灰狼の少女
今でも、ときどき夢に見る。
誰かの声。
燃えるような赤い光。
そして、遠ざかっていく温もり。
目が覚める頃には、そのほとんどを忘れてしまっている。
あの頃のわたしには、自分が何を失ったのかさえ、よくわかっていなかった。
ただ、お腹が空いていた。
眠る場所が必要だった。
明日も生きていくために、何かをしなければならなかった。
わたしは、前に進むことにした。
その先に何が待っているのかも知らずに。
今思えば、あの日がすべての始まりだった。
灰狼の少女、リュカ・グレイ。
これは、まだ何者でもなかったわたしが、初めて自分の足で世界へ踏み出した日の話。
春先の風が吹くたび、灰色の髪が頬をくすぐる。
狼人、リュカ・グレイは、街道の先にそびえる石造りの門を見上げていた。
高い城壁。行き交う商人たち。荷車を引く馬のいななき。門の向こうからは、人々の話し声と、焼きたてのパンの香りが流れてくる。
セレスタ
それが、この街の名前だった。
「……大きい」
思わず、そんな言葉が漏れた。
頭の上では、灰色の狼耳がぴくりと動く。
人間と獣人。
ふたつの種族が当たり前のように行き交う光景に、リュカはしばらく見入っていた。
けれど、いつまでも眺めているわけにはいかない。
リュカは酷くお腹が空いていた。
そして、困ったことに。
「……お金、足らないな。」
ポケットの中にある硬貨を、指先で確かめる。
3枚の銅貨。
それが、今のリュカの全財産だった。
街道を歩き続けて、何日になるだろう。
夜は野宿。食事は、道端で見つけた木の実や、
安く手に入った干し肉。
もう少しだけ余裕があれば、温かいスープくらい飲めるのだろうけど。
そう考えた瞬間、風に乗ってきた香りに鼻が動いた。
焼きたてのパン。
香ばしい肉。
それから、甘い焼き菓子。
「…………」
つられた耳が、正直にぴんと立つ。
リュカは慌てて耳を伏せた。
誰にも見られていないことを確かめてから、門へと歩き出す。
まずは、仕事を探そう。
食べるために。
眠る場所を確保するために。
そして
もう、行く当てもなく歩き続けなくていいように──
──街の中は、外から見た以上に賑やかだった。
門をくぐってすぐの石畳の道の両側には露店が並び、色とりどりの果物や、見たこともない魔道具が売られている。
大きな剣を背負った男たち。
弓を携えたエルフの女性。
荷物を山ほど積んだ荷車。
誰もが自分の目的を持って歩いている。
リュカだけが、どこへ行けばいいのかわからなかった。
キョロキョロと、時々足を止めては辺りの看板を見てみるが、目的地は決まりそうもない。
「なあお嬢ちゃん!旅人かい!?」
俯きながら歩いていると突然大きな声をかけられ、リュカの身体が飛び跳ねた。
ゆっくりと声のした方に目をやると、露店の店主らしい男が、こちらを見ているのが見えた。
「……そう、だけど……。」
耳を伏せ、声の大きさに警戒しながら、リュカは答える。
「ほー、大したもんだ。ちっこいのに、どっから来た?」
白い歯をにっと見せながら、店主は問う。
「……どこだろう。」
「ん?どういう……?」
意地悪で答えた訳ではい。
本当に分からないのだ。
リュカは気づけば山の中で1人だった。
覚えているのは、燃える森と、自分を抱き抱える誰かの手。
「……まあいいや。」
1人納得している店主を見ながら、今更ながらなんで声をかけられたのだろうと考えるリュカ。
「お嬢ちゃん、なんか探してるみたいだったけど。
宿を探してるのか? それとも仕g
「仕事。」
即答だった。食い気味に。
まだ昼前だし、今からでもお金を作らなければ。
店主は一瞬きょとんとし、それから通りの奥を指さした。
「…だったら冒険者ギルドに行きな。こっから見えるあの大きな建物だ。ちっと遠いが……薬草採りから護衛まで、いろいろ仕事があるぞ。」
「……そう。」
リュカは小さく頭を下げた。
人に道を尋ねることも、お礼を言うことも、得意ではない。
道の奥に見える大きな建物を見据えて、
リュカは一気に駆け出した。
「……どっかの獣人の村で魔物災害があったって聞いたけど……まさかな。いくらなんでも遠すぎる。」
店主の声は、リュカの耳には入らなかった。
── 小一時間ほど進んだだろうか。
木でできた大きな門をくぐり、ようやく冒険者ギルドに
たどり着いた。
建物の中は、想像していたよりも騒がしかった。
扉を開けた瞬間、笑い声と人々の会話が耳に飛び込んで
くる。
