おねがい
パソコンの前に座った男が、かちかちとマウスをいじる音だけが部屋に響く。男は煙草を噛んでいて、けれどその先端に火は点いていない。男は滅多に部屋の中で煙草を吸わない。でもどうやら口に咥えていないと落ち着かないようで、しょっちゅうこうやって火の点いていない煙草を口の端で噛んでいる。
あたしはベッドに寝転がり、その背中から目をそらして天井を見上げていた。白い天井。アパートのあたしの部屋の天井よりも、強い白。その、男に似合わない清潔な色に、私は思わず小さく舌打ちしてから、ごろんと寝返りを打った。
「何やってんのお前、さっきから」
男がこっちにやってきて、ベッドに腰掛けた。スプリングが軋んだ音を立て、体が微かに沈む。
「別に」
「ふうん」
あたしは今日ここに来てからずっとこんな感じで、まともな言葉も発さずに不機嫌で、そんなあたしに男はいつも通り詮索しない。その男の無関心にすら苛立った。けれど相手になんかされないだろうから、あたしはまた寝返りを打つ。
さらりとしたシーツに顔を埋める。噎せ返るような男の匂いが肺を満たす。腐りかけの果実みたいに甘くって、火葬場の煙みたいにいがいがしてる。その匂いを吸い込んで、吐き出して、
「……いきぐるしい」
思わずそう呟いていた。
うつ伏せにベッドを占領したまま、ぎゅうっとシーツを握りこむ。ああ、馬鹿にされるだろうか。鼻で笑われるだろうか。それとも、反応すらされないだろうか。すぐ近くに男の背中の気配を感じながら、そちらに顔を向けられないあたしに、
「いきぐるしいの、お前」
平坦な男の声が降ってきた。
言葉が返ってきたことに驚いて体を起こす。男はさっきと同じ体勢で、あたしに背中を向けてベッドに腰掛けていた。あたしの方を見てもいなかったけれど、いきぐるしい、ともう一度確かめるように言うと、
「生きてんだな」
そんな、端的な言葉が、当たり前みたいな響きで返ってきた。
ベランダへ続く窓は薄く開いていた。そこから外の音が漏れてきて、ぱぁん、と遠くで車のクラクションが響いた。柔らかい風にカーテンが揺れる。外の夜には月が浮かんでいて、滲むように周りの雲を照らしている。
ふと、胸がざわめいた。出所も分からない、理由もわからない不安に襲われて、気付いたら、男の袖を掴んでいた。
そんなことをしたのは初めてで、男も驚いた顔であたしを見た。
「……傷つけられたことって、ある?」
その温度のない目に問いかける。
「傷つけた、こと、は?」
ーー あたしだって、自由に生きたかったわ
三者面談を終え、担任が大学に進まないのはもったいない、と何度も繰り返したことが気に入らなかったらしい母さんは、教室を出るなり、あたしなんか十八でもう結婚してたわ、と苦々しく呟いて。でもそれは、自分でした選択じゃないかと、思わず黙り込んだあたしを見て、少しはしまったと思ったのか、
ーー でも、あんたも高校卒業したら、もう全部好きにしていいから
まるでそれをあたしが喜んでいると思っているかのようにそう言った。その言葉に、あたしは何か、今までずっと見ないふりをしていたところで感情が瞬間的に煮え立ってしまったようで、
ーー あたしが高校を卒業したら、全部好きにしたいのは、母さんの方でしょう
そう、言い返してしまった。それに母さんはひどく驚いて、それからきゅっと細い眉をしかめた。
ーー どういう意味?
ーー 別にあたし、高校卒業してすぐ自分で稼いで、そのお金で自由に生きることを、自分で望んでるわけじゃない
ーー なに?高校卒業しても金出せってこと?
ーー そういうことじゃなくて
ーー 大学行きたいなら行けばいいわ。別に止めないし、応援する。今って奨学金制度とか整ってるんでしょ、いろいろ。先生も言ってたみたいに
そうじゃない、そうじゃない、と思いながらもうまく口にできなくて、地団駄を踏むのをなんとか堪えた。そんなあたしを母さんは不思議そうな顔で見るので、もう、叫びだしたくなった。母さんは、自由っていう大義名分を掲げてあたしを放りだそうとしてるんじゃないか。もういいでしょ、もう十分でしょって、”母親”という役割から逃げたいだけじゃないか。応援する、という響きの白々しさは、ブラウン管の向こうのオリンピックに手を叩くような、それぐらい遠かった。
その非難が顔に出てたのか、母さんは顔を歪めた。あたしから目をそらし、
ーー あたしだって、自由に生きたかったわ
そう、ぽとりと呟いた。呟いてから、はっとした顔であたしを見た。そして、
ーー あたしのせい?
