今から をしそうな距離!
皇太子は上衣の胸ポケットから何かを取り出した。
取り出したのは一級の芸術品とも思えるガラス瓶。
間違いなくゴールドである装飾に加え、ガラスの表面に彫られた造形が、実に秀麗だった。
「報酬は拒否される……と分かっています。ですが軽い呪いであっても、あなたに労力をかけるのです。お願いですからこれを、どうか受け取ってください」
「これは……」
「香水です。香りはジャスミン。わたしのつけている香水とも相性がいい、甘みのあるフローラルな香りです」
香水……。
前世ではピンきりで、庶民の私でも手に入るものだった。でもこの小説の世界は違う。世界観が西洋の中世辺りを想定していたせいか、香水は王侯貴族の嗜好品であり、高額。庶民にはまず手が届かない。
「シャーリーは、香水の付け方を、聞いたことがありますか?」
「あります」と答えそうになり、その言葉を呑み込む。平民とは縁のない高級品だ。知るわけがないのがデフォルト。前世知識でも、香水の正しいつけ方なんて、理解していない。適当にシュッとふりかけていたわけで。
「知らないですね。どうつけるのですか?」
「楽しみ方により、つける場所は変わりますが……。食事の予定などない時、自分にも相手にも香りを楽しんでもらいた時は、手首が定番です」
そう言うと皇太子は、私を見る。つまり手首をこちらへ、という合図だ。
香水なんて久々ということもあり、自然と左手を差し出していた。
私の手首を自身の手で優しくつかむと、手にしていたジャスミンの香水を一滴だけ、軽く落とす。
「こする必要はありません。このまま馴染ませます」
すでにいい香りが漂ってきた。言っていた通り、甘みのある華やかな香りだ。
皇太子のつける香水を昨日意識し、香りに対する憧れみたいなものが、私の中で、芽生えていた。そのタイミングで香水を楽しませてもらえるとは……。
これは女子心をくすぐる。
「香水は、ぜひシャーリーに使っていただきたいです。でも空になった瓶は、有効活用できると思います。勿論、部屋に飾っていただいてもいいでしょう。もしもの時は、売れば相応な金額にもなります。これは著名なガラス工房で作成し、相応の値段がする宝飾品で、細工を施しましたから」
絶妙だなあと思う。宝石程高額ではないが、香水は庶民の憧れだ。一度も使ったことがない庶民が多い中、単純にこれは興味をひく。しかも今、こうやって試してしまったのだから……。それに微妙に返報性の原理も働く。
さらにいざとなれば、売ればいいと言っている物は、空き瓶。気に入れば飾ればいい、でももしもの時には役立つぐらいの言い方。それならば受け取っても……そんな気持ちにさせられる。
瓶を売るつもりはない。香水だってつけて外出するつもりはない。寝室でそっと香りを楽しむ。それだけでも気持ちは華やぐと思う。それにあまりにも皇太子からの提案を断ると、彼の中の私への返報性の原理が、ただただ高められることになる。ガス抜きも兼ね、これは受け取っていいだろう。
「……ありがとうございます。以前お話した通り、私は皇太子殿下から、報酬を受けとらないのが原則です。よって今回だけですから……」
少し、自分でもガードが甘くなっているかもしれないと思いつつも。でも皇太子と今後も会うことがあるのかというと……。ないだろう。今回のような、うっかりの呪いがあったとしても、皇宮には解呪師がいる。だからこの香水は、ありがたく受け取ることにした。
「……受け取っていただけて、よかったです」
皇太子の顔が、安堵で眩しい程の笑顔になる。そんな笑顔はヒロインだけに向けてくださいと思いつつ「では昨日と同じように。呪いの吸収を行います」と声をかける。「お願いします」と笑顔のままの皇太子の隣に移動し、腰をおろすと……。
不意に皇太子が私の手を持ち上げ、自身の手の平とあわせるようにした。驚いて彼を見ると……。
「こうやってお互いの手首がふれるか、ふれないかの距離に近づけると、つけている香りが混ざり合います。マグノリアとジャスミンのブレンドは、相性がいいですよ。少し、顔を近づけてください」
言われるまでもなく、すでに素敵な香りを知覚していた。
皇太子のつけているマグノリアの香りと、私のジャスミンの香りが混ざり合う。混ざり合った結果、両方のいいとこどりの、大変素晴らしい香りが、皇太子と私の間で広がっている。
なんて華やかで、甘く心地のいい香りなのかしら。
うっとり顔を近づけると、軽く何かが額に触れる。
驚いて目を開けると、私と同じように、皇太子も手首に顔を近づけていた。触れたのが彼のサラサラの前髪だと理解する。
同時に。いきなり美貌の顔が近くにあり、飛び上がりそうになった。
目を閉じ、香りを楽しむ表情の皇太子は、神がかった美しさ。寝顔もそうだが、この表情。本人が目を閉じてくれているから、何時間でも眺めていられそうだ。目の保養になる……。さらに今、とんでもなくいい香りを感じているのだ。
つい自分の立場を忘れそうになり、気持ちを引き締める。
「皇太子殿下、呪いを吸収します」
断腸の思い。
「そうでしたね。失礼しました」
その表情に、彼も残念に感じていないか。それを読み取ろうとしてはいけない。手を膝の上におろしてもらい、改めてその手に両手で触れる。
彼の手がどれだけ素敵なのか、それも考えてはいけないことだ。心を無にする。
軽い呪いだった。吸収はあっという間に終わる。
「今日は、顔色は悪くないですね。震えてもいません。本当に呪いによって、こんなに状態が変わるのですね」
「わぁ(消え入りそうな小声)ぁぁぁぁ……」
悲鳴は上げそうになったが、かろうじて呑み込むことができた。
ど、どうして皇太子の美貌の顔が、こんなに近くに!? その素敵過ぎる手で、なぜ私の頬を包み込んでいるのですかー! これではまるで、今からキスをしそうな距離!