リュカの狼耳が、左右から聞こえる会話を拾う。
「北の森で魔物が出たらしいぞ」
「またかよ。最近、森の様子がおかしいな」
「今回のは絶級だとよ……親衛の獣人族も歯が立たねえって話だ。」
「誰も討伐出来ねぇと、また街があぶねえぞ。」
「あの術が使える獣人が残ってりゃあな……ま、御伽噺みたいな伝説だけどよ。」
受付までたどり着いた足が、その会話で意図せず一瞬
立ち止まる。
たた、男たちは笑いながら、別の話題へ移っていった。
リュカは少しだけ首をかしげたものの、すぐに受付へと向き直った。
「あの……仕事を探してるんだけど……」
受付の女性が顔を上げた。
「あら……随分若い旅人さんね。冒険者登録は初めて?」
「うん。」
「それじゃあ、先ずは冒険者登録の手続きを始めましょうか。私は受付担当のリリ。よろしくね。」
リリと名乗る受付の女性は、カウンターの下から一枚の
用紙を取り出した。
名前、年齢、種族、出身地。
いくつかの項目が並んでいる。
「まずは名前を教えてくれる?」
「……リュカ。リュカ・グレイ。」
「リュカ・グレイさんね。年齢は?」
「14歳……くらい。」
「種族は……狼の獣人さんね。じゃあ、最後に出身地を教えてもらえる?」
その質問に、リュカの耳がぴくりと動いた。
「…………」
答えようとして、口を開く。
けれど、声が出なかった。
北の山々。雪に覆われた森。燃え上がる家々。
断片的な記憶が、頭の奥をかすめる。
自分がどこで生まれたのか。
そこが何という名前の場所だったのか。
今も存在しているのか。
何ひとつ、確かなことはわからなかった。
「……わからない。」
「え?」
「出身地……わからない。」
リュカは俯き、服の裾をぎゅっと握った。
リリは、手元の用紙に目を落とした。
「出身地が不明、ということ?」
「……うん。」
「……ごめんなさいね。身元の確認ができない場合、通常の登録手続きでは少し問題があるの。」
その言葉を聞いた瞬間、リュカの胸が冷たくなった。
ここでも、駄目なのだろうか。
せっかく見つけた仕事。
今日の食事と、眠る場所。
それさえ手に入らないのだろうか。
「……登録、できない?」
思ったよりも弱々しい声が出た。
リリはすぐには答えず、用紙を見つめていた。
やがて、何かを思いついたように顔を上げる。
「少し待っていてくれる?」
そう言って、奥の部屋へと入っていった。
取り残されたリュカは、カウンターの前でじっと待った。
周囲の冒険者たちの笑い声が、やけに遠く聞こえる。
やっぱり、無理なのかもしれない。
そう思い始めた頃、リリがひとりの男性職員を連れて戻ってきた。
「お待たせ。ギルド長に確認してきたわ」
「……ギルド長?」
「どうも、初めまして。」
深く被った帽子を少し持ち上げながら、ギルド長と言われた男性が笑った。
「……どうも……。」
「話は聞いたよ。結論から言うと、出身地がわからないからといって、必ずしも登録できないわけではないよ。ただし、今回は仮登録という形になる。」
その横で、リリは新しい用紙を取り出した。
「名前と年齢、種族を確認できれば、まずは仮の冒険者証を発行できる。依頼を受けながら、必要な確認を進めていけばいい。」
「……じゃあ……!」
リュカは、ゆっくりと顔を上げた。
「仕事、できるの?」
リュカの言葉に、今度はリリが笑って答える。
「もちろん。ただし、最初は薬草採取みたいな簡単な依頼からね。仮登録の間は受けられる依頼にも制限があるから、そこは守ってちょうだいね。」
リュカはしばらくリリの顔を見つめていた。
やがて、小さく頭を下げる。
「……ありがとう。」
「どういたしまして。困ったことがあったら、いつでも相談してね」
リリは、にこりと笑った。
そうして手渡された冒険者証は、薄い金属でできた小さな札だった。
まだ正式な登録ではない。
できる仕事にも制限がある。
それでも、リュカにとっては十分だった。
これで、自分の力でお金を稼げる。
明日も、この街で生きていける。
冒険者証を両手で包み込むように握り、リュカはそっと息を吐いた。
「……よかった。」
頭の上で、伏せていた狼耳がゆっくりと立ち上がった。
「さて、お仕事だったわね。今なら…こんなのはどう?」
リリから差し出された依頼書には、採取する薬草の絵と、報酬の額が書かれていた。
銀貨、十枚。
今日の宿代と食事代くらいにはなるかもしれない。
「……これ、やる」
「了解。森に入る依頼だから、日が暮れる前には戻ってきてね。危ないと思ったら、無理せず引き返すこと。
