純白の世界の中で
秘都美は、MMOを取り出しキーを叩いた。
MMOから直接術式を使うという初めてのことに対して、知らぬ間に不安になっていたのかもしれない。秘都美は、そのまま目を閉じた。
涼稀の術式は自分の脳に展開され魔法が発動された。自分の体に満ちてくるなにか温かいものを感じたあと、ゆっくりと目を開ける。
白い光が、薄くほのかに彼女の体を覆っていた。
瞳の焦点を距離を測り取るために、自分の足元からゆっくりと周平の方へ移動させていく。
目測で約50m。しかし、これではまだだめだ。
もっと正しく、精緻に、正確に、周平との距離を測り取らなくてはならない。
自分のためにも......たぶん周平のためにも。こんなところで自分の存在が消えてしまうのは嫌だし、彼も自分を消したと分かったとき、きっと後悔する。「今だけは守りますから」と、心に響く言葉をかけてくれたことはまだ覚えている。いろいろあったけど、そう言ってもらえるぐらいには自分は大切にされているんだと思った。
(だから絶対、周平くんも私も傷ついちゃダメ)
周平の周りを荒れ回っていた雷の乱舞は、8つの鉄柱へと吸収されている。それでもなお、轟音を伴う電流は空気を流れ続けている。
その中心へと焦点を戻せば、苦しそうに顔を歪める周平の姿。
(早く、助けなきゃ!)
再び瞳を閉じ、秘都美は自分と相手だけのいる空間をイメージする。
彼我の距離は......
(50m......48m......48.3? 2? いや、48.4m!)
目を開き、MMOからいつもの術式を抜き出す。なんの滞りもなく駆け抜けていく「スー」とした感覚が全身を覆う。
【瞬間移動 発動】
重力から解放される一瞬と形容するのにふさわしい時間の後に、再び自分の重みを感じた。
目の前には苦しみに悶える周平の顔。目は見開かれ、歯を食いしばり、全身の筋肉に力が入っていた。
彼から、自分の姿はどう映っているのだろうか。そんなことすら考える暇もなく、秘都美は手の平を雷の鎧で固められた周平へと差し伸べた。
赫燿と光り輝くその鎧に、圧縮された大気と「純水」の鎧。そしてその下で淡い光を放つ涼稀の魔法が触れる。
「あぁっっ!」
秘都美の口から発せられた、悲鳴とも吃驚とも取ることのできるその叫びの原因は、彼女の全身を駆け抜けた強大な何かだった。あまりに唐突で、強烈なその衝動に、秘都美は反射的に目を瞑る。
しかし、それも一瞬のことだった。
宙に浮いているけれど、足は地面についている。という不思議な感覚に襲われ、秘都美は目を開いた。
純白のベールに包まれているかのような、本当に白いだけの、何もない空間。
けれど、その中央には彼がいた。
瞳を閉じ、腕を胸の前で交差させている周平。
真っ白い床を蹴って秘都美はすぐに走り出した。だが、周平はすぐ近くにいるようで、遠い。走っても走ってもたどり着くことができなかった。
それでも秘都美はこの長い道のりを進むことを諦める気は全くなかった。
走って、走って、走って、走る。
途中、瞬間移動を使おうかという考えが出てきたが、すぐに頭の外へと振り払われた。そもそも、正確な位置が分かっていないと使えないという弱点もあるのだが、自分の足で周平のところへとたどり着きたかった。確かに時間は無い。それでも、「自分自身で」という感情が強かった。
息を切らし、走り続け、ようやく周平の前まで来た。
「周平くん!」
早鐘のように打ち付ける心臓の鼓動を整えることなく、秘都美は彼の名を叫ぶ。
返事は無い。
永久の昔からそこに眠っているかのように、安らかに、安心しきった顔で彼は目を閉じたままだった。
一瞬。秘都美は本気で周平を起こしまっていいのかと迷たほどに、その寝顔は心地よさそうだった。
だが、そんな迷いはすぐに頭の中から追っ払った。こんなことをしているあいだにも、「周平」という人自身の崩壊は続いていのだから。
「周平くん。帰ろう?」
秘都美は話しかける。なんとなく、そうするしか彼を連れ戻す方法はないような気がしたから。
周平の表情に変化はない。
「ねぇ、周平くん」
歩み寄りながら再び声をかける。あと一歩進めば、秘都美の体は周平に触れる。
すぐそこにある周平の顔は動かない。
棒立ちのまま、秘都美は周平の名を何度も呼ぶ。彼女にはそうすることしかできないし、それ以外の方法はない。もしかしたらあるのかもしれないけれど、今の彼女にそれを考える余裕など無い。
繰り返し、繰り返し呼ぶ周平の名前。そうするうちに目から雫が垂れ、頬を濡らす。何とも言えない焦燥感と、このまま帰っとこないのではないかという絶望感が織り混じり、彼女の感情の海は大荒れの模様を呈した、
一度深呼吸をして、秘都美は息を整えた。ゆっくりと息を吸い。はく。
いくらか収まる動悸とともに、激情の大波は次第に漣波へと変わっていく。
それででも、頬を伝う涙はとどまることを知らなかった。もはや、自分の力で感情のコントロールできる意識の内側ではなく、無意識にとも言える条件反射によって、その涙はこぼれ落ちていた。
「周平くん、大好きなんだよ?......はやく......かえろぅよ」
いつの間にか、秘都美は周平の体に抱きついていた。
「ねぇ......しゅうへい、くん......はやくっ......かえろう、よっ」
嗚咽の交じる涙声で、秘都美は周平の名を呼び続ける。
涼稀のせいだろうか?
いや、それは違うと思う。涼稀の魔法は間違ってなんかない。たぶんここは、周平の、周平だけの空間。
だからそこに入らせてくれた涼稀の魔法は間違ってない。
だけど、それでも、周平は帰ってこない。さっきまではあんなに苦しそうにしていたのに、ここでは天使のように優しいくて暖かい顔でいる。それなのに、秘都美が抱きついても、必死に呼びかけても、微動だにしない。眉一つ動かさない。
――――もう、周平は帰ってこないんじゃないか。
そんな不安が不安を呼び、それは連鎖的に秘都美の心へと広まっていく。とどめなく流れ出る涙は、その量を増した。
「しゅうへいくん、しゅうへいくん、しゅへい、くん......」
それでもなお、彼の名前を呼び続ける秘都美。
そして、名を呼ばれ続ける周平の姿に変化は......




