Ⅲ 至高圏ⅰ
一年と少しの月日をさかのぼった時間軸。当時の第一聖地は、今の第五聖地と似たような状況に陥っていた。
違う顛末を辿った理由は、命を絶やした御芯体が遺言を残していなかった事と、聖地を守る預言者の思想がかけ離れていた事にある。おかげで未だ新しい御芯体を迎えられずにいる第五聖地と違い、第一聖地の混乱はすぐに収束した。一人の少女の無垢と言う、小さく大きな代償と引き換えに、聖地は安寧を取り戻したのだ。
その宵、地界の上層部に浮かぶ私有陸では、一人の少女が気だるいため息をついていた。
「夜会なんてつまらないわ。早く終わらないかしら」
屋号入りの皿にのったモンブランをつつきながら呟いた。フォークに刺したマロングラッセを口に運びかけるが、ため息がそれを押し戻した。
「……一人で食べるケーキもつまらない」
頬杖をついて呟く。フォークから栗がぽとりと落ちた。
宵の涼やかな風が長い髪を撫でて行く。屋敷の私室に造られたバルコニー。ロココ調の建築で飾られた手摺の先には、空を映す大きな池が見渡せた。
階下のサロンでは社交も兼ねたダンスパーティが催されている。その苦手な喧騒も、このバルコニーには届かない。静けさと、ほんの少しの淋しさを纏った空気が、風になって少女の周りを包んでいた。
少女は一人分のティーセットから目を上げた。長い睫毛に彩られた瞳に、薄闇に抱かれた宵景色が映し出された。色彩を失くし澄んだモノクロの輪郭となった庭は、明かりの一つも無いせいか、不思議と遠くに感じられた。
さらさらと流れる髪を眺める者は誰もいなかった。静かな宵空の下、風と、少女の吐息だけが時の流れの存在を示していた。
いつもの事なのに、この日の少女は、それが酷く虚ろだと感じた。
右手にフォークを持ったまま、左手をティーカップに伸ばしかけた。
どこか……別の場所に行ってみたい。
ため息交じりの呟きは、誰にも聞こえないくらいの淡さだった。
「ほんなら、高い所はどうやろ」
ビクっ、と少女は身をすくめた。
ティーカップの水面には、見知らぬ人影が映っていた。
「俺が今すぐ連れてったるで、お姫さん」
耳元で言った男。
ばっと振り向いた、瞬間。体が意思とは全く違う方向に回転した。
「きゃっ!」
「しっかりつかまっときーや」
背中と、ひざの裏に誰かの腕が触れる。パーティドレス越しのその感触に、少女は自分が抱きかかえられたのだと知った。
「行くで」
弾けるような揚力が体を覆う。あっと思った瞬間には、自分がいたバルコニーは遥か眼下の豆粒となっていた。
少女は反射的に自分を抱える誰かにしがみついていた。
衣装の手触りはテールコートだった。少女は正装したその男を仰ぎ見た。
風圧に揺れる白髪。
誰。
何もかもを見通しているような瞳がそこにあった。
彼の頬に散った何かの飛沫に、少女ははっと身を強張らせた。
「……身の丈知らん輩に聖地預ける気ぃはさらさら無いわ」
青年のこぼした呟きは少女の耳を通り過ぎ、遥か下へと散った。
抵抗も詰問もできないまま、少女は呆然と青年を見つめていた。
ふわっ、と体に掛かる重力が質を変える。
「あーあー、明かりも消えてしまっとるわ。好き勝手しよって、ホンマに酷いで」
頭上で青年が嘆息する。
そして何も言わないまま急降下した。唐突な運動方向の反転に腹の奥がぎゅっと冷たくなった。
「っ」
しがみつく少女に構わず、青年は空を駆ける速度を上げた。
見下ろす聖堂のステンドグラスがぐんぐん近づいて来る。
色ガラスの分子結合を通過した感覚は、少女には分からなかった。
すとんと彼の足が床に着く。その衝撃と音で少女は顔を上げた。
展開していた光景に、息が止まった。
硬直した体が床へと下ろされる。棒になった二本の足が、動きを忘れた彼女の体を辛うじて支えた。
「――――……」
ふわりと揺れた自分のドレスほど、場違いなモノは無かった。
くっ、と青年が笑った。
「さぁ、誰や?」
革靴が床を叩く。
「誰が御芯体の血ぃ持ってっとんねん!」
白亜の燕尾が躍った。




