最終話
ところで。
この屋敷に今あるリリィのクローゼット。衣装部屋は全部で五部屋。その内の全てに、利便性のため、部屋と部屋を繋ぐドアが設置されていた。
マクシーが去って、リリィとヴァン。二人が残されたこの部屋は、その内の第三衣装室である。
そのため廊下に続くドアの他、部屋の両隣にも扉が設置されていた。
「………」
「…………」
「……………リ、」
「っいやーーーーーッ!!!!」
「!!??」
リリアーナ様、と。
ヴァンが呼ぶよりも先に、リリィが悲鳴を上げながら逃げた。もつれるように転がるように走りだし、ヴァンに背を向け左のドアへ。
第四衣装室へとリリィは転がり込み、まさか悲鳴を上げて逃げられるとは思わなかったヴァンは驚いて一瞬出遅れる。
挙句どれだけ動揺したのか、床に散乱したドレスに足を取られて転ぶ始末である。
「…………は????」
シルクの生地を頭に引っ掛けながら、床に落ちたヴァンはポクポクと一瞬思考を整理。我に返ったのは、廊下に聞こえるパタパタとした足音を聞いたからだった。
リリィがあの、嫌に露出の多いドレスを着たまま去っていってしまったことに気が付いて、サッと顔を青褪めさせた。
飛び上がって廊下へ続くドアへと駆け込むと、ヴァンは考えるよりも先、叫ぶために息を吸い込んだ。「屋敷に居る全員!!今すぐ目ェ閉じろォ!!」と怒号が飛ぶ。
「俺が良いというまでに目を開けたやつ、特に男は俺が殺すッッ!!!!!!」
ヴァンの大声は、文字通り屋敷中に響き渡った。
扉を掴む腕には血管が浮かんでいて、額にも青筋。戦場で指揮のために培った肺活量が更に限界突破した瞬間である。
あまりにも鬼気迫った、そして初めて聞く旦那様の怒号。使用人達は次の瞬間には思わず目を閉じていたし、あられもない格好で必死に廊下を走っていたリリィは「ひっ」と喉を引き攣らせた。
すごい。すごく怖い。旦那様ってこんな声出せたんだ、と涙目で思う。
しかしそれと同じくらい、もしくはそれ以上に『逞しくて、ちょっと素敵……』と思っちゃったのは、リリィの心があまりにも素直なせいだろう。
だってさっきのヴァンは本当に格好良かった。
イヤイヤ社交界に出る時の正装に近くて、けれど社交界に出る時よりも煌びやか。普段はあまり好んでつけないアクセサリーまで付けて、きらきらとして輝いて見えたのだ。
頭の後ろで結った髪も素敵だった。
一瞬しか見えなかったけれど、多分編み込みが入っていたようにも思う。正装に近い服装だけれど、完全にキチっとしているわけでもなくて、胸元がちょっと開いてた。金の髪が映える褐色の肌も相まって、すごくセクシーだった。
姿を見た瞬間、リリィの心臓が今までにないくらい飛び跳ねたほどである。
そして一拍遅れて正気に戻ると、すごく恥ずかしくなった。自分が今どんな格好をしているのかを思い出したのだ。
レースを取り払って、ハサミを入れて、簡単に糸で留めて形を作った赤いドレス。着る人が着れば、きっと扇状的でありながらも大層美しくなっただろう。
けれどリリィが着てみるとあまりにも貧相でみっともなくて、みじめなものだった。背伸びした子供が母親のドレスに手を出したよう。
こんな格好であの人の前にいることが恥ずかしくて、顔に熱が集まって、気が付いたら逃げていたのである。
リリィは走りながら、じわ、とまた涙を滲ませた。
恥ずかしい、恥ずかしい!みっともないわ、どうしよう、呆れられてしまったかも、と心細くなって仕方がない。どこまで聞かれていただろうかとも不安になった。
あのドアの前。あのひとは一体、どこまでリリィの話を聞いていたのだろう。どんな風に思われてしまっただろう。クローゼットをあんなにも散らかして、こんな格好にまでなって、馬鹿だって呆れられたに決まってる。
「リリアーナ様ッ!!」
「っいや!来ないで……っ。見ないでよぅ……!!」
「待っ……てください!!話を聞い………て、ください!!」
「やだぁっ!マクシー、マクシー!」
リリアーナは走った。長いドレスに足を取られながら、へろへろぽてぽてと、あまりにも弱々しい足で走った。
焦って、取ることも忘れてしまったのだろう。ヴァンの足には未だにクローゼットから引きずってきたストールが纏わりついていて、しかしそれでも追い付けるくらいには温室育ちのお姫様の足は鈍かった。
なのでリリィが逃げてほんの30秒後には、リリィの後ろにはぴったりとヴァンが張り付いていた。それでもなおこの鬼ごっこが続いているのは、ヴァンが怯えてリリィに触れられないからである。
