マヨイビト
異世界の聖女様。
青果店のカミラおばさんは確かにそう言ったわ。
聖女はともかく、異世界って…?
私の他にも、ここではない、別の世界から来たひとがいる?
カミラおばさんはくるくるとリンゴを剥いて切ってくれたの。
うん? いいの、おばさん。これって売り物なんじゃ?
「おや、休憩かい? ご相伴に与ろうかな」
そう言ってやって来たのはカフェのおじさんよ。お名前はギレルモさん。
ギレルモおじさんは笑顔の優しい五十代くらいのひと。
ちゃっかりコーヒーポットを持ってきているわ。
お客さん用の椅子を勧めたら、どこからか手品みたいにカップを取り出して、カミラおばさんと私にコーヒーを入れてくれた。
ウィンクがチャーミングなのよ。
「おばさん、このリンゴ美味しい!」
すごく甘くて、ちょっぴり酸っぱくて、固すぎなくてとっても食べやすい。
「本当だ。これは美味しいね。新しい品種かい?」
ギレルモおじさんも目を細めて頷いたわ。
「隣町のボニートから買い付けたのさ。あそこもビーストの被害がだいぶ酷いみたいでねぇ。少し傷のついたリンゴを安く買ったんだよ」
おばさんは傷のついたところをキレイに除いて切ってくれたわ。傷があっても味に問題は無いみたい。
「アップルパイとか、焼きリンゴとかにしたら美味しそうね」
「そうさねぇ。傷があると痛みも早いし、加工した方がいいかねぇ」
「いい案だね。じゃあ僕がいくつか買おうかな。店でアップルパイか、フルーツグラタンにして出してみよう」
ギレルモおじさんがそう言うと、カミラおばさんが毎度と笑ったわ。
「フルーツグラタン、美味しそう!」
私、加熱した果物大好きなの。もちろん、生も好きだけれどね。
ギレルモおじさんが、明日食べにおいでって言ってくれたわ。楽しみ!
ところで。
「ねぇ、おばさん。ビーストって増えているの? それに異世界の聖女様って?」
さく、とリンゴにフォークを刺しながら聞くと、カミラおばさんは眉間にシワを寄せたわ。
「そう。ヨツバちゃんは他所の国から来たから分からないだろうけれど、ビーストが増えているのさ」
ギレルモおじさんも難しい顔をして頷いた。
「この国は元々ビーストが多く生息している国なんだよ。そのおかげで、他国に比べて魔法石が豊富で家具や道具に加工する技術も優れている。この国には一獲千金を夢見るビーストハンターがレアな魔法石を求めて集まっているんだ。人が集まるところには物も集まる。金も動く。だから、この国は比較的豊かなんだよ」
ふむふむ。
「だけどねぇ。最近ビーストが増殖していて、退治する方が間に合ってないのさ。そのせいで畑を荒らされたり、襲われる人が出たりしているんだよ」
カミラおばさんがため息をつく。
「それは、怖いわね」
「そうなんだ。みんな怖くて不安なのさ。それで2ヶ月くらい前、ジャクソン王が預言者ライシャに平和を願う預言を授かるよう命じたんだ。そこで得た預言が、「これから現れるマヨイビトのひとりが、国をビーストの脅威から守る守護者となるだろう」っていうものだったのさ」
んんっ?
待って待って、おばさん。
今、分からない言葉が出てきたわ。
ライシャ様っていうのはあれよね。最高峰の預言者で王様の補佐をされている方。
預言って、命じられた内容に応じた預言を授かることが出来るものなの?
「そりゃあ、預言者だからね」
おばさんは当然とばかりに頷いたわ。
なるほど。それが出来るからこその預言者ってことかしら。
なんか、すごいわ。想像を超えてすごいわ、預言者。
「じゃあ、マヨイビトっていうのは?」
続けて聞いたら、リンゴを頬張るカミラおばさんに代わって、ギレルモおじさんが説明してくれた。
「この世には、世界ってものがいくつか存在していてね、各々別の時空にあると考えられているんだ。その時空には歪みがあってね、時間と共に歪みが大きくなっていくんだが、世界は時空を維持しようとするからある程度歪んだところで元に戻ろうと反発する。そのときの反動で世界は大きくねじれ、破れたり裂けたりするんだけど、別の世界の破れたり裂けたりした穴同士が繋がってしまうことがあるんだ。穴は自然に塞がるけれど、気づかずにその穴を通り抜けてしまうひとが稀にいてね。意図せず生まれた世界とは違う世界に迷い込んでしまう。そういうひとをこの国ではマヨイビトと呼んでいるんだよ」
それってなんだか、地下の岩盤のズレで起こる、地震のようなお話だわ。
地震が起こるように世界を取り巻く時空に穴が開く。その穴が、世界と世界をくっつけてしまう瞬間があって、その瞬間に偶然、世界の境を跨いでしまうひとがいる。
私みたいにね。
つまり、そういうことでしょう?
私も、その、マヨイビトってことよね?
