第30話 守る背中
その背中を、蒼真は見ていた。
息がまだ整わない。
胸が苦しい。
だが、神崎から目が離せなかった。
目の前には赤い目の男。
さっきまで神崎の姿に見えていた怪物。
今はもう、はっきりと“敵”だと分かる。
皮膚は異様に膨れ、筋肉が歪に盛り上がっている。
呼吸のたびに、喉の奥から湿った音が漏れた。
「……ヴァアァァアア」
不満げに呻くような声を出した瞬間、怪物は脚をぐっと撓めた。
ドンッ!
床を蹴って一気に距離を詰めてくる。
「神崎!」
叫んだ瞬間、神崎の体はすでに動いていた。
半歩だけ横へずれる。
怪物の拳が空を切った。
……ブォンッ
空気が唸る。
その懐へと────、なんの躊躇もなく神崎は踏み込んだ。
黒いナイフが閃く。
刃が一瞬だけ光り、粘ついた黒い血と、中身がそこから尾を引いた。
胴体の右半分を切断されても怪物は止まらない。
臓物を飛び散らせながら、跳躍して脚を振り下ろす。
かるく避けて、神崎はその脚を掴んだ。
普通の人間なら容易く蹴り潰せるとんでもない脚力。
だが、それを片手で掴んでいる神崎の指が、皮膚を突き破って更に食い込む。
骨ごと、みしみしと筋肉が軋む。
怪物の勢いをそのまま利用して、神崎は体をひねった。
脚を掴んだ腕を思い切り振り抜く。
轟音と共に、男の体が床に叩きつけられた。
ドゴォ……ッ!
蒼真の目が見開かれた。
迷宮全体が揺れたような気がする。
激しく叩きつけられた衝撃で、男は文字通り伸びていた。
頭蓋やちぎれかけた胴が完全に砕け、中身が周りに広がっている。
「蒼真」
呆然としていると名を呼ばれた。
いつの間にかすぐそばに神崎が立っている。
そのまま砂袋のようにひょいと肩の上に抱え上げられた。
「摑まってろ。ここは空気が悪い」
言いざま、神崎は床を蹴った。
「っ!?」
不意をつかれた蒼真は上昇負荷に息をつめる。
壁面に着地した神崎は、足でその場に穴を穿ちながら斜めに壁を駆け上がった。
目まぐるしい移動に、蒼真は硬直しながら神崎のコートの背中を掴んだ。
だん、と音を立てて元の通路に戻ると、背中をするりと撫でられる。
「……」
「どうした。酔ったか」
(……おかげさまで、吐きそう)
口には出さず、蒼真は黙って吐き気を堪えた。
その時神崎の耳は、別の音を聞いていた。
不規則な、足音。
先ほど蒼真が利用した壁の罠と死体の先、通路の奥から聞こえてくる。
「最後の奴だ」
暗闇に、赤い光が見えた。




