続・夜霧の毒蛇と可憐な蝶 3/3
曜朝の最高級国賓館『翡翠宮』
そこは一国の威信をかけて築かれた、異国の大使や皇族のみを迎える、贅を尽くした平屋の宮殿建築群である。
室内には、前回同様に紫燕の質実剛健な好みを反映して、華美な装飾はすべて取り払われていた。
さらに曜朝が用意した華やかな香ではなく、黎国の高山に自生する針葉樹から採れる、どこか冷たく引き締まった松葉の香が静かに漂っていた。張り詰めた神経を象徴するような、鋭い香りだ。
深夜、古書を開いた。ページの間から、何の変哲もない一枚の白紙の栞が滑り落ちる。紫燕はそれを拾い上げ、じっと見つめた。ただの白紙だ。だが、昼間のパーティーで、彼女が紅茶をすするおっとりとした動作の合間に、ふと囁いた奇妙な言葉が脳裏に蘇る。
「あの本、少し湿気ておりますの。炭火の温もりでも与えて差し上げれば、先人の真意が浮かび上がりますわ」
「――なるほどな、偽り姫」
紫燕は小さく笑うと、机の上の蝋燭を引き寄せた。
炎のまたたきに、その白紙の栞をゆっくりとかざす。
じわじわと熱が伝わるにつれ、何もないはずの白地に、薄茶色の線がにじみ出てきた。薬草の汁で書かれた、精緻な数字の羅列。
紫燕は麗華から渡された古書を、蝋燭の炎にかざした。
ページの間から滑り出た極薄の紙に、特製の香料――炙ることで浮かび上がる見えない墨で記された膨大な数式と裏帳簿のデータが、浮かび上がっていく。
「……何ということだ」
それらを読み進めるにつれ、冷静沈着な紫燕の額から冷や汗が流れた。
朝廷の「不作」と「街道崩落」の嘘。
横流しされた最高級塩。そして何より、国境の混乱の中で起きた自国民の巻き込みと、保身のためにそれを「密売人討伐」と捏造していた痛ましい真相。
(武力で国境を締め付けても、恐怖と混乱が増すばかりだ。価格の歪みと腐敗した利権構造こそが、この悲劇を生んでいたのか……!)
麗華が導き出した「流通改革案」の計算式は、完璧だった。
塩の価格を暴落させずとも、適正価格まで引き下げて流通を自由化(緩和)すれば、特権商人たちの「偽の輸送費」と「横流し利益」は一瞬で消失する。過剰な武力弾圧や不正な手柄に頼る必要すらなくなり、腐敗した仕組みそのものが自然と瓦解していくのだ。
「見事すぎる……。あの令嬢、どれほど先を見通しているのだ。李公爵がおっしゃる天香閣の偽り姫とは彼女のことだ」
紫燕は感嘆の息を吐くと、即座に動いた。
彼は曜朝の朝廷へ「黎国としての通商提案」として、この改革案を提示した。
病床の麗華の父である宰相の派閥とも裏で連携し、一気に「官売塩価格の引き下げと流通自由化」を押し通したのである。
不正に私腹を肥やしていた特権商人や役人たちは利益を失って自然と退場し、国境での無意味な血と隠蔽の連鎖も断ち切られるた。
曜朝の国庫には適正な税収が入り、民は安価で良質な塩を手に入れ、両国に再び平穏が訪れた。
◇
数日後。
都の穏やかな庭園で開催されたお茶会。
和平と解決を祝う穏やかな空気の中、色とりどりの茶菓子を美味しそうにもぐもぐと頬張る麗華。
次の瞬間、彼女は「あ、お袖が……!」とおっとりした声を上げ、お茶の入った器を派手にひっくり返してしまう。
誰もが、その愛らしいドジに目を細めていた。
「お恥ずかしい限りですわ……」
麗華は困ったように眉を下げ、ハンカチで顔を隠すように俯いた。顔を上げたときには、彼女は自分のドジに涙目を浮かべる無害な令嬢をいつものように演じているのだった。
そこへ全て察したように紫燕は静かに歩み寄った。
「麗華殿。この度は両国の問題が速やかに解決し、何よりでした」
「まあ、陸紫燕様。本当に……お父様の胃の痛むのもすっかり治りまして、感謝しておりますわ」
ふんわりと微笑む麗華に、紫燕は懐から一枚の紙を取り出し、低く囁いた。
「ところで令嬢。あなたが以前、私に下さったお菓子の包み紙ですが……。裏側に、大変興味深い『国家の塩の適正価格と流通の計算式』が書かれておりましてね?」
紫燕の鋭い眼光が、彼女の真意を探ろうとじっと注がれる。
しかし、麗華は長い睫毛をゆったりと揺らすと、どこまでも無垢な、困ったような笑顔を浮かべて小首を傾げた。
「まあ? 陸様、おかしなことをおっしゃいますのね。私、甘いお菓子のことしか頭にございませんのに。……きっと、お父様が古い下書きの紙でお菓子を包んでしまわれたのですわ。お恥ずかしい……」
「……ふっ、なるほど。宰相閣下の下書き、でございますか」
完璧な「おっとり姫」の仮面を前に、紫燕は降伏したように苦笑し、深々と一礼した。
「相変わらず、一本取られましたな。……またお会いできる日を楽しみにしております」
◇
数日後の宰相邸。
昼下がりの柔らかい光が差し込む離れで、麗華は優雅な手つきで茶を啜っていた。お茶請けの甘い菓子をつまみ、満足そうに目を細める。
「陸紫燕様……相変わらず油断のならないお相手でしたわね」
あの鋭い眼光と化かし合いを思い出し、麗華の瞳が一瞬だけ、夜の密偵の光を放つ。
トントン
部屋の扉が気配もなく、小さく叩かれた。
麗華の影として従う部下が、音もなく部屋に入り、新たな命令書を机の上にそっと置く。そして影のように消えていった。
その新しい密書には、また別の場所、あるいは朝廷の闇で蠢く、新たな「世界の歪み」が記されているのだろう。
麗華はお茶を最後の一口までゆっくりと飲み干すと、その書類を滑らかな手つきで手に取った。
「手強いお相手でしたわね。……さて、次のお仕事は?」
と呟き、彼女はいつもの静かな令嬢の日常へと戻っていくのだった。




