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月を飲む  作者: 隼海よう
9/14

指輪


 しあわせなんだな、今。

 男が独り言みたいにつぶやいたその言葉が、あまりにも耳馴れなくて、一度聞き流してしまった。聞き流してから、あれ、と思った。ちらりと目を上げると男が私を見ていたので、その視線で、今の言葉が私に投げられたものだと気付いた。

 男の深く黒い瞳が、テーブルに置かれた私の手を見る。左手の小指。華奢なピンキーリングが、窓から差し込む日差しにきらりと光る。それほど高価なものではないけれど、とても気に入って買ってもらったものだった。けれど私は今それを反射的に右手で隠した。隠してから、あ、と思った。

 しあわせ。

 例えばそれは、ショーウィンドウに飾られた可愛らしい家具とそれらを見ているカップルを、寒々しい外の景色を眺めながら飲むスープの湯気を、鮮やかな夕陽に彩られた家路を指すのだと思う。

 しあわせには、いつも未来の音がする。

 隠してしまった小指に罪悪感を感じながら黙り込んだ私に、男は小さく、片方の口の端をくっと持ち上げるように笑った。見透かされてる、と思った。それに不思議と腹は立たず、代わりに、

「……しあわせ、なの、かな」

 思わず、ぽろりと、溢れてしまった。それが音になった途端に、猛烈な自己嫌悪に襲われた。

 三秒くらい、男は私をじっと見ながら沈黙していた。私は男の目を見返すことができなくて、小指を隠した右手の甲をじっと見ながら沈黙していた。

 そして、男は、

「知らねえよ」

 低く、ばっさりと、私の言葉を切り捨てた。

 そんな資格はないくせに、ずきんと心臓の裏側あたりが鋭く痛む。それはいっそ懐かしい痛みで、思わずふっと笑ってしまった。右手を左手の上から退ける。

 男は、出会ってからずっと、甘やかしてなんてくれなかった。優しくして、なんて言ったこともなかったけれど、そんなことを求めようとすら思えないくらいに、容赦などしてくれなかった。いや、一度くらい、優しくされたこともあったような気もする。けれど、もうそれがいつだか覚えてもいないし、男と交わしたいくつもの会話のどれを思い返しても、感心するくらいに男はいつだって優しくなかった。

「……初めて会った日、覚えてる?」

 なんだか少し可笑しくなって、かすかに笑いながらそう問うと、男は少し怪訝そうな顔をした。

 あの初めての食事会で、なんだか見たこともないようなお洒落な食事に、大きなにんじんのグラッセが出てきた。一口食べて、不自然なほどにんじんの風味は強いくせに甘ったるいそれに、箸が止まってしまった。

 食べられない、と思い、けれど食べなきゃ嫌われるんじゃないか、私じゃなくて、母さんが、母さんの好きな人に、と考えて、なんとか食べようとしたけれどやっぱり食べられなくて、私はただ固まった。

 母さんをちらりと見た。母さんは私なんか見てなかった。口を押さえ、楽しくて堪らないとでも言いたげに笑いながら、ただ目の前の恋人を見ていた。むしろ、その恋人が気づいてしまった。その人は、箸を中途半端に止めた私を見て、ふっと笑った。

『にんじん苦手?』

 優しく、親戚の叔父さんみたいに問われて、私は途方に暮れてしまった。にんじんは嫌いじゃないから、首を横に振り、けれどこの料理は食べられないから、頷く代わりに小さく俯いた。

『お前、食べてやりなよ』

 その人は、隣に座る息子に言った。私は驚いてぱっと顔を上げた。この年頃の子はにんじん嫌いな子も多いよね、と、わかったようなことを言って私に笑いかける母さんの恋人の隣で、男は、私のことをちらりと見た。その日一度も口を開かず、ただ黙々と出された食事を機械的に食べていた男は、私を見て、私の目の前の食べかけのにんじんを見て、もう一度私を見てから、自分の料理に目を戻した。

『知らねえよ』

 たぶん、それが、その日男が喋った唯一の言葉だった。お前はまたそうやって、女の子には優しくするもんだぞ、と苦笑いする父親の横で、もう、一人だけ薄膜の向こうにいってしまったように、男は黙々と食事を再開した。

 あ、と思った。

 もうあたしのことを見もしないその人の、黒々とした睫毛を見つめながら。

 あ、この人、私が子供であることで何かを許す気なんてひとつもないんだ、って。

 幼い私は、逃げ道をふさがれたみたいに、恐ろしくなったことを、思い出した。

「知らねぇけど、気にいらねぇな」

 あの、もう十年以上前の記憶から引き戻されて、はっとした。なにが、と思って男を見ると、その目は私の小指を見ていた。そこではさっき私が隠した指輪が西日を反射してささやかに輝いていて、思わずぴくりと指が動く。けれどもう隠すこともできず、かといってうまく誤魔化すこともできずに、戸惑う。ただ手を握りこんだ私を、一度、男はとても強い視線で見つめた。その目に縛られたみたいに私は一瞬呼吸を忘れて、けれどすぐに男は目をそらし素知らぬ顔で珈琲を飲む。

「……そういうこと、言わないで」

 掠れた声が、漏れた。

 おねがいだから。

 そう付け足した声は思ったよりも弱々しくて、思わず男から視線を逸らした。

 指輪を隠した罪悪感と、割り切って笑えない自己嫌悪と、あの頃の記憶に引きずられるみたいな胸の痛みと、いろいろなものが溢れ出してしまいそう。

 男が一瞬きょとんとしたのが分かった。束の間、男のざらついた空気が解ける。けれど次の瞬間、男は、喉の奥でくつくつと笑い始めた。

「……懐かしいな、お前の『おねがい』」

 一度だけ、言ったこと、あったよな。

 そんな、懐かしむみたいな、全然似合わないことを男が言うので、今度は私がきょとんとしてしまった。

 そうだっけ。

 そんなこと、あの頃の私が、あの頃の男に、言ったことなんて。

 記憶を探り、あ、と顔を上げると同時に、ふいにあの強引に体の奥を侵すみたいな匂いが強くなって。

「おねがいって、いいな。そそる」

 その低い声に、噛みつかれたみたいに、動けなくなった。


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