第9話 触れる境界
「……次は」
声は低く、抑えられている。
だが、そこに含まれた冷え切った確信は、むしろ静かな分だけ恐ろしい。
「腕じゃ済まさない」
それだけ言うと、神崎はようやく手を離した。
「ぐゥ……っ!」
解放された男は腕を抱え込み、椅子ごと後退る。
痛みのせいか先ほどまでの粘ついた余裕は消え失せ、
顔色はドス黒くなっていた。
神崎はもう男を見ていない。
視線はゆっくりと動き――蒼真で止まる。
その瞳の奥には、
先ほどまでの殺意の残り火がまだ微かに揺れていた。
神崎の視線が蒼真の腕へ落ちる。
さっきまで男に掴まれていた場所。
そこにはうっすらと赤い跡が残っていた。
神崎の眉が、ほんのわずかに動いた。
「……部屋に戻れ」
ほとんど命令に近い声音。
蒼真は一瞬だけ逡巡したが、
へこんだテーブルをちらっと見て結局椅子から立ち上がった。
次の瞬間、神崎の手が蒼真の手首を掴む。
そしてそのまま歩き出した。
「……ちょ、ちょっと」
蒼真が声をかけるが、神崎は振り返らない。
周囲の視線など存在しないかのように、
一定の歩幅で進んでいく。
2人は廊下へ出た。
背後で扉が閉まる。
乾いた音が、コンクリートの空間に反響した。
廊下は薄暗い。
天井の蛍光灯が弱い光を落とし、
無機質な床を冷たく照らしている。
蒼真の個室前に着くと、
神崎はそこでようやく足を止めた。
蒼真はそこで初めて気づく。
神崎の呼吸が、わずかに荒い。
(……神崎。
まだ怒ってる)
蒼真は腕を軽く引いた。
「……もう離してくれ」
神崎の指がぴくりと動く。
数秒の沈黙のあと、ゆっくりと力が抜けた。
解放された手首を、蒼真は無意識にさする。
「……大げさだろ」
思わず口から出た。
「ちょっと絡まれただけだって」
神崎の視線が戻る。
その目は先ほどより落ち着いていたが、
完全に静まっているわけではない。
奥にまだ、熱が残っている。
「ちょっと?」
低く、神崎が繰り返す。
蒼真は肩をすくめた。
「こういう場所だろ、ここ。
ああいう奴くらいいるって」
神崎は答えない。
ただ蒼真を見ている。
その視線が妙に重い。
蒼真は居心地の悪さを覚え、眉を寄せた。
「……何」
神崎が一歩近づく。
反射的に蒼真は半歩下がった。
背中がコンクリートの壁に当たる。
逃げ場がない。
神崎は蒼真の腕を取った。
さっき男に掴まれていた場所。
そこに残る赤い跡を、指先でなぞる。
ひやりとした感触。
蒼真の肩がびくりと跳ねた。
「……痛いか」
神崎が問う。
「いや……別に」
(ゴリラみたいなお前の腕力が怖いんだよ!)
引きつりながら蒼真は視線を逸らした。
この程度、大したことではない。
そう思うのに、神崎はまだ手を離さない。
指先が赤い跡の上をゆっくり辿る。
そっとなぞるだけの、
妙に丁寧な手つきだった。
(……なんだよ)
胸の奥が落ち着かない。
さっきまであれだけ苛烈だった男と、
同じ人物とは思えない。
顔をしかめた神崎がぽつりと言う。
「……気に入らない」
蒼真は顔を上げた。
「は?」
神崎の視線は蒼真の腕に落ちたままだ。
「他の奴に触らせるな」
一瞬、蒼真は言葉を失った。
「……いや、だから」
どう返せばいいのか分からない。
神崎の指が止まる。
次の瞬間、その手が蒼真の顎へ移った。
軽く持ち上げられる。
視線がぶつかる。
近い。
思っていたよりずっと近い距離に神崎の顔があった。
しろい肌、整いすぎた造作。
冷たく見据える目。
だが今は、その奥に妙な熱が潜んでいる。
蒼真の喉が小さく鳴った。
神崎が言う。
「お前」
「自分がどう見られてるか、分かってないだろ」
蒼真は眉をひそめた。
「……は?」
神崎は小さく息を吐く。
呆れたような、しかしどこか苛立ちを含んだ吐息。
「無防備すぎる」
蒼真はむっとする。
「無防備ってなんだよ」
「そのままだ」
神崎は淡々と続けた。
「さっきの奴程度でも、お前じゃ負ける」
蒼真は反論しかける。
だがその前に神崎が言った。
「だから」
顎を支える指先に、わずかに力がこもる。
逃げられない距離。
神崎の視線がまっすぐ落ちてくる。
「俺の目の届くところにいろ」
低い声だった。
命令のようでいて、どこか違う。
「……俺、女じゃないし、子供でもないんだけど?」
思わず問い返す。
神崎はほんのわずか目を細めた。
そして、かすかに笑った。
「……知ってる」
それはいつもの冷たい笑みではない。
もっと静かで、哀しい笑みだった。