掠れた声であたしがそう言うと、何も答えず、ジャケットを羽織ってあたしに背を向けたのだ。
あたしを傷つけて、傷ついた顔をした母さんは、勝手だ。勝手だけれど、責めることはできなかった。だって、傷ついたあたしも、大概勝手だからだ。あたしは、母さんが、あたしのせいで奪われた自由に焦がれていたことをもう十分知っていた。けれどそれをせめて口にはしないだろうと、それぐらいは母親でいてくれるだろうと、そんな勝手な期待をしていたのだ。
あたしの問いかけに、男はしばらく何も言わなかった。痛いほどの静寂につつまれて、また、遠くどこかで、とぼけた音で車のクラクションが鳴った。
沈黙にだんだんと頭が冷えてくる。そうすると、なんだか恥ずかしくなってきた。なんでもない、と小さな声で呟いて、男の袖から手を離す。
「……すげえな」
男がふいに呟いた。思わず、は?と聞き返すと、男は横目であたしを見て、
「お前、一生懸命生きてんだな」
いっしょうけんめい、という言葉を、ひどく言いにくそうに男は発音した。その響きは全然男に似合わなかった。
傷つけられて、傷ついて、そのことで相手を傷つけて。
傷つけて、そのことに傷ついて。
「……それはそれで、生々しくて、いいんじゃねえの」
男はあっさりそう言った。まるで完全な他人事みたいに。自分はそうではないとでも言うかのように。
その飄々とした声がいっそ憎々しくなって、あたしはぎゅっと眉をしかめて膝を抱えた。制服のスカートがシーツを滑る。不可抗力じゃないか、と、下唇を噛み締めた。
不可抗力じゃないか。こうやって生きる以外の方法があるのなら、あたしはそっちを選びたい。別にあたしは傷つけたいわけでも傷つきたいわけでもなくて、
「……別にあたしは望んでない」
弱々しい声が漏れた。男があたしを見るのがわかる。ぎゅうっと膝を抱え、顔を埋める。
あーあ、なんでこんなことになってるんだろ。
別に波乱万丈な人生とか望んでないし、普通の高校生活を送りたかった。もっと納得できる形で、穏便に、できれば自分で望んで、就職したかった。母さんとも普通の母娘でいたかった。こんな形で傷つけたくも、傷つきたくもなかった。
ほんと、なんで、こんなことになってるんだろう。
そんで、なんで、こんな男にこんなに縋ってるんだろう。
「……捨てるんだろうな」
ぼそり、と、男が呟いた。低いその声はすぐに静寂に溶けて、え、とあたしが顔を上げると、何も言ってないみたいな表情で男は煙草を噛んでいる。けれど、あたしが見つめているのに気づくと、あたしを横目で見て、
「思い出を」
と付け加えた。
次から次へ、忘れ続けて。
もっと大切なものがあるふりをして。
そうやって、うまいこと迂回できる生き方を知るんだよ。
夜の風が吹いてくる。それはあたしの首筋を撫で、男の黒髪を揺らす。男は私から目をそらした。何を考えているかわからない表情で、火の点いていない煙草を咥え直して、
「まあ、でも、そういうのは、やめとけ」
と、言った。
そうやって、男は生きてきたんだろうか。
思い出を捨て、大切なものを捨て、望んで空っぽになりながら。
傷つけることからも、傷つけられることからも、穏やかに遠ざかりながら。
窓の外で月が見ている。それはあたしの生傷と、男の哀しいからっぽを、音もなく照らし出す。男がひどく遠い気がした。今まで何度も体を重ねてきた男の、あの高い体温が、急に思い出せなくなった。
ねえ、と、掠れた声で男を呼ぶ。
生きてる?
思わずそう聞いていた。男はゆらりと視線を上げて、ふっと笑った。
どう思う。
それは質問なのか独り言なのかわからなくて、私はぎゅうっと眉を寄せた。
お前のそれが、もし生きてるってことの証なら、俺はお前の世界じゃとっくに生きてないんだろうなぁ。
そんなことをなんの感慨もなく言うので、男が煙草をぽいとテーブルに放るのを横目に見ながら、さびしい、と思った。
さびしい。さびしい。この人は、きっと、あたしと同じ世界に生きることを、はなから望んでなんていない。
ねえ、生きて。
泣き声の切れ端みたいな声が喉から漏れた。あたしに向き直り、乱暴に、そのくせ頭や頭や肩がベッドにひどくぶつからないように肩甲骨の少し上に骨ばった腕を差し入れて、押し倒しながら男はくつりと湖畔にひとつだけ浮き立った泡の弾けるような音で笑った。
おねがい。
最後の吐息が引き攣った。そしたら本当に泣きだしそうになってしまって、ぐっと目に力を込めた。
おねがいって、いいな。そそる。
そう、それほどそうとも思っていないような口調で的外れなことを呟いて、男はあたしの鎖骨に噛み付いた。