第五章 6
「僕が救済者だからだ。あんたとは違ってね。救済者には、自分のことなんか考えちゃいけない時がある。どれだけのリスクがあろうとも、立ち向かわなきゃいけない時がある。それが今なんだ。命を捨てなきゃいけない時、迷わず捨てる。それができない奴に、人助けなんかできるもんか。僕は誰かを救うために生きて、そのために死ぬ」
「……そうですか。なるほど、よく理解できましたわ。えぇ、何もかも理解できました」
霧香の肩がわなわなと震え、血濡れの瞳に純粋な殺意が灯る。
「貴方を見ていて、わたくしはなぜだか憎悪にも似た感情を抱いていました。それがなぜなのか、ようやく理解できた。貴方は、間違っていた頃のわたくしと同じです。相手のことなど何も考えず、ただ助ければ良い、命を守れば良い、それしか考えていなかった、唾棄すべき思想の持ち主。もっとも許せない、過去の自分と全く同じッ!」
常に丁寧だった口調が、ここに至り初めて荒れる。
心情によって歪んだ美貌に相応しい語り方で、彼女は少年に告げる。
「貴方は確実に殺す。視界に一秒すら置いておきたくない。その存在を認めることすらしたくない。わたくしは今、救済ではなく純粋なる殺人衝動で、貴方を殺す」
殺害予告に、暗人は小馬鹿にしたように両手を広げ、挑発的に笑った。
「はっ、とうとう自分のことを殺人者だと認めちゃったよ、この人。もうどうしようもないな、あんたは。この出来損ないの負け犬め」
「勝手に抜かしてなさいなッ!」
掌を天へと突き上げる霧香。その刹那、暗黒に支配された大空から、大量の雷が降り注いだ。
紫電が放つ雷光が夜の闇を明るく照らす。まるでそこだけが真昼間になっているかのようだ。
間断なく伸びる稲妻。だが、それが対象物に当たることはなかった。
不思議なことが起こっている。
暗人は何もしていない。雷の方が、彼を避けるのだ。
直撃ルートを走る雷撃は、なぜだか少年に命中する直前に別方向へと逸れてしまう。
何がどうなっているのか、さっぱりわからない。ただ、一つだけ理解できていた。
これは、チャンスだ。
暗人は大地を蹴った。
敵の反応速度は極めて速い。ならば戦闘法は、攻防がスピーディーに展開するボクシングスタイルが適切か。
闘法をコンマ三秒で決定し、拳の射程へと入るべく走行速度をさらに速める暗人。
それを黙って許す霧香ではない。
彼女は己の前方に一〇体のヘルハウンドを召喚。迫る少年への襲撃命令を下す。
されど、無駄だった。
最初は勢いよく飛び出した魔犬の群れ。しかし暗人まで後一歩といったとことで、犬達は全て別方向へと走り去り、勝手に帰還してしまった。
「くぅッ! 何が起こってますの! 一体!」
取り乱す霧香。彼女が次に打った策は、接近する狂人からの逃亡であった。
先刻と同じく、後方へと跳ぶ。
そして着地の瞬間。
「私のことを忘れておりませんか?」
凛然とした声。それは空間に浸透する直前、風切り音によって斬り裂かれた。
振るわれる両刃剣。それを執るは、逢魔京香。
「ちぃっ!」
人間のそれとは思えぬ反応速度で、黒髪の美女は妹の斬撃を回避。そのまま彼女から距離をとった。
「暗人が時間を稼いでくれたおかげで、回復は完了しました。……ここからは二体一で参ります。卑怯だと言ってくださるな。貴女はこうでもしなければ討てませんゆえ」
さっきまでの重態が嘘だったかのように、力強く喋る京香。
傷どころかボロボロになっていた着物すら全快している。彼女レベルの魔術師になれば、たかが数秒の時間でダメージをなかったことにできるのだ。
それは霧香にも当てはまることだが、問題はない。
回復する時間など、与えてやるものか。