リリィはどこもかしこも細くて華奢で、腕なんかヴァンが力任せに捕まえたらそれこそ折れてしまいそうだった。
だからヴァンはリリィの後ろにぴったりと張り付きながら、「リリアーナ様」「止まってください」と懇願しているのである。
屈強で異国情緒あふれる背後霊みたいな有り様だった。
ヴァンは多分、結婚してからはじめてリリィの前でこれだけ声を出している。それでいて相変わらず敬語がヘタだから、途中途中言葉につっかえているのが余程背後霊らしかった。
頼むからと言いかけて、「たの………、みますから!!」と言うのを繰り返しているのだ。
どれだけ一生懸命走っても、変わらず付いてくる屈強でハンサムな背後霊。リリィからしたらたまったものでは無かった。
だってどれだけ頑張って走っても、そんな努力は意味がないとばかりにくっついてくるのだ。
ただでさえ少ない体力がどんどんと消耗していって、けれど足を止めたらきっと捕まってしまうから止まれない。
リリィはもはや、へろへろと足を動かすことしか出来なかった。
「っ、きゃあっ!」
「リリアーナ様!!」
だから、当然最後には転んでしまうのである。
思いきり足をもつれさせて、あわや地面と顔面が接触大事故。リリィは主に鼻のあたりに強い衝撃が来ることを予感し、覚悟し、ぎゅっと目蓋を強く閉じた。
けれどどれだけ待っても、覚悟していた衝撃は訪れない。リリィは恐る恐ると瞳を開いて、自分の身体が宙に浮いたまま静止していることに気が付いた。
お腹に違和感。あれ、と思って目線を動かせば、そこにはシャツに包まれた逞しい腕。
「〜〜〜〜っ!!!!」
そこでようやく、リリィはヴァンに支えられていることに気がついた。
ずっとリリィに触れられなくて困りながらリリィの後ろをついてきていたヴァンは、へろへろ走りのお姫様が転びそうになってようやく手を伸ばし、 支える形でリリィに触れることができたのである。
「っリリアーナ様、無事で、すか?」
「ぁ、あわ、わ、わああああっ!!」
ヴァンの腕が、リリィのお腹に触れている。
助けられた。捕ってしまった。そのことに気が付いたリリィは思わず声を上げ、驚くヴァンの腕から逃げ延びる。けれどそこから三歩も歩かないうちに、へなへなとその場に崩れ落ちてしまった。
すぐ近くのカーテンを掴んで、ずりずりと殆ど匍匐前進でまた逃げた。そうしてリリィはカーテンの裏に隠れてしまう。似合わないドレスを隠すように、すっぽりと。
その代わり、子猫のようにバランスの良い顔が、ちょこんとヴァンの様子を伺うようにカーテンの隙間からのぞいていた。
「───……」
ヴァンは、それを見て思わず目を見開いた。
色の名前だけでいうのなら、ヴァンと同じ金の髪。けれどヴァンのそれよりも余程淡くて、きらきらと輝くリリィの髪。長い睫毛に縁取られた、潤んだ黄金の瞳。形の良い輪郭に、ツンとした小さな鼻。
こんな状況なのに、見惚れてしまったのだ。つい正面からリリィのことを見てしまったせいだった。あんまりにも可愛かったのだ。
仕方がないことだった。ヴァンはこの一年、リリィを正面から見るたびにきゅ、と胸を締め付けられる愛しさを覚えていた。ただでさえそんな日常に加えて、今は状況が状況だ。
愛想を尽かされていなかった、という安心。ヴァンに好かれたいのだと啜り泣いていた少女の声。わけもわからず逃げ惑う小さな背中。あまりにも弱々しい逃げ足に、こんな状況になってなお、ヴァンが好きだと全霊で叫ぶような潤んだ瞳。
あ、と思った瞬間には愛しさが爆発していた。
「好きだ」
「…………………えっ」
何せヴァンはスラム生まれの戦場育ち。
生まれながらの貴族のように取り繕うことを覚えていないから、いざとなったら知能よりも何よりも、心が先に溢れてしまう。
「すごく好きだ。本当に好きだ。本気で好きだ。愛してる。可愛い。俺はアンタにくびったけだ、本当だ。ずっと言えなくて悪かった、頼むから泣かないでくれ。アンタに泣かれると、どうしたら良いか分からなくなる……」
「えっ、………えっ??」
「好みの女の話をしていたけど、あんなのは嘘だ。その、傭兵時代に寄ってきたのがそういう女ばかりだったのは認める。けど自分から口説いたことはない。結婚してからは一度だって他の女に近付いてもないし、心を動かされたこともない。俺には、姫様だけだ」
アンタだけだ、と。ヴァンの口から、ともすれば祈りのような言葉がこぼされる。
