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モラハラ勇者の「真実の愛」とやらにつき合うのをやめたら、人生が楽しくなりました  作者: 九葉(くずは)


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第1話 私は死んだ

 私は死んだ。

 勇者の「真実の愛の相手」として、過労で。


 最後に見たのは、野営地の焚き火の残りだった。

 横倒しになった視界の端で、火の粉がひとつ舞い上がるのが見えた。地面が冷たかった。秋だったと思う。背中に小石が食い込んでいたのを覚えている。


 声が聞こえた。


「立て、フィーネ。お前は俺の真実の愛の相手だろう。だから立てよ」

 ライアスの声だ。苛立ちと、ほんの少しの焦りが混じった声。焦りのほうが意外だった。この人が焦るところなんて、十年で三回くらいしか見たことがない。


 立てない、と思った。

 足が動かないのではなくて、もう何も動かなかった。魔力が空になると人間はこうなるのだと、知識としては知っていた。知識として知っていることと、自分の体で味わうことは違う。


 視界が暗くなった。

 焚き火の匂いだけが最後まで残った。



 ——光。


 目を開けた。

 天井がある。木の梁に、乾いた薬草の束がぶら下がっている。

 知っている天井だった。十五歳まで暮らした自室の天井。薬草はラベンダーで、母が虫除けに吊るしたものだ。右端の束だけ少し傾いていて、直そう直そうと思いながら結局十年そのままだった。


 十年。


 いや、違う。


 私は二十五歳で死んだはずだ。

 体を起こした。手が小さい。爪が短い。指先に、魔法薬の焼け跡がない。戦場で浴びた薬液の痕も、夜通し詠唱を続けて硬くなった指の皮も、全部ない。


 鏡を見た。

 十五歳の顔が映っている。頬がまだ丸い。目の下に隈がない。


 記憶だけが、二十五歳のまま残っていた。


 十年分の記憶が、順番を無視して押し寄せてくる。

 入学式の日。ライアスに声をかけられた日。「お前、すごい魔力だな。俺のパーティに来い」と言われて、胸が高鳴った日。

 遠征の日々。補給の計画を立て、作戦を練り、支援魔法で前衛を守り、負傷者の手当てをし、報告書を書いた。全部私がやった。


 ライアスの言葉。


「フィーネ、お前がいないと困る」

 嬉しかった。最初の二年は。


「お前の代わりはいくらでもいるけどな。まあ、安上がりだから使ってやってる」

 三年目にはこうなった。


「やめたい? 俺を見捨てるのか? お前は俺の真実の愛の相手だぞ。その責任を放棄するのか」

 四年目にはこう言われた。そのあとは、もう覚えていない。同じ言葉の繰り返しだった。パーティの他のメンバーと話すことを嫌がられた。「余計なことを吹き込まれたくない」と言われた。リディアからの手紙も、いつの間にか届かなくなった。


 十年間。

 誰も手を貸してくれなかった。遠征の荷は全部自分で運んだ。ライアスは自分の剣しか持たなかった。

 当たり前だ。ライアスが他のメンバーに「フィーネの世話を焼くな。甘やかすと調子に乗る」と言っていたのを、五年目にようやく知った。知ったところで何もできなかった。

 何もできなかった、のではない。何もしなかった。


 ——いや、できなかったのだ。

 あの人に「お前が必要だ」と言われるたびに、鎖が一本ずつ増えていった。優しい声で編まれた鎖は、自分では見えない。



 扉を叩く音がした。


「フィーネ、入学式の朝よ。朝食ができてるわ」

 母の声だ。

 同じ声。同じ言葉。十年前——いや、この世界では今朝の母。


「……今行く」

 自分の声が高い。十五歳の喉は、こんなに細かったのか。

 食卓に降りると、焼きたてのパンとスープがあった。パンの端が少し焦げている。母はいつもこの端を自分の皿に取る。


「あら、寝坊しそうだったの? 顔色が悪いわ」

 母が私の顔を覗き込んだ。

 あの時は、この言葉を聞き流した。入学式に遅れたくないと思っていた。ライアスの演説を前の席で聞きたいと思っていた。馬鹿みたいだ。


「……大丈夫。ちょっと夢見が悪くて」


「そう? 無理しないでね。あなたはすぐ無理するから」

 母は私の前にスープを置いた。

 人参が多い。私が人参を好きだと知っているから、母はいつも多めに入れる。十年間、誰も私の好みを覚えていなかった。ライアスは私が何を食べるか興味がなかった。パーティの食事は私が全員分作っていたのに、私の分だけいつも冷めていた。


 スプーンを握る手が震えた。

 泣きそうになったのを、スープを口に運ぶことで誤魔化した。人参が甘い。


「おいしい」


「そう? いつもと同じよ」

 いつもと同じだ。

 いつもと同じ朝食が、こんなに温かい。


 食べ終わって、食器を流しに持っていこうとした。母が「いいわよ、置いておきなさい」と言った。一度目の人生でも同じことを言われたはずだ。あのときは「ありがとう」も言わずに部屋に戻った。


「ありがとう、お母さん」

 母が一瞬、目を丸くした。それから笑った。


「どうしたの、改まって。……行ってらっしゃい」



 自室に戻って、入学式の制服に袖を通した。


 鏡の前に立つ。

 十五歳のフィーネ・ヴァイスフェルトが、鏡の中にいる。

 一度目の人生では、この鏡の前で髪を整えながら、今日から始まる新しい生活に胸を躍らせていた。勇者に選ばれたライアス・オルテガの演説を聞いて、あの人のパーティに入りたいと思っていた。キラキラしていた。何も知らなかった。


 今は違う。

 私は二十五歳分の記憶を持っている。あの男の正体を知っている。「真実の愛」という言葉が、何人に向けて使い回されたかも知っている。——いや、正確には知らない。私以外に何人いたかは知らない。ただ、私の次にマルグリットという聖女がパーティに入ったことは知っている。あの子にも同じことを言ったのだろうか。


 考えるのをやめた。

 今の私に必要なのは、過去を分析することではない。

 窓の外に、朝日が差していた。入学式の鐘が遠くで鳴っている。

 ラベンダーの束が、窓からの風で少し揺れた。右端の束はやっぱり傾いている。


 今度こそ、直そう。


 今度こそ——


「私は私の人生を生きる」


 声に出したら、少しだけ、手の震えが止まった。


 まだ完全には止まっていない。

 それでいい。震えたまま歩けばいい。

 入学式の会場に、あの男がいる。一度目と同じ場所に、同じ顔で立っている。


 今度は頷かない。


 今度は——


 制服の襟を正して、私は部屋を出た。

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