第60話 契約の余波
協定締結の翌日、王都の新聞は控えめな見出しを掲げた。
『帝国と三年協定締結』
『港湾主権は維持』
過度な称賛も、悲観もない。だが市場は正直だった。穀物価格はゆるやかに下がり、鉄材の出港も再開する。目に見える“安心”が戻ってきた。
王宮では、反応が割れていた。
――
軍議室。
「港湾監査を拒否したのは評価する」
ヴァルク将軍が言う。港湾図は、まだ卓に広げたままだった。
「だが二港への帝国商会常設は気に入らん」
「制限区域内だ」
レオンハルトが答える。
「軍港は含まれない」
「今はな」
ヴァルクは短く息を吐いた。含みではなく、経験からくる言い方だった。
「だが三年で準備は進める」
彼の目は、先を見ている。
「国内鉱山の再開発。備蓄強化。
依存比率を下げる」
アリシアが頷いた。
「三年は猶予」
「猶予で終わらせるな」
「終わらせない」
軍の懸念は消えていない。だが最悪は回避された。
――
民意調整局。
「価格が落ち着いたことで、不安は収まっています」
セレナが報告する。集計の紙は、昨日より薄くなっていた。数が減れば、束も軽くなる。
「帝国との協調を評価する声も多い」
「反発は」
「少数」
言い切ってから、セレナは少しだけ間を置いた。少数を数えるのが、彼女の仕事だった。
王都は、安堵している。戦争はなかった。パンは戻る。それで十分な者もいる。
セレナは、静かに言った。
「けれど“帝国の影”を気にする声もあります」
見えない不安は、値札のように下がってはくれない。
――
夜。レオンハルトは、一人で執務室にいた。机の上には、協定書の写しが置かれている。
「……これでよかったのか」
自問だった。完全拒否もできた。全面受諾もできた。だが選んだのは、中間だ。
扉が開き、アリシアが入ってくる。
「軍は」
「完全満足ではない」
「民は」
「落ち着いている」
短い報告だった。レオンハルトは、彼女を見る。
「お前はどう思う」
「均衡は保った」
「勝ったか」
「いいえ」
即答だった。勝ちという語を、彼女は最初から候補に入れていない。
「負けてもいない」
沈黙が落ちる。
「帝国は利益を確保した」
「王国は主権を守った」
「互角か」
「ええ」
互角という評価を、彼女が口にしたのは初めてだった。
レオンハルトは、わずかに笑った。
「初めてだな」
「何が」
「自分より上と戦った感覚」
アリシアは、目を細める。
「彼は強い」
「お前と同じ種類だ」
否定しない。否定するだけの根拠が、彼女にもなかった。
「合理は似ている」
「だが目的が違う」
レオンハルトは、静かに頷く。
「私は守る」
「彼は増やす」
その違いは大きい。守る側は、負けなければ勝ちだ。増やす側は、勝ち続けなければ負ける。
「三年後」
レオンハルトが言う。
「同じ交渉をすれば、負ける」
「ええ」
「ならば三年で変える」
その声に、迷いはない。王は、学んでいる。
――
帝国宿舎。
「受け入れました」
ユリアンが報告する。手にした写しは、王国側と一字も違わない。
「当然だ」
カイゼルは、淡々と答えた。
「港湾監査を拒否されたが」
「三年で十分」
彼は、窓の外を見る。
「王国は、伸びる」
「脅威になりますか」
「なり得る」
言葉を選ぶ間はなかった。とうに測り終えている。
だが今は違う。
「価値がある」
静かな評価だった。
「ヴァレンシュタインは、予想以上だ」
感情ではない。純粋な査定だった。
「次は、より高い均衡を」
帝国は退かない。王国も、退かなかった。理と理の交渉は、第一幕を終えた。だが余波は残る。三年。それは猶予であり、試練でもある。
――
王宮。執務室の灯りが落ちる。
廊下へ出たレオンハルトは、少し前を歩く背中に声をかけようとして、やめた。
かけたところで、返ってくる言葉は分かっている。
分かっていて、それでも呼びたくなる夜がある。
本話もお読みいただき、ありがとうございました。
「勝ったか」「いいえ。負けてもいない」
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