第129話 中央研究棟/2055/愛惜という名の劇薬
執務室の通信端末へ灯った赤いランプは、数秒後、静かな電子音とともに暗号化されたデータを受信した。
蒼真は認証を済ませ、画面へ視線を落とす。
表示された件名は簡潔だった。
『第七世代強化兵士 定期精密検査報告 個体名:柊一真』
蒼真の表情がわずかに引き締まる。
スピーカーからE.D.E.Nの落ち着いた音声が流れた。
『報告書を解析します』
画面には淡々と検査結果が並んでいく。
生体機能正常。
人工神経網正常。
筋繊維強度正常。
神経伝達速度正常。
戦闘適性評価、変動なし。
ここまでは、いつもと変わらない内容だった。
蒼真も静かに息をつく。
しかし最後の診断項目へ目を移した瞬間、その指先が止まる。
『長期観測項目に微細な変化を確認』
画面を拡大する。
医療AIによる所見が表示された。
『海馬および辺縁系において、自発的神経活動の増加を観測』
『現時点では身体機能への影響なし』
『日常生活への影響なし』
『経過観察を推奨』
蒼真は報告書を見つめたまま、小さく息を吐く。
「……嫌な数字だ。感情のクリーニング処理も受けたようだし、脳に負担がかかりすぎてる」
『同意します』
E.D.E.Nの声に、わずかな緊張が滲む。
『強化兵士における海馬活動の上昇は、記憶回復を意味しません』
「もちろん分かってる」
柊の過去の記憶は完全消去されている。
失われた過去が戻ることはない。
それは、この世界の医療技術をもってしても覆せない絶対事項だった。
『しかし、辺縁系の過剰活性は感情制御中枢へ負荷を与える可能性があります』
蒼真は静かに目を閉じる。
あの計画で造られた強化兵士たちは、感情と戦闘本能を無理やり制御するため、脳へ幾重もの人工処置が施されている。
その均衡が崩れれば────。
『狂乱状態への移行確率が、基準値を上回っています』
静かな音声が執務室へ響く。
『現段階ではまだ危険域ではありません』
『ただし、強い精神的負荷、極度のストレス、あるいは戦闘時の急激な興奮状態を契機として、制御機構が破綻する可能性があります』
蒼真は机へ肘をつき、額へ手を当てた。
「柊本人には知らせるべきじゃないな」
『推奨しません』
「知れば、余計に自分を追い詰める」
『同意します』
「悠馬君との接触は控えさせた方が良いか……。今後蓮の送迎は柊の部下に任せよう。他の仕事もなるべく本気の戦闘の無い訓練教官や俺の秘書の業務を頼むことにするよ」
短いやり取りのあと、部屋には静寂だけが残る。
蒼真はもう一度検査結果へ目を通し、ゆっくりと画面を閉じた。
「どうか、このまま何事もなく過ぎてくれ」
それは誰へ向けた祈りなのか、自分でも分からなかった。
窓の外では青空が高層ビル群を明るく照らしている。
穏やかな景色とは裏腹に、誰にも知られることのない小さな異変は、静かに時を刻み始めていた。
◇
週明けの月曜日、窓から差し込む朝の日差しは柔らかく、教室には休日を終えた生徒たちの賑やかな声が満ちていた。
「おはよう、蓮!」
弾むような声とともに悠馬が駆け寄ってくる。
その勢いに蓮は小さく眉を動かしただけで、いつもの席へ鞄を置いた。
「……朝から騒がしいな」
「元気だからな!」
「威張ることじゃない」
軽口を交わしたところで、悠馬の笑顔がふっと消える。
「……蓮」
「何だ」
「その顔、どうした?」
蓮は反射的に頬へ触れた。
柊の模擬ナイフが掠めた傷は細い一本線になり、赤みだけがまだ薄く残っている。
鏡でも見ない限り忘れてしまう程度の傷だった。
「転んだ」
短く答える。
嘘は得意ではない。
だから余計な説明はしない。
悠馬はじっと蓮の横顔を見つめた。
「……痛くないのか?」
「もう平気だ」
「消毒した?」
「ああ」
「ならいいけど……」
どこか納得しきれない顔をしながらも、それ以上踏み込んではこなかった。
人には聞かれたくないこともある。
悠馬はそれを本能的に理解している。
だから話題を無理やり変えるように明るく笑った。
初めて話した日より、蓮の返事は少しだけ増えている。
沈黙が苦痛ではなくなっていた。
それだけで十分嬉しかった。
昼休みになると悠馬は購買袋をぶら下げながら当然のように蓮の席へやって来る。
「今日は焼きそばパン買えた!」
「戦利品みたいに言うな」
「激戦なんだよ。ほら、一口やる」
「いらない」
「遠慮すんなって」
「……」
押し付けられるように差し出されたパンを避け続けていた蓮だったが、あまりにしつこいため小さくため息をつき、一口だけ齧る。
