スペシャル 番外編 「三人日和」
『ひより日和』スペシャル番外編です。
今回は、少しだけ時間の進んだ朝倉家の一日を書きました。
『紅葉便り』を読んでくださった方には、途中で見覚えのある場面が出てくるかもしれません。
本編を知らなくても読めますので、気楽に楽しんでもらえたらうれしいです。
1
秋が深まってきた。
大蔵屋百貨店の十月の催事は、イタリアフェア。
食品売場にはイタリアの食材がずらりと並び、連日かなりの賑わいらしい。
オリーブオイルを買おうとは決めているのに、定時後ではとても寄れそうにない。
今、インフォメーションはひとり足りない。
そのうえ私は日勤中心で、週の半分近くは十階のサービスカウンターの穴埋めに入っている。
もうすぐ十七時。
遅番は、二年前の新卒採用の脇坂紗英ちゃんと、入社五年目のインフォのエース戸田結花ちゃんだ。
時計に目をやったところで、ちょうどふたりがやってきた。
落とし物の件と、いまの館内状況を引き継いで、私はもう一度時計を見る。
すると結花ちゃんが、気を利かせるように言った。
「ひよりさん、もう時間じゃないですか?」
紗英ちゃんも、すぐに続ける。
「こっちはもう、だいたい大丈夫です。行ってください」
「ありがと。あとよろしく」
そう言って、私はロッカールームへ引き上げた。
着替えている最中、LINEの通知が入る。
恒一さんかと思って開いたら、恵美だった。
神田恵美
〈かわいい〉
ひと言だけ添えられて、その下に赤ちゃんの写真。
恵美は時々、こうして写真を送ってくる。
近くに住んでいるから、休みの日にはお互いの家を行き来することも多い。
衛も、こんなふうに小さかった時期があった。
そんなことを思いながら見入っていたら、また通知が鳴った。
朝倉恒一
〈まだか〉
しまった。
今度は恒一さんだ。
私はスマホをしまって、慌てて通用口へ向かった。
ドアの前には、恒一さんが立っていた。
「お疲れさまです。ごめんなさい」
「ああ、急かした?」
「大丈夫です」
「まだ、余裕あるけどな」
「帰り、スーパー寄りたいです」
「うん」
恒一さんが早番の日は、だいたいいつもこんなふうに、定時のあとが続いていく。
2
東京駅からJRのホームに入ると、人の多さに思わず足が止まりそうになった。
恒一さんは少し目を上げて、電光掲示板を見ている。
「東横線、止まってるみたいだな」
「事故ですか?」
「いや、信号の不具合らしい。こっち、混むな」
流れる人の多さに、私もつられて掲示板を見上げた。
「お迎え、間に合うかな」
「いつもよりは遅れるかもな」
「電話しときます」
「うん」
少しして電車は来たけれど、遅れていたぶんだけホームには人が溜まっていて、扉が開くと一気に車内へ流れ込んだ。
押されるように乗り込んで、気づけば隅のほうに寄せられていたけれど、前には恒一さんが立ってくれていたから、知らない人とぶつかったままになることはなかった。
車内は落ち着かないほど混んでいた。
そのせいか、武蔵小杉に着いたころには、もう十八時を少し回っていた。
駅を出ると、私たちは少し足早に保育園へ向かった。
掃き出し窓の内側には煌々と明かりがついていて、部屋の中には十人ほど園児が残っていた。
先生が私たちに気づいて、床に車のおもちゃを走らせていた衛に声をかける。
「衛くん、お帰りの用意してー」
その声に顔を上げた衛は、私たちを見るなり、ぱっと表情を明るくした。
「おかーしゃん!」
その声だけで、一気に疲れがほどける。
かわいいなと思う。
先生は、荷物をまとめる間に、今日の様子を軽く話してくれた。
「ちょっと、今日、衛くんお昼寝短かったです」
そう聞いて、私は衛の顔を見る。
