第56話 選択の重み
期限まで、あと三日。王宮の執務室には、いつもより灯りが多かった。書類が積み上がり、地図が広げられ、穀物流通の経路と鉄供給の比率が赤で書き込まれている。レオンハルトは、その前に立ったまま動かない。
「北方連合との緊急協定は」
「打診済み」
アリシアが答える。
「だが輸送は最低でも二週間遅れる」
「市場は持たない」
「持たせる」
即答だった。備蓄量の数字は、すでに彼女の頭の中にある。
「備蓄を放出する」
「底が見える」
「見せないように調整する」
言葉は冷静だ。だが、現実は厳しい。レオンハルトが振り返った。
「帝国案を受ければ、安定する」
「短期は」
「短期で十分だ」
その言葉で、部屋の空気が変わった。彼が“十分”という語を使ったのは、再編が始まってから初めてだった。
「民は今を生きている」
声に、わずかな熱が混じる。
「理想の自立より、明日のパンだ」
沈黙。アリシアは、静かに彼を見た。
「帝国の条件を受ければ、
五年は安定する」
「それでいい」
言い切ってから、彼自身がその速さに気づいた顔をした。
「五年後は?」
「その時に考える」
初めての衝突だった。理と理がぶつかるとき、声は大きくならない。ただ、返答までの間が短くなる。
「それは再編の否定よ」
アリシアの声は低い。
「再編は、先送りをやめるための決断だった」
「これは先送りではない」
「依存は積み上がる」
レオンハルトが、机に手を置いた。地図の端が、その下で皺になる。
「だが民は、今揺れている!」
声が強くなり、執務室に響いた。灯りの一つが、風もないのに揺れる。
「穀物価格が上がれば、
再編への信頼も揺らぐ」
彼の言葉は、王としての視点だった。誤ってはいない。
「私は、国を守る」
「私も守っている」
アリシアは、一歩も引かない。
「だが守り方が違う」
沈黙。互いに、目を逸らさない。
「帝国は合理的だ」
レオンハルトが言う。
「戦争を望んでいない」
「ええ」
「ならば共存できる」
彼は、自分でも気づかぬうちに一歩前へ出ていた。
「条件が対等なら」
「対等だ」
「いいえ」
即答だった。そこだけは、譲る気配がない。
「供給を握る側と握られる側は、対等ではない」
その一言が、重く落ちる。レオンハルトは、息を詰めた。
「……ではどうする」
「時間を買う」
答えは短い。だが彼女が“買う”と言うときは、値札まで見えている。
「どうやって」
「帝国の条件を、一部だけ受ける」
初めて、アリシアが譲歩を口にした。彼女が全否定をやめるときは、必ず代わりの図面がある。
「港湾監査は拒否」
「鉄と穀物の長期契約は三年に短縮」
「帝国商会の税優遇は限定区域のみ」
レオンハルトは、眉をひそめる。
「帝国が飲むか」
「飲ませる」
言い切った。根拠を先に出さないのが、彼女の癖だった。
「どうやって」
「彼は合理的」
静かな確信だった。相手を読むのではなく、相手の計算式を読んでいる。
「王国を完全に締め上げれば、
北方連合と結びつく可能性が高まる」
帝国にとって、それは利益減になる。締めすぎれば、獲物が別の卓へ移るだけだ。
「均衡点がある」
レオンハルトは、しばらく黙った。
「お前は、彼を理解している」
「ええ」
迷いのない返事だった。理解と好意は、彼女の中では別の棚にある。
「信じているのか」
「信じていない」
即答。
「計算している」
その言葉に、レオンハルトは苦く笑った。
「冷たいな」
「政治よ」
短い答えだった。だが彼は理解している。彼女は感情を切っているのではない。感情を、卓の外へ置いているだけだ。
「私は」
レオンハルトが、ゆっくりと言う。
「王になる」
三度目だった。言うたびに、声が低くなっている。
「ええ」
「ならば、短期と長期の両方を取る」
彼の目が、静かに定まった。
「帝国案は、そのままでは受けない」
アリシアの目が、わずかに細くなる。
「修正案を出す」
「主権は渡さない」
その声に、迷いはない。
「だが完全拒否もしない」
王の選択。白でも黒でもない。アリシアは、静かに頷いた。
「それが最善」
断定ではない。最善という語は、彼女にとって順位の話だ。
「保証はあるか」
「ない」
即答だった。保証という言葉を、彼女は一度も使ったことがない。
「だが、可能性は高い」
沈黙のあと、レオンハルトは小さく息を吐いた。
「お前と衝突する日が来るとはな」
「衝突ではない」
アリシアは、静かに言う。
「調整よ」
王と設計者。同じ方向を見ている。だが見ている距離が違う。それが今、はっきりした。
期限まで三日。
選択は、重い。
だが王は、選ばなければならない。