「どう?」
「……普通」
「普通いただきました!」
「何が嬉しいんだ」
「蓮が食べてくれるとは思ってなかったからさ」
相変わらず、変なやつ。
そう思いながらも、その騒がしさだけは不快ではなかった。
「蓮」
「何だ」
「その傷、跡残らないといいな」
何気ない一言だった。
気遣うような声音だった。
蓮は少しだけ目を伏せる。
自分の傷を心配してくれた人など、今までは蒼真しかいなかった。
「……大丈夫だ」
「なら良かった」
見返りを求めない優しさは、不思議なくらい心地よかった。
教室の窓から吹き込む風がカーテンを揺らす。
笑い声。
誰かが机を叩く音。
校庭から聞こえる運動部の掛け声。
こんな平凡な昼休みを、自分が過ごす日など来ないと思っていた。
気づけば蓮は、窓の外ではなく教室の中を眺めていた。
◇
放課後、昇降口を出ると悠馬が自然に隣へ並ぶ。
「今日も途中まで一緒に帰ろうぜ」
「……またか」
「嫌?」
「嫌とは言ってない」
「じゃあ決まり」
そう言って歩き出す姿は大型犬のように人懐こい。
商店街では新作のアイスを見つけて騒ぎ、本屋では漫画の新刊を熱心に眺め、ゲームセンターの前ではクレーンゲームに夢中になって足を止める。
「これ見ろよ! デカイ犬!」
「ぬいぐるみだろ」
「可愛いじゃん」
「お前みたいだな」
「え?」
「でかくて落ち着きがない」
「それ褒めてないよな!?」
抗議する声に思わず蓮の口元が緩む。
それを見逃さなかった悠馬は嬉しそうに目を丸くしたが、何も言わなかった。
笑った理由を問い詰めれば、きっと蓮はまた表情を閉ざしてしまう。
今は、このくらいの距離がちょうどいいのだ。
◇
同じ頃。
高層集合住宅の最上階では、ソファへ腰掛けた蒼真がノート型端末へ目を落としていた。
画面には今日更新された生活観察ログ。
蓮の表情変化。
会話回数。
笑顔を確認した回数。
そのどれもが、少し前なら考えられない数字だった。
「順調だね」
自然と頬が緩む。
『蓮の対人適応指数は二十八パーセント上昇しています』
E.D.E.Nの声が静かに続ける。
『精神状態も安定傾向です』
「やっぱり学校へ通わせて正解だった」
『しかし』
E.D.E.Nの声色がわずかに沈む。
『接触対象は依然として柊悠馬です』
「分かってる」
『心理的距離が縮まるほど、将来的な負荷も増大します』
蒼真は苦笑した。
「嬉しいのに、素直に喜びきれない」
『矛盾しています』
「人間はそういうものだよ」
『私も理解したいです』
「君も十分、人間らしくなった。ちょっと前まで、柊が俺に近づき過ぎるからって抹殺しようとしてたとは思えないよ」
穏やかな声だった。
E.D.E.Nは静かに満足そうな声を出す。
『………………今はそこまでしようとは思いません。蒼真のその評価は嬉しいです』
「……その長い間はなんだ」
蒼真は笑いながら端末を閉じた。
蓮には、もう少しだけ普通の学校生活を送らせてやりたい。
友達と笑って、放課後寄り道をして、何気ない毎日を積み重ねてほしい。
それは自分が手に入れられなかった、ごく当たり前の青春だった。
だからこそ守りたい。
その願いを胸へ抱きながらリビングを見渡すと、他の仕事を終えた柊が静かにネクタイを緩めていた。
「お疲れ」
蒼真が微笑む。
「蓮の護衛と迎えはちゃんと付いてる?」
「はい。信頼できる部下を付けました。悠馬と寄り道をしているようです」
「そうか」
心配よりも安心が勝ってしまう。
その様子を見つめていた柊は、ほんのわずかに口元を和らげた。
「あなたが笑っていると、安心します」
その一言は飾り気がなく、訓練場で見せる鋭さとはまるで別人のようだった。
蒼真は少し照れくさそうに視線を逸らす。
「そんな顔してた?」
「はい」
「お前には隠せないな」
柊は答えず、ただ蒼真に紅茶を淹れてやるためにキッチンへ向かう。
しばらくすると湯気を立てるカップが蒼真の前へ静かに置かれた。
「熱いうちにどうぞ」
「ありがとう」
「少し疲れているように見えました」
「分かる?」
「あなたのことはよく見ていますから」
穏やかな声だった。
蒼真は照れたように笑いながら湯気の立つ紅茶へ口をつける。
柊はその様子を静かに見守り、自分のカップを手に取った。
E.D.E.Nは二人を見比べ、小さく告げる。
『この時間を、私は失いたくありません』
夕暮れの光が大きな窓から差し込み、穏やかな温もりだけが部屋を静かに包んでいた。




