プロローグ
至高圏には今日も、淡い風が吹いていた。
聖堂を囲う芝生がそよぎ、風音に混じる。穏やかにさざめき合う微音は、とうに海を忘れたこの場所にも波音の輪郭を与えていく。
蒼天を背景に建つは、石造りの聖堂。遥か千の歳月を見つめてきた壁に薄雲の影が流れていく。
古城のような造りの迫間に、広いバルコニーが見える。
石の手摺には人影が佇んでいた。
その人物は空を背に腕を組み、何かを待つように、しかし冷静な面持ちで呼吸を重ねていた。
――静穏の淵に注ぐ陽の光は、その瞬間も緩やかだった。
青年は肩越しに空を振り返った。
「ついに終末に入ったんか。もう悠長にしとる時間は無いで、シオン」
独り言のように彼は言った。
聞き止めた者は誰も居ない。名を呼ばれた少年の代わりに、石壁を伝って来た偽りの波風が彼を包んだ。
「これでお前も、何百回目の別れになるんやろうな」
青ばかりが続く空間の先へ、彼は緩く微笑んだ。
耳にあわただしい足音が飛び込んで来る。徐々に大きくなる足音に引かれ、青年はバルコニーの中へ視線を向けた。
開け放しのガラス扉から少女が飛び出して来る。酷く焦った様子でバルコニーを駆け、手摺にもたれる彼の隣から身を乗り出した。
舞い踊る長い髪とドレスの裾が遅れて収束する。
青年は横目で少女を見た。手摺を掴む彼女の両手は震えていた。
「どこかの……聖地の浮力がおかしいわ」
美しい横顔を染める狼狽を、彼は細めた目で眺めた。
「第五聖地や。アレックスがいよいよ終末昏睡に入ったんや」
少女が息を呑んだ。
「……じゃあ……」
「せや。第五聖地も御芯体を継代せなあかん」
青年は再び肩越しの空を見た。
何でもない調子で返した青年へ、少女は向けた両目をしかめた。
あからさまな嫌悪の視線にさらされながら、しかし彼は同じ調子で続けた。
「終末状態の御芯体が命保たす時間はほんの僅かや。はよ遺言叶えたらんと聖地も自分も落ちてしまうわ」
少女は気づく。
「アレックスは自分で後継者を指名していたの?」
「そうらしいで。せやからシオンも第五聖地の預言者かて勝手できへん。誰が聖地の主継ぐかは今の御芯体の意思の方が優先やからな」
顔も見ずに答える青年。少女は眉をひそめ、何かを言いかけた。
「怒っとるん?」
彼が前触れ無くそう問うた。少女は喉まで来た言葉を呑み込んだ。
「っ……」
彼女は何も言わないまま、彼から顔を逸らした。
ドレスの影で握られる拳を、青年は悼むような笑みで眺めていた。
そしてその顔のまま言った。
「アベル=リード。アレックスの実の妹らしいで」
「……えっ」
瞬きに揺れた少女のまつ毛を、どこまでも澄んだ風が撫でていった。
しかし数日が経とうと、第五聖地の預言者・シオンは未だに地界の空を駆けていた。
「アベル! どこにいるんだ!」
求められた名をたなびかせ、少年はまだ見ぬ少女の行方を追いかけた。