元気そうに見えても、少し眠いのかもしれない。
挨拶をして保育園を出ると、通園用のリュックと着替えの袋は私が持って、恒一さんは衛と手をつないで歩き出した。
けれど衛は、しばらくすると目をこすりはじめた。
やっぱり眠いのだろう。
このまま買い物に寄って大丈夫かな、と考えていると、衛が足を止めた。
「だっこ」
上を向いて、恒一さんを見る。
「歩け」
「やだ。だっこ」
そう言って、両手をばんざいみたいに上げる姿が、いかにも限界ですと言っているようで、少しおかしかった。
「眠いみたい」
私がそう言うと、恒一さんは何も言わずに衛を抱き上げた。
衛は安心したみたいに、すぐに恒一さんの肩へ頭を預ける。
その様子を見ながら歩いていると、恒一さんが私のほうを見た。
「なんか、食って帰る?」
「あ、いいの?」
「今からだと遅くなるし、ご飯のころには寝てそうだ」
恒一さんの肩にもたれている衛を見る。
たしかに、もうかなり眠そうだった。
「そう? じゃあ、ファミレスでいいね」
3
駅近くのファミリーレストランは、思ったほど混んでいなかった。
フロアが広いせいで、そう見えるのかもしれない。
席に座っても、衛はまだ眠そうにしていた。
とにかく、何か少しでも食べさせてから寝かせたい。
子ども用のキッズプレートと、ハンバーグを二つ頼む。
メニューを閉じながら、私は衛の顔をのぞき込んだ。
「衛、ちょっとだけでも食べようね」
「ねむい……」
やっぱり眠いのか、食はあまり進まなかった。
特によく噛まないと飲み込みにくいものは、いらないと首を振る。
「これは?」
スプーンで少しすくって見せても、衛はふるふると首を横に振った。
「いらない」
「そっか」
衛に食べさせながら、私も自分の分を口に運ぶ。
けれど落ち着いて食べる余裕はあまりない。
キッズプレートの皿の上は、衛がいらないと避けた野菜と、食べかけのハンバーグと、オレンジ色のご飯と巻いたスパゲティが混ざって、もうほとんど原形をとどめていなかった。
眠いせいか、衛は少し機嫌も悪い。
それでも半分は食べたから、今日はもうそれでいいことにする。
「もういい?」
「うん。頑張ったね」
そう言うと、衛はこくりとうなずいて、椅子にもたれた。
恒一さんは、そんなキッズプレートを皿ごと自分のほうへ引き寄せた。
「食べるの?」
思わずそう聞くと、恒一さんは気にした様子もなく箸をつける。
「残すのもったいないだろ」
ぐちゃぐちゃになった皿の残りを食べる恒一さんの姿なんて、結婚前には想像もしなかった。
けれどこの人は、我が子の食べ残しなら、なんでもないことのように口にする。
それがなんだか、おかしくて笑った。
「ほんと、平気なんだ」
「衛のだしな」
短くそう言って、恒一さんは崩れたハンバーグを口に運ぶ。
私はその横顔を見ながら、ああ、この人はちゃんと父親なんだなと、今さらみたいに思った。
4
ファミリーレストランを出ると、もう十九時半を回っていた。
衛は恒一さんに抱かれたまま、まだ眠そうにしている。
けれど、完全に寝てしまったわけではないらしく、ときどき薄く目を開けていた。
帰る前に、スーパーで買うものがある。
「牛乳、ありました?」
私が聞くと、恒一さんは考えるようにしてから答えた。
「今朝、飲んだ」
「じゃあ買わないと。パンもなかったよね」
売り場を見ながらそう言うと、パンの棚の奥にいた恒一さんが、顔を上げる。
「プリンは?」
「プリンも」
あれこれ買いすぎると重くなる。
今日は衛が自分で歩かないだろうし、ほどほどにしておかないといけない。
そう思っていたのに、お菓子売り場に入った途端、衛が恒一さんの腕の中で身じろぎした。
