのうちの一人があたしに声をかけた。こんなとこで客引きしてんのか。あれ、制服じゃん。学校帰り?高校生?ホンモノ?あ、俺らと一緒に来る?おいおいやめとけよ、捕まるぞ。
彼らの関心は波のようにあたしに向かい、最後の一人のひと言で、波のようにあたしから離れていった。
駅前の暗い通りの向こう側、色とりどりのネオンが重なって輝いている。明るい夜の街にサラリーマンたちは消えていく。あたしはぽつんと駅に取り残されて、その光景を惚けたように眺めた。
生暖かい風がスカートをさらっていく。汗ばんだ首に髪が張り付く。
行き交う人々、笑い声、客を呼ぶ店員たち、女を呼ぶ男、男を呼ぶ女。
みんな一体どこからやってきて、どこへゆこうとしているのだろう。
「何やってんのお前」
上から声が降ってきた。
聞き覚えのあるその声に、はっとして階段を見上げる。階段の上、改札口の白い蛍光灯の光が眩しくて、目を細める。ゆっくり、だらだらと階段を降りてくる男は、相変わらず煙草を口の端に咥えていて、あたしを怪訝そうな顔で見下ろした。二つボタンを外したワイシャツと、細身のパンツ。この街でよく見るサラリーマンと似たような姿をした男は、脂ぎった酔っ払いのあの不潔感はない代わりに、どこまでもぱさぱさに乾いていた。
「あ……」
「なんでそんなとこ突っ立ってんの」
「電車……」
「バイト?」
「……先輩が、遅れて」
「ていうか高校生ってこんな時間まで働いてていいの」
いまいちあたしと男の会話はかみ合わなくて、けれどそれは不思議と不愉快ではなかった。男が、ざり、と階段の一番下にたどり着く。煙を吐き出しながら男は横目であたしの紙袋をちらりと見た。なぜかわからないけれど、なんだかあたしはその視線に居た堪れなくなって、そっと紙袋を自分の体の後ろに隠した。
男が、こき、こき、と首の骨を軽く鳴らして、歩き始める。あたしはなんとなくその背中を黙って目で追った。ネオンの眩しさの中、男の影はやけに黒い。
男が、少し離れたところで、足を止めた。
あたしを振り返る。
あの、男が放つ独特な匂いが、鼻を掠めた。くたびれた視線がどうでもよさそうにあたしを眺めて、
「……来れば」