「……本当に、何から何まで想定外ですわ。特に京香、貴女の御友人は何者ですの? わたくしがこんなにも術を失敗することなど、絶対にありえない。それなのに、結果がこのザマ。何がどうなっているのか、貴女なら知っているでしょう?」
精神的ダメージを負っている様子の霧香に、黒髪の美少女はふっと笑って答えた。
「例えば、棍棒で相手を撲殺しようとしている者がいたとしましょう。そいつは対象を殺害する前に、見知らぬ人間に不意打ちを食らわされて死んだ。それも、対象を殺すための武器として選んだ、棍棒でね。今の貴女はまさにそれですよ。私からしてみれば、面白くてしょうがない」
「……貴女、この一〇年で意地が悪くなりましたわね。もっとわかりやすくおっしゃいな」
「ははは。簡単なことですよ、姉様。貴女はこの世界における一〇人目の魔法使いではなく、“一一人目”だった。それだけのことです」
「なら、まさか、一〇人目は……」
「そう――ここにいる、淀川暗人。こいつが世界で一〇人目の魔法使いですよ」
瞠目する霧香。しかし、それは少年とて同じだった。
そんな二人が可笑しかったのか、京香は笑いを噛み殺しながら続きを語る。
「暗人を初めて見た時、私はこいつがただの凡夫でないことを察知しました。それ以降、こいつを監視、研究対象としてその行動を逐一追った結果、このいかにも才覚なしの凡骨野郎が、魔法使いであると判明したのです」
固まったままの二人を交互に見ながら、黒髪の美少女はさらに語る。
「暗人の力は“周囲に不幸を撒き散らす”というものです。魔法の発動キーは感情の昂ぶり。特にマイナス感情が強まると、ほぼ確実に発動することが判明しています。貴女はこいつの力によって、行動の全てを妨害されたのですよ。……それにしても、本当に皮肉なものだ。私は個人的に、暗人の魔法を“害する者”と呼んでおりましてな。同じ名を持つ怪物を召喚しようとした貴女が、害する者によって倒される。運命の女神も、面白いことをしてくれるものです」
沈黙する霧香。
衝撃的な事実を知った暗人はというと、京香の方を向いて文句を吐きつけた。
「そんなこと、なんでもっと早くに教えてくれなかったのさ? もし教えてくれていたなら……」
「憎いあの野郎に地獄を見せてやれたのに、か? 貴様の考えることはクズの極みだな。このキング・オブ・クズめが。教えなかったのは聞かれていなかったからだ。そもそも貴様が真実を知ったところで意味はない。何せ貴様の魔法はアンコントローラブル。意図的に発動できるものではないし、不幸を与える人間が任意に選べるわけでもない。今回は周りに私と姉様しかいなかったがために、この結果となっただけのこと。……ちなみに、貴様の魔法は私もしっかりと味わったぞ。ついさっき腹立たしいぐらいなぁ。エリクサーを召喚したと思ったら即効性の下剤だった時の気持ちが貴様に理解できるか? この借りは必ず返してやるから覚えておけよ」
「助けに来た人間に言う台詞じゃないよね、それ。まったく、心配したり怒ったりした僕が馬鹿だったよ。謝罪と賠償を請求したい」
「借りは返してやると言っただろう? 喜べ、万倍返しだ。……しかし、それよりも前に」
「やるべきことをやらないとね」
言って、互いに敵を見据える。
「暗人がいる限り、貴女は絶対に勝てません。少し前に言ったことを繰り返しましょう。貴女には見落としがあった。暗人を眼中に入れなかったことが、貴女の敗因だ。……今際の際です、姉様。覚悟をお決めになられてください」
「いいえ、まだですわ。どのようなことがあろうとも、わたくしは諦めません」
「その気持ちが心を支えてくれたなら、そんなザマにならなかったのにね。馬鹿だよ、あんたは」
「……いちいち苛つかせますわねぇ、貴方はッ!」
霧香の激昂が、戦闘再開の合図となった。