「降りるの」
「うん」
恒一さんがしゃがむようにして床へ下ろすと、衛はそのままお菓子の棚をじっと見つめた。
「一個だけね」
そう言うと、衛は素直に「うん」と頷く。
けれど、そこからが長かった。
あっちを見て、こっちを見て、棚の前をうろうろしている。
眠いはずなのに、こういう時だけ妙に真剣だ。
その様子に、恒一さんが先に口を開いた。
「まだか?」
「急かしたら、余計に決まらないから」
私がそう言うと、恒一さんは間をおいて、
「……そうか」
と、素直に引き下がった。
そのやり取りがおかしくて、また笑いそうになる。
そのとき、向こうから若い女性が、お菓子売り場の通路へ入ってきた。
どこかで見たことがある、と思って、私は思わずその顔を見た。
誰だっただろう。
そう考えて、思い出す。
駅前広場だ。
衛が水筒を落として、転がっていったそれを拾って手渡してくれた人。
向こうも衛の顔を見て、思い出したようだった。
目が合ったので、私は軽く会釈する。
彼女も小さく頭を下げて、それから緑色の箱のチョコレートを取ると、通路を戻っていった。
ほんの一瞬のことだったのに、ちゃんと覚えていたことがうれしい。
「おかあしゃん」
呼ばれて振り向くと、衛がようやく決めたらしい。
小さな箱入りのビスケットを両手で持って、こっちを見ていた。
「決まったの?」
衛はこくんと頷く。
その顔が、ちょっとだけ誇らしそうに見えた。
5
帰宅すると、私はすぐに給湯器のスイッチを入れた。
衛が寝てしまう前に、お風呂だけはどうにか済ませたい。
買ってきたものを冷蔵庫にしまって、それから衛にスマートフォンを渡す。
子ども向けの動画を見せて、なんとか眠気をまぎらわせていた。
そうしているうちに、給湯が終わった。
恒一さんは衛の手からスマートフォンを取り上げると、そのまま脇の下に手を入れてひょいと抱え、脱衣所へ連れていった。
私は衛のパジャマと、恒一さんの着替えをダイニングテーブルの上に置いて、ふうと小さく息をつく。
今日は、いつもより帰るのが一時間遅かった。
ここから衛がお風呂を上がったら、着替えをさせて、髪を乾かして、少しだけ水を飲ませて。
まだやることは続いている。
その時、脱衣所のほうから声がした。
「ひよーー」
「はーい!」
返事をしながら、私はダイニングテーブルに置いた恒一さんの着替えを抱えて立ち上がった。
脱衣所で、私はバスタオルにくるまれた衛だけを受け取った。
そのままダイニングへ連れていって、身体を拭いて、服を着せる。
「歯みがきした?」
そう聞くと、衛はこくんと頷いた。
「お父さんにしてもらった?」
「うん。イタイの」
「ごしごしされたの?」
「うん」
ちょうどその時、恒一さんがダイニングに入ってきて、呆れたように言った。
「大げさだな」
私は膝をついたまま、衛の顔をのぞきこむ。
「あーんして」
衛は素直に口を開けた。
見る限り、血は出ていない。
赤くもなっていないし、大丈夫そうだった。
「なんともなってないから、大丈夫」
「うん」
頷く衛の頭を、私は軽く撫でた。
「明日も保育園だし、もう寝ようね。お父さんにおやすみ言って?」
「おやすみ」
「おやすみ」
恒一さんの声は、優しかった。
6
衛を寝かせてダイニングへ戻ると、恒一さんはもう缶ビールを開けていた。
「寝た?」
「うん。すぐ寝た」
そう答えると、恒一さんがテーブルの上のプリンを見た。
「プリン食べる?」
「うん。私も歯磨き前に食べよ」
マグカップにお茶を入れて、恒一さんの向かいに座る。
ダイニングには子ども用の椅子があって、リビングにはおもちゃ箱がある。
