第五章 7
ほんの一瞬、暗人と京香は目と目を合わせる。意思の疎通は、それだけで十分だった。
再び、暗人が踏み込む。霧香が迎撃する。
黒髪の美女の前方、暗人の頭上、左右。少年から見れば全方位に、宙に浮く不気味な生命体が無数に現れた。
身をくねらせる長方形。その外観を例えるなら“剣の形をした魚”といったところか。
「行きなさい」
召喚者の号令に応じて、剣魚達が標的に殺到する。
猛スピードで飛来するそれら。しかし暗人の足は止まることがなかった。
四方八方から迫り来る異世界動物達に対し、少年はなんの対応もしない。ただただ走り抜けるのみ。
それだけで良かった。魔法が、またもや彼の身を守った。
目標の肉体に命中する寸前といったタイミングで、剣魚は次々と帰還していく。果たして、召喚された膨大な異世界動物達は、一匹たりとてその目的を果たすことができなかった。
そして、混沌の瞳を持つ狂人が、紅い瞳の狂人を射程圏内に捉える。
「シッ!」
右ストレート。体を前のめりにさせ、左足に全体重を乗せる。回転する腰が拳の直進速度を高めた。
が、これは外れ。さすがにただ打っただけでは、彼女に当たるわけもない。
小さなバックステップで、少年の打撃を躱す霧香。
完全に、読み通りだった。
右足で大地を蹴り、ステップイン。鋭く疾い踏み込みにより、霧香との距離は瞬く間に詰められた。
瞬間、左足に乗せた体重のパワーと、右ストレートによって生まれた反動を、左拳が爆発させる。
「フッ!」
左ボディーブロー。霧香の脇腹を、暗人の拳が深々とえぐった。
攻撃プランは、見事成功。
最初の右ストレートは捨石。霧香に後ろへ飛ばせるためのもの。本命は、ボディーだった。
「ぐぁっ……!」
目をカッと見開き、苦悶を漏らす霧香。
当然だ。いかに彼女といえども、耐久力という面を見れば女性のそれを逸脱するものではない。
しかも、暗人が放った左ボディアッパーは、タイミング、角度、パワー、スピード、体重移動全てがパーフェクト。例え相手が格闘家であっても悶絶するであろう。
ろくすっぽ鍛錬していない霧香が相手であれば、一〇秒以上の時間を奪うことなど容易い。
これでもはや、二人の霧香打倒プランは成功したも同然だった。
「今だ、京香!」
後ろへ思い切り下がりながら、叫ぶ暗人。
それに応えて、霧香の左方、五メートル先に陣取っていた京香が、術を発動させる。
「終わりです、姉様」
静かに紡がれた、決別宣告。
彼女の掌から、紅蓮の火柱が放射される。それは射線上にある全てを飲み込み、焼き尽くした。
木々も、草も、岩も、土も――狂った魔術師も。
炎が消え失せたあとには、何も残っていなかった。消し炭も、灰も、焼かれたものがこの世界に存在していたという証は、一つもない。
「終わった、ね」
京香に声をかける暗人。
彼女はさっきまで姉がいた場所を見つめながら、首を横に振る。
「いいや、まだまだ安心はできん。あの人がこうもあっさり死ぬわけがない。貴様とて覚えているだろう? 姉様は魔法使いで、その能力は転移。もしかすると、攻撃が命中する直前に別世界へと飛ばれたやもしれん。……一〇年前のあの日と同じようにな」
「となると、いつかまた戻ってくるかもしれないってことか。でも、別にいいじゃないか。その時はその時で、また倒せばいい」
「……そうだな。私一人ではできずとも、貴様とであれば可能だ。その時はまたよろしく頼むぞ」
素直な態度に、暗人は驚きを隠せなかった。
「君さ、本当に京香なの? 鬼龍院さんの時みたくあいつが化けてるんじゃないだろうね?」
「貴様、それはどういう意味だ」
「君が普通に僕を頼るなんておかしいでしょ。明日は槍が降るのかなぁ」
「……例えばだ。欲しい商品を取り寄せたとする。その際、依頼した店舗に礼を言って、また頼むと伝えるのは普通のことだ。それと同じで、先刻の言葉は利用宣言に過ぎん。貴様の三流頭脳でもわかりやすく言ってやるとだな、せいぜい利用してやるから喜んで働け、この疫病神が、と、そう言いたいのだ、私は」
「はいはい、それでこそ京香だよ」
やはり、こうでなければ彼女ではない。
口の悪い魔術師の毒舌に、暗人は小さく笑声をこぼすのであった。




