期待してしまう心
廊下に出てからも、しばらく無言が続いた。
ノクスの歩幅は一定で、速すぎることはない。
けれど、どこかいつもより張りつめた空気がある。
(……やっぱり少し、怒ってるかも)
さっきの中庭でのやり取りを思い出す。
あのときの声。
短くて、冷たくて。
でも――
(ちょっとだけ、強かった)
普段よりも、わずかに。
その違いが気になってしまう。
やがて、人気の少ない一角でノクスが足を止めた。
静かな場所。
他に人の気配はない。
「……リゼ」
「っ、はい」
名前を呼ばれて、反射的に背筋が伸びる。
振り返ったノクスの視線が、まっすぐに向けられる。
「先ほどの男だが」
「え……?」
思わず瞬きをする。
話題に出ると思っていなかった。
「不用意に応じるな」
低い声。
いつも通りのはずなのに、どこか硬い。
「……はい」
素直に頷く。
でも、それだけで終わると思っていたのに。
「名前を聞かれていただろう」
「え、あ……はい」
「答える必要はない」
きっぱりと言い切られる。
その言葉に、少しだけ戸惑う。
「でも……失礼に、ならないですか……?」
恐る恐る聞いてみる。
すると。
ほんの一瞬だけ、間があった。
「……構わない」
返ってきたのは短い言葉。
でも、そのあと。
「俺が許可していない」
ぽつりと続いた一言に――
心臓が強く跳ねた。
(え……)
一瞬、意味を理解できない。
許可。
それはまるで――
(……私のこと、管理してるみたいな)
そんな考えが浮かんで、顔が熱くなる。
でも。
嫌だとは思わなかった。
むしろ。
(どうして……)
少しだけ、安心してしまった。
「……リゼ」
再び名前を呼ばれる。
さっきよりも、少し低い声。
「不用意に他人と距離を詰めるな」
「っ……」
言葉が詰まる。
さっきの状況を思い出す。
確かに、距離は近かった。
でも。
「……私から、近づいたわけじゃ」
小さく言い返す。
すると。
「わかっている」
すぐに返ってきた。
否定ではない。
でも、それでも――
「それでもだ」
静かに、続けられる。
逃げ道を塞ぐように。
「お前は気づかない」
「え……?」
「無防備だ」
その言葉に、思わず息が止まる。
無防備。
そんなふうに言われたことは、今までなかった。
「……気をつけろ」
最後に、少しだけやわらいだ声で言われる。
それが、余計に胸に残る。
「……はい」
小さく頷く。
まだ少し、心臓が速い。
理由はわかっている。
さっきの言葉。
あの声音。
(……独り占め、みたいだった)
そんなことを思ってしまう自分に、戸惑う。
そのとき。
ふ、とノクスの手が動いた。
「っ……!」
驚いて目を見開く。
頬のすぐ近く。
彼の指が、そっと触れた。
「……ついている」
短く言って、何かを払う。
それだけ。
ただ、それだけの動作。
なのに。
(近い……!)
一瞬で距離が縮まる。
触れられた場所が、じんわりと熱い。
すぐに手は離れる。
何事もなかったかのように。
でも。
「行くぞ」
背を向けるその姿に、ほんの少しだけ違和感を覚える。
いつもと同じはずなのに。
(……さっきの)
あの触れ方。
あの距離。
そして――
言葉。
(……意識、してるのは私だけじゃない?)
ふと、そんな考えが浮かぶ。
確信はない。
でも。
もしそうだとしたら――
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
そのまま歩き出す背中を追いながら。
リゼは、初めて少しだけ――
期待してしまった。