どうして私、そうなる未来を見なかったのかしら…。
そりゃあね。意図して未来を見ることが出来るからって、常に、四六時中、未来を監視しているわけじゃあないもの。
間違えることもあるし、転ぶことだってあるわ。
朝、玄関を出るとき。曇っている空に気付きさえすれば雨が降るかどうかチェックできるけれど、頓着せずに出かけてしまったら降られたりもする。
でも、何か大きな事件があるときって、わりと見えるんだけどなぁ。
まあ、でも。それは今考えても仕方ないわね。
私はあの日、偶然繋がった別の世界に踏み込んでしまったんだわ。とてもとても信じ難いことだけれどね。
「ヨツバちゃんの国にもいるんじゃないかな。呼び方はこの国とは違うかもしれないけれどね」
いる、かしら…。聞いたことないわ。
あ…。私、この世界の別の国から来たことになってるんだった。
近隣の国にもこの国と同じように異世界から迷い込むひとがいる?
そうね…。いても、おかしくないわよね。でも、なんとも答えようがないわ。
えへ。曖昧に笑って誤魔化しちゃう。
「ねぇ、ギレルモおじさん。そういうことって、よくあるの? 他の世界のひとがこの世界にやってくるってことが?」
「そうだね。そんなに頻繁ではないよ。数十年にひとり、といったところじゃないかな」
「数十年にひとり…」
それは少ないのかしら。多い、ように感じるけれど。
もしかしたら、神隠しとかって言われる現象はこういうことなのかもしれないわ。
「今、この国で分かっているマヨイビトが数人いるよ。そのうちのひとりが、さっきカミラさんの言っていた「聖女様」だ」
聖女様…。
「聖女」ってなんだろう。
聖職者…、みたいな感じかしら?
「そのひとが、預言の守護者なの?」
訊ねると、ギレルモおじさんは首をひねった。
「うーん。たぶん違うよ。守護者なら守護者だと言うだろうからね。なんて言ったらいいのかな。ビーストの増殖に怯える国民を安心させるためのお守り的なものだよ」
うん? どういう意味?
首を傾げたら、今度はカミラおばさんが言ったの。
「ライシャの言う守護者がなかなか現れないからねぇ。みんな不安になって、暴動が起こりそうなくらいだった。そんなときに現れたのが、その聖女様さ。ライシャは、彼女の祈りが人びとの心を慰めるだろうと預言して、国が彼女を「聖女様」にしたのさ」
「祈りが、心を慰める…」
なんだか、素敵ね。
それってとっても「聖女」っぽいわ。
ギレルモおじさんはコーヒーのおかわりを注ぎながら言ったわ。
「マヨイビトは総じて歓迎されるんだよ。我々には無い知識や技術をもたらしてくれることがあるからね。聖女様は音楽に通じているようで、この国の楽器を使って、この国にはない音楽を奏でるんだ。一度聞いたことがあるけれど、素晴らしい演奏だったよ。あれは確かに、心が慰められるね。癒されるよ」
ギレルモおじさんは思い出すように微笑むと、カミラおばさんもうんうん頷くの。きっと、おばさんも聖女様の演奏を聞いたことがあるのね。
ところで。
「その、マヨイビトは元の世界に帰ることは出来るの?」
出来るだけさり気なく聞いたつもりだけど、ドキドキして、ちょっと声が震えちゃったわ。
「うーん。別の世界に繋がる瞬間に再び遭遇すれば、可能性が無いわけじゃないんじゃないかな。ただ、そうは言ってもその可能性は低いと思うよ。それに、たとえその瞬間に再び遭遇したとしても、繋がった世界が元の世界である保証は無い。また別の世界かもしれないからね」
「…どういうこと?」
「マヨイビトに関しての研究があってね。可能な限りマヨイビトを集めて元の世界についての話を聞いたところ、元の世界についての認識が一致しなかった、という結果になったんだ。たとえば、国の名前、習慣、著名人、歴史、その世界の人間なら知っていて当然のことをお互いに知らないと言う。一致するひともいたらしいけれど、一方の話に対してもう一方がそれは数百年前の話だと言ったりしたと記録されている。それによって、世界は複数あるのではないかと推測されているんだ」
「…………」
と、言うことは、よ。
元の世界に帰るのは容易では無い、というかほぼ不可能なんじゃないかしら。
なんとなく、来られたのだから帰れるんじゃないかと思っていたけれど、甘かった?
この1ヶ月とちょっと、漠然と感じていた不安が現実になって、突然目の前に迫って来ちゃった。
やだ。どうしよう?
「ちょっと、ヨツバちゃん? 大丈夫? 顔色が悪いわよ?」
大丈夫…?
あんまり、大丈夫じゃない、かも?
まあ…、でもね。
私、出来る限り嫌なことは後回しにするタイプなのよね。それに、往生際もあんまり良くない。
まだ、帰れないと決まったわけじゃないわ。多分…。
何かもっと違う方法があるかもしれないし。
悲観するのはもっともっと後、そうよ、出来ることを全てやってからでいいはずよ。
私まだ、帰るための努力って何もしてないじゃない。
俯いていた顔を上げて、無理やり笑顔を作って、心配そうなカミラおばさんに大丈夫、って言おうと口を開きかけたとき。
「あのう、すみません。ここは占い師さんのお店ですか?」
入り口から、女性の声がしたの。
あら。お客さん、かしら…?