第26話 閉域での死闘
遠くで、かすかな衝撃音が響いた気がした。
巨体の男は、ゆっくりと通路を進んでくる。
がり……、
がりり……
何かが床を引きずる音が、迷宮の静寂を削っていた。
その手にある“こん棒”が、コンクリートに擦れている音だ。
神崎は静かに息を吐いた。
蒼真を押し出して隔壁を閉じたあと、通路は奇妙なほど静まり返っていた。
残ったのは自分と、この怪物だけだ。
巨体の男が、首を傾けた。
両腕に力を込めて筋肉と血管をさらに増強させている。
ぎしり、と骨の鳴る音。
焦点の合っていない赤い目が、神崎を捕らえた。
「……ォァアァァァ……」
ひび割れた声。
ドンッ!
床が震えた。
巨体が突進してくる。
神崎は一歩だけ横にずれた。
次の瞬間、
ゴォンッ────!!
振り下ろされたこん棒が床に叩きつけられる。
怪物の武器から弱い悲鳴が上がり、コンクリートが鈍く砕けた。
神崎の構えた黒いサバイバルナイフが、わずかに光る。
(力は予想以上だな)
怪物は腕を引き抜き、武器を振り回した。
空気を裂く鈍い音。
神崎は素早く距離を取るが、狭い通路では完全には避けられない。
横薙ぎの一撃が肩をかすめた。
ブォンッ────!
強い衝撃。
神崎の身体が壁に叩きつけられる。
鈍い音が響いた。
「っ、……なるほど」
口の端からわずかに血が滲む。
「特別製って事か」
怪物は唸りながら歩み寄る。
武器を左右に引きずる。
がり……がりり……
その塊の中で、かすかに人の声がした。
「がっ、……たす……」
すぐに音は潰れた。
神崎の目が一瞬だけ細くなる。
(まだ生きている)
だが助ける余裕は無いし、またそのつもりも端から無い。
怪物が腕を振り上げた。
神崎は真正面へ踏み込む。
ブォンッ!
振り下ろされた瞬間、神崎は身体を空中に滑らせるように相手の懐へ入った。
刃が閃く。
黒いナイフが怪物の脇腹へ走る、が────、浅い。
筋肉の層がぶ厚すぎる。
怪物が吠えた。
「ァァァァ!!」
異様に太い腕が激しく振り回される。
神崎は距離を取るが間に合わない。
次の瞬間、ヒトで出来たこん棒が横から叩きつけられた。
ドンッ!
神崎の身体が数歩吹き飛ぶ。
壁に背中を打ちつける。
息が一瞬詰まった。
(……重いな)
だが無表情は変わらない。
神崎はゆっくり立ち上がった。
怪物が迫る。
巨体の影が通路を覆う。
腕が振り下ろされる。
神崎は両腕を交差させて受けた。
とんでもない衝撃に、音を立てて床が軋む。
普通の人間ならその場で潰れている。
だが神崎は持ち前の膂力で踏みとどまった。
全身が悲鳴を上げるように痛んだ。
怪物がさらに力を込める。
こん棒の中から、弱い呻き声が漏れる。
神崎の目がわずかに揺れた。
その隙を怪物は見逃さない。
頭突きのような体当たりが来る。
神崎は怪物の腹を蹴って横へと転がった。
こん棒が壁に叩きつけられる。
何とも言えない、ぐじゃりと言う轟音が辺りに響いた。
コンクリートと、ヒトの欠片が飛び散る。
(単純だが速い)
神崎は呼吸を整える。
力、速度。
どちらも異常。
だが、理性はない。
怪物が再び振り上げる。
神崎は冷たい眼を光らせて前へと踏み込んだ。
ナイフが黒い軌跡を描く。
肩。
背中。
脚。
連続で急所の腱に刃を入れる。黒い血があたりに飛び散った。
怪物が激しく唸る。
だが止まらない。
また、とんでもない勢いで腕が振り回される。
神崎は後退した。
先ほどまで立っていた場所の床が砕かれる。
”こん棒”の破片がますます飛び散る。
通路はすでに爆心地のようだった。
神崎の呼吸が、わずかに荒くなる。
だが焦りはない。
神崎は怪物を冷たく見据える。
巨体はすでにいくつもの重症を負っていた。
動きも確実に鈍っている。
怪物がさらに吠えた。
最後の突進が、来る。
武器を振り上げて走る。
神崎は動かない。
距離、タイミング。
すべてを推し量る。
そして────。
怪物が腕を振り下ろした瞬間、神崎は踏み込んだ。
がら空きになったその懐へ、身体を低く沈める。
神崎の両の腕が素早く動く。
怪物の顔面を渾身の力で殴り潰し、怯んだところに走ったナイフが幾つもの黒い弧を描いた。
怪物の足がぴたりと止まる。
腕から力が抜け、こん棒が床に落ちた。
ごとん、と鈍い音が響くと────。
ゆっくりと巨体が倒れ、通路に静寂が戻った。
神崎はその場で呼吸を整えた。
黒いナイフを素早く、静かに振る。
刃についた黒い血を払った。
「……はぁ」
短く息を吐く。
そして足元を見た。
力なく転がった怪物の“武器”。
材料の三人は、もうとっくに動かなくなっていた。
神崎の目が一瞬だけ伏せられる。
だがすぐに顔を上げた。
「蒼真」
小さく呟く。
今ごろひとり必死で迷宮を進んでいるはずだ。
神崎はナイフを握り直した。
そして破壊の限りを尽くされた通路の奥へ走り出す。
彼に追いつくために、迷宮の深部へ。
まだ、戦いは終わっていない。