リリィは身を隠すカーテンをぎゅっと掴みながら、ふるふると震えて、さっきまでとは全く違う意味で目に涙の膜を作った。
顔が熱い、ほっぺが熱い。え、え、と戸惑う。夢かしら、とさえ思った。こんなの、だって、リリィはこんなに饒舌に話すヴァンをはじめて見たのだ。
「ど。どうして、いきなり、そんな………。な、慰めのつもりなら……っ、」
「本心だ!!」
「っ」
叫ぶようなヴァンの声。咄嗟に荒げてしまったヴァンの声に、リリィがびくりと肩を揺らした。
ヴァンはするとすぐに我に帰って、少しの沈黙。その後「あー………」と自分に呆れたように長いため息を吐いて、自らの、少しくすんだ金の頭をかき混ぜる。
これはヴァンの癖とも言える仕草だった。せっかく整えた髪が崩れる。けれどヴァンにはそれは気にならないようだった。
リリィと目を合わせるようにしゃがみ込み、「悪い。驚かせた」とバツが悪そうに謝る。
「けど、信じてくれ。本当に、慰めとか、アンタが可哀想で嘘を吐いてるとかじゃないんだ」
「………」
「言葉にするべきだと考えた。遅すぎるかもしれねぇけど、今更だって思われるかもしれないけど、アンタを泣かせるよりは恥を晒したほうがずっと良いって思った」
「は。恥……?」
「……、俺の、」
恥じ入るように右往左往した青い瞳。それからヴァンは意を決したように、グッと拳を握り込めた。
「俺の言葉は、粗雑だろう……」
「…………え?」
まるで自分の弱味を晒すように、ヴァンは呟くように打ち明けた。きょとんとまばたく、リリアーナの澄んだ黄金の瞳。どこまでも綺麗で純粋で、ヴァンはリリィを見るたびに、その違いに打ちのめされる。自分の汚らしい半生を突き付けられるように。
「言葉だけじゃない。俺はアンタとは違う。スラムに生まれて、戦場で育ってきた。お綺麗な上流階級の方々からすりゃあ、きっと耳を塞ぎたくなるような会話が日常茶飯事だった。アンタにそんなのを聞かせたくなかった。そんな俺を、見せたくなかった」
「それは………。どうして……?」
「……幻滅されるのが怖かった。軽蔑されて、嫌われるのが嫌だった」
死ぬのだって怖くなかった。だから戦場に立つことだって怖くはなかった。
ヴァンにとって、目の前に居るリリアーナに失望され、疎まれることだけが怖かったのだ。
だからずっと口を噤んでいた。いつも『まとも』な言葉を探して、用意をしては、何とか二、三言を話すのが精一杯。そんな有り様を一年も続けていた。
意気地なしだったのだ。戦場でヴァンが最も嫌っていたものに、ヴァンはすっかり成り下がっていた。後退しないことに必死で、その場にとどまろうと必死で、そのせいでリリィがどんな風に思うのかも考えられなかった。
そのツケが今なのだ、とヴァンは苦々しく思う。
リリィに泣かれて逃げられて、目が覚めたようだった。
よく考えなくても当たり前のことである。ヴァンの羞恥や恐怖なんて、リリィが泣いてしまうことに比べたらほんの些細なことだ。
百合のような乙女を、高貴なひとを悲しませるくらいなら。たとえそれで疎まれようと憎まれようと、本当の自分自身を曝け出してしまうべきだった。
それで失望されるのなら、悲しいけれど、仕方がない。こんな男のために心を痛めるよりは、こんな男大したことなかったと、悲しむ必要なんて無かったと笑い飛ばしてくれたほうが余程良い。
たとえヴァンが四肢を引き裂かれるような痛みに晒されたとしても、リリアーナ様が、笑ってくれることの方がよっぽど大事だと。
ヴァンは思った。だからまだ臆病に震える手をぎゅっと強く握り込めながら、「俺は」とリリィを真っ直ぐ見つめる。
ほんの少しだけ、ほんの一瞬だけど泣きそうに見えるような、柔らかな眼差しで。
「俺は、こういう男だよ、姫様。学もなければ生まれも悪い。戦争で飯を食ってた粗雑もので、たまたま剣と人が他より上手く使えたから貴族になれただけの人間。その癖に臆病で、情けなくて、怖がりの見栄っ張りだ。そのせいで、たった一人の大事な女の子さえ泣かせちまう」
「あ……」
「ずっと隠して、騙して、ごめん。でもこれだけは本当だ。今俺が打ち明けてる全部は真実だ。俺がこれだけ臆病なことも、情けないことも、何も持っていない男だってことも。……アンタのことが好きで、アンタの話を聞くのが好きで、いつも帰ってくるのが楽しみだったことも」
手袋に包まれたヴァンの手がリリィの頬に伸びて、触れる直前、躊躇うように戻された。