いい?」
「わかった。」
依頼書を受け取ったリュカは、ぎゅっとそれを
握りしめた。
たった一枚の紙。
それだけなのに、少しだけ胸が軽くなった気がした。
自分で仕事を見つけた。自分で、明日につながる何かを手に入れた。
その事実が、ほんの少しだけ嬉しかった。
街を出て少し歩いたところに、北の森と呼ばれる森があった。薬草はどうやらここで採取するものらしい。
森に入ると、街の喧騒はすぐに遠ざかった。
木々の間を抜ける風。土の匂い。湿った苔の匂い。
リュカは目を閉じ、静かに息を吸った。
薬草の匂いは、ほかの草とは少し違う。
覚えてないけど、なぜだか感覚が覚えてる。
青く、ほのかに甘い。
自慢の嗅覚を頼りにその香りを頼りに歩いていくと、目的の薬草はすぐに見つかった。
「……あった。」
一株ずつ、根を傷つけないように摘み取っていく。
思ったより簡単だ。
これなら、今日のうちに十分な量を集められそうだった。
そう考えた、そのとき。
───ガサッ。
背後の茂みが揺れた。
リュカの耳が、ぴたりとそちらを向く。
足音はひとつ。
けれど、妙だった。
風の音に紛れているのに、草を踏む音だけが不自然に
近い。
リュカは採取袋を抱え、ゆっくりと振り返った。
茂みの向こうから、小さな魔物が現れる。
灰色の毛並み。尖った耳。鋭い爪。
小型の牙狼───の子どもだろうか。
魔物はリュカを警戒しながら、低く唸っていた。
リュカも動かなかった。
戦えば、勝算はあるかも。
でも、もし怪我をしたら?
帰れなくなったら?
考えるより先に、心臓が早鐘を打ち始めた。
リュカは一歩、後ろへ下がった。
魔物も一歩、近づく。
じり、じりと距離を保ったまま後退が続く。
───その瞬間、大地を震わすような低い轟音が遠くから聞こえた。
別の魔物の声だろうか。
牙狼の子どもが、びくりと顔を上げる。
リュカはその隙を見逃さなかった。
「……今だ……!」
小さく呟いて、反対側へ走り出す。
追いつかれないよう、距離を保ちながら、街道へ戻るための道を選ぶ。
草を掻き分け木枝を避け、リュカは必死に駆け回った。
背後で唸り声が遠ざかっていく。
──しばらく走ってから、ようやく足を止めた。
「……こわかった……。」
口にした途端、膝から力が抜けそうになった。
戦わなかった。
逃げた。
それを恥ずかしいと思う気持ちは、確かにあった。
けれど、採取袋は無事だ。
自分も、怪我をしていない。
リュカは息を整え、袋の中を確かめた。
「……帰ろう。」
今の自分にできることは、きちんと依頼を終わらせることだと。
その思いを胸に、再び街へと歩き出した。
───夕暮れの冒険者ギルド。
リリは、リュカの採取袋を確認すると、優しく微笑んだ。
「うん、これなら十分ね。初めてにしては上出来よ。」
「……ほんと?」
「ええ。ちゃんと時間までに帰ってきたしね。」
差し出された報酬を、リュカは両手で受け取った。
硬貨の触れ合う音が、妙にはっきり聞こえた。
これで、今日のご飯が買える。
屋根のある場所で眠れる。
明日も、仕事を探せる。
たったそれだけのことが、今はとても大きなことに思えた。
「ところで、リュカちゃん。」
「……?」
ギルドを出ようと背を向けるリュカに、またリリが声をかける。
「森の中で、何かあった?随分と服の裾に土はねがついてる。」
「……っ。」
リリの言葉に、言葉が詰まった。
「かなり走って帰ってきたみたいに見えるけど…。」
「……何も、なかったよ。平気。」
「……そう……?」
魔物から逃げたなんて、リュカは言えなかった。
それに森で聞いたあの声──
それ以上詮索されないように、逃げるようにリュカはギルドを後にした。
ギルドを出ると、空は茜色に染まっていた。
商店街の方では、酒屋や飯屋が開き始め、冒険者達がこぞって入っていく所が見えた。
くるるるーーーーーー……
そのとき、腹の虫が小さく鳴った。
「…………。」
リュカは耳を伏せ少し顔を赤らめながら、誰にも聞かれていないことを祈った。
それから、街のどこかから漂ってくる焼けた肉の香りを頼りに歩き出す。
明日のことは、まだわからない。
この街で何が待っているのかも。
自分が何者なのかも。
それでも。
明日もここに来よう。
そう思える場所ができたことを、リュカはまだ知らない
誰かに、少しだけ感謝した。
あの時、わたしの事を抱いていた誰かに。
灰狼の少女の物語は、こうして始まった。