洗濯物は増えたし、毎日時間に追われてばかりだけれど、それでもこうしてふたりで他愛もない話をする時間が、私は好きだった。
「なんか疲れたな」
恒一さんがそう言って、缶ビールを持ち上げる。
帰り道、ずっと衛を抱いていたのだから無理もない。
衛は平均より少し大きい。
もう十三キロは超えているかもしれない。
「ずっと抱いてたから。重かったでしょ」
「まあな。でも、短い間だから」
そう言ってから、恒一さんは笑った。
「そのうち、抱けなくなるし」
「今日は電車も混んでたしね」
「明日は普通だろ」
そんな話をしながら、私はプリンをスプーンですくった。
口に入れようとした、そのときだった。
寝室のドアが、ほんの少し開いた。
そちらを見ると、衛が立っていた。
眠そうな顔のまま、まっすぐこっちを見ている。
というより、その視線はダイニングテーブルの上にあるプリンの容器に釘付けだった。
「あっ」
思わず私も恒一さんも動きを止める。
「ぷりん」
衛が言って、それから小さくもう一度、
「まもるの」
と続けた。
「歯磨きしたでしょ」
私はとっさにそう言った。
けれど衛は、泣きそうな顔のままこちらを見ている。
「ぷりん……」
その声に、恒一さんが小さく息をついて、仕方ないという顔をした。
「こっち、おいで」
衛はすぐに父親のそばへ行って、そのまま見上げる。
「もう一回歯磨きだぞ」
「うん」
返事だけは素直だ。
恒一さんは衛を膝にのせて、自分のプリンを少しずつ食べさせはじめた。
その様子を見て、私は思わず言う。
「甘いんだから」
衛に、なのか。
恒一さんに、なのか。
自分でもわからないまま口にしていた。
それでも、泣かせるよりはいいかと思ってしまうあたり、私もたぶん同じだった。
私は苦笑しながら立ち上がって、そのままお風呂へ入るために脱衣所へ向かった。
お風呂から上がって寝室に入ると、ふたりはもうベッドに横になっていた。
衛は恒一さんの腕のそばで、すっかり眠っている。
その寝顔を見て、私は小さく笑った。
「ベッド、狭くなりましたね」
「そうだな」
恒一さんも、眠っている衛を見ながら答える。
ワイドダブルのベッドも、この先いつまで三人で並んで眠れるのだろう。
同棲していた頃から、新婚の時間を過ごしたのもこの部屋だった。
この家にも、この寝室にも、思い出はたくさんある。
けれど、衛が大きくなっていくぶんだけ、今のままではいられないのかもしれない。
そろそろ新しい部屋を探す時期なのかな、とぼんやり思う。
「あと一年くらい大丈夫だろ」
私の気配を読んだみたいに、恒一さんが言った。
「そう思っときます」
そう返して、私はベッドに入る。
枕元のランプに手を伸ばして灯りを消すと、部屋はすぐに静かな暗さに包まれた。
狭くなったはずのベッドなのに、不思議と嫌じゃない。
あたたかいなと思いながら、私もそっと目を閉じた。
ひより日和 スペシャル 番外編 「三人日和」 おわり
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
今回は、特別な出来事ではなく、今の朝倉家の何でもない一日を書いてみました。
こうして久しぶりにひよりたちを書いてみると、相変わらずこの人たちは、普通に暮らしているだけで話になるなあと思います。
『紅葉便り』を読んでくださった方は、スーパーの場面で気づいてもらえたでしょうか。
あちらでは紅葉から見えていた一瞬を、今回はひよりの側から書いてみました。
そして、9月7日からは新連載
**『冬の楓』**が始まります。
また少し雰囲気の違う恋愛のお話になりますが、こちらも読んでもらえたらうれしいです。
『三人日和』、最後までありがとうございました。