リリィは思わずそれを惜しく感じて、触れてくれたら良かったのに、と思う。
「───おかえりなさいって、はじめて言われたんだ」
「……え?」
「それで、俺さ。あー、俺、帰るところ出来たんだなぁって。それがこんな可愛い子のところだなんて、すっげー幸せって思ったの、覚えてる。奇跡だと思った」
淡い色のドレスをふわりと裾をなびかせて、屈託のない顔で、あまりにも真っ直ぐな喜びでヴァンを出迎えてくれたあの日の少女。
「アンタはさ、姫様。俺の奇跡で、俺の幸福で、神様みたいなひとなんだよ。きらきらしてて、可愛くて、いつも気がついたらアンタを目で追ってる」
「……ヴァン、さま、」
「好きだよ、姫様。リリアーナ様。俺にはアンタだけだ。俺はずっと、アンタだけが可愛い」
そこまで話して、ヴァンはようやく気が済んだのだろう。そっと息を吐いて、気を取り直すようにへたくそに笑った。
リリィから視線を逸らし、また乱暴に頭の後ろをかいて、「あー、まぁそういうことだから」と話を切り上げようとする。
ここまで曝け出したくせに、それでもやっぱり怖いのだ。『騙していたのね』と憎々しげに睨まれているかもしれない。
そう思うとどうしてもリリィを見れなくて、それまでリリィと目線を合わせるようにしゃがみ込んでいたくせ、逃げるように立ち上がろうとする。
「っ待って!!」
それを止めたのは、やはりリリィであった。
カーテンの後ろに身を隠していたリリィは、考えるよりも先に飛び出した。ぱしん、とヴァンの手を取って引き止める。
パチパチと、驚いたようにまばたくヴァンの青い瞳。リリィは金の瞳を潤ませて、左右に泳がせて、噛み締めたせいで赤く色付いた形の良い唇を、何度か開閉させた。
言葉が見つからないのだ。何を言えば良いのか、わからない。
だから。
「っ……!」
リリィはそっと、掴んだヴァンの手から、黒い手袋を抜き去った。動揺に後退りかけるヴァンを、けれどしっかり掴んで捕まえる。
そうして、リリィは。さっき躊躇ってしまったヴァンの手を、そっと。宝物のように大切に、自らの頬に運んだ。
「な、は……っ」
「……旦那さま。……ヴァン、さま」
手のひらに擦り寄る。剣を握って生きてきたからすっかりとタコの付いた、ごつごつとしたヴァンの手。リリィのものよりも余程大きくてたくましい、そしていつだってとても優しくリリィに触れる褐色の手のひら。
「わたしも。好きです、大好きです。世界でいちばん、あなたが好き」
「!」
「恥だなんて思いません。ヴァン様の全部が、ヴァン様が生きてきた人生の形ですもの。すごく素敵です。寡黙なあなたも好きだったけれど、たくさんお話してくださるヴァン様もときめいてしまうほどに好き。あなたの声が、大好き」
好きです、大好きです、と。
リリィは何度もヴァンの手のひらに擦り寄って、甘やかな瞳でヴァンを見上げた。幸福にとろけるような微笑みだった。
「あなたの目も、髪も、肌も、鼻も唇も手も足も、話し方も全部好き。大好きです、ヴァン様。はじまりは一目惚れだったけれど、あなたを知れば知るほどに私、いつももっと好きになる」
「そんな、こと……」
「はやとちりで、勝手に落ち込んでしまってごめんなさい。でも嬉しい。あなたに好きと言ってもらえて、私、今人生でいちばん幸せです」
幸せに包まれたリリィは、そうして「ね、」と甘えるような声。
「仲直りしてください、旦那様。それでこれからは、今日のようにたくさんお話してください」
「姫、様……」
「……あと、出来たら姫様とかリリアーナ様って呼ばないで、リリィって呼んで、たまには旦那様からキスをしていただけると嬉しいです」
そしてこれ幸いとばかりに要望を重ねて、あまりの事態に、奇跡のような現状にウッと言葉に詰まるヴァンに追撃を仕掛ける。
「お願い、旦那様。リリィのおねだり、聞いてください」
果たして、公爵閣下はおねだり上手の奥様の可愛い我儘に負け。
「………ぜひ」
また返事を間違えながら、引き寄せられるようにその唇にキスを落としたわけだった。
いつも誰かしらが死んでるお話ばかり書いていたら、たまには誰も死なない重くないほのぼのラブコメディを書きたくなってこうなりました。
割と貴族社会のこととかツッコミどころは多いかも知れないけど、フィクションだしファンタジーだし異世界のことなので気にしないでください。
ここまでお付き合いくださりありがとうございました!
多分あとで後日談とか書きます。