いや、違う。確認しただけよ。前回、ヒドイ顔色になり、震えていたから。
「大丈夫ですか、シャーリー」
さらに皇太子が顔を覗き込むので、鼻血でも吹き出し、倒れるかと思った。
なんとか呼吸を整え、「問題ありません。そちらのカウチで夢を見て、呪いを解きますので」と言い、なんとか彼の顔から自分の顔を離す。
「分かりました」と素直に応じた皇太子は、私に手を差し出す。カウチまでそんな距離があるわけではない。狭い店だ。しかも昨日のように顔色が悪いわけでもない。それなのにエスコートしてくれるなんて。
優しい……。優しいが、この優しさは、私にとって毒だ。
中毒になってしまう。
皇太子中毒。つまりは彼を好きになってしまう。危険。
「軽い呪いですから、昨日のようなことにはなりません。私のことは気にせず、紅茶をお楽しみください」
「シャーリー。わたしは皇太子でもありますが、騎士としての称号も得ています。一人の騎士として、眠る女性の安全を見守る。それもまた、わたしの務めです。紅茶より、何より。大切なのは、シャーリーですから」
毒だわ。毒。
聞いてはいけない!
聞こえなかったフリをして、カウチに横になると、すぐに目を閉じる。
軽い呪い。すぐに眠りに落ち、夢の世界が広がった。
これは……。
石畳に沿い、左右に建物がズラリと並んでいる。
木造のその建物のバルコニーには、プランターが並んでいる。そこには色とりどりの花が、溢れていた。パンジー、藤、ライラックなど実に様々。
リーン、ゴーン、リーン、ゴーン。
鐘の音が聞こえる方に目を向けると、ネオ・ゴシック様式を思わせる教会、そのすぐそばには、空を目指すような高さの尖塔が見えた。
沢山の人々が行き交っている。
今日はフェスティバルでもあるのかしら?
人の流れに従い歩いて行くと、巨大な噴水広場に着いた。
そこには沢山の屋台が出ている。
ソーセージが焼ける美味しそうな薫りがした。食べ歩きできるパンには、サワークラフトとローストポークがサンドされている。ジャガイモ団子も売っていた。
美味しそう……。
やっぱりフェスティバルだわ。
見ると私も、道行く女性が着ているのと同じ、花柄模様のレースがついた白の上衣に、ストライプ柄のスカートという姿をしている。どうやらこのフェスティバルに合わせた衣装みたいだ。
「シャーリー!」
振り返るとそこに、皇太子がいる。
でも……いつもと装いが違う。
上に着ているのは、白のプルオーバーで、焦げ茶色の革紐で編み上げになっているシャツだ。ズボンは、その革紐と同色の革製。足元は黒のミドル丈の革のブーツで、腰には剣も帯びている。
「ごめん。待たせたかな? 今日はフェスティバルなのに、騎士の訓練は休みじゃないなんて、ついていないよ。でも早朝から頑張ったから、なんとか昼前には終わった」
いつも綺麗に整っているブロンドが、少し乱れている感じなのは、剣術の練習をしていたからなのね。だから服装もラフで、剣を帯び、そして……透き通るような肌が少し上気しているように見えた。
「もう、腹ペコだよ。何を食べる? シャーリー?」
「そうですね……。私はジャガイモ団子が食べたいです。エリス皇太子殿下は?」
「シャーリー」と言った皇太子は、私の腰を抱き寄せる。「えっ」と驚く私の唇を指で押さえると、ウィンクをした。この美貌でウィンクは、まさに鬼に金棒。無敵な仕草だ。
「エリスと呼ぶ約束だろう、シャーリー。それに敬語は禁止だよ」
「……!」
そんなルール知らないが、直前のウィンクで瞬殺されていたので、「そうでした」とばかりにこくこく頷いてしまう。
私が頷くと、皇太子は優しく微笑む。さらに私の頭を優しく撫でると、手を差し出す。
手をつないだ。
でもただの手のつなぎ方ではない。手の平をあわせ、指を絡ませる、いわゆる恋人つなぎだ。
ゆっくり歩き出し、広場の中の屋台を見て回り、まずはじゃがいも団子のお店で足を止める。その次は、ハムとトロトロチーズをサンドしたパンを売るお店。さらにソーセージとキャベツをアンチョビで炒めた料理を売るお店へ向かった。
満腹になって喉も乾いたので、搾りたてのレモンで作る、レモネードを購入することにした。
行列に並び、出来立てのレモネードを手にいれると、ベンチに腰を下ろす。
この世界には、キンキンに冷えた飲み物はなく、どうしても飲み物は生ぬるい。それでも新鮮なレモンで作っているのと、ミントが入っているので、清涼感もあった。でも基本的にはたっぷり蜂蜜も入っているので、甘酸っぱい。
「シャーリー」
「はい、殿下」
「ファーストキスは、味がするそうだ。このレモネードみたいに。甘酸っぱいらしい」
皇太子が少女漫画みたいなことを言い出すので、思わずクスクス笑うと。
「わたしが言うこと、信じられない?」
「ええ。……確かめたことがないので分からない、というのもありますが」
「じゃあ、確認する?」
確認する……?



























































