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花のない花嫁  作者: 秋月 もみじ


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第10話 花のある花嫁


その日、辺境の花畑は今までで一番たくさんの花が咲いていた。


王立薬草院の視察は、大成功だった。痩せた辺境の土地で実現した薬草園の品質と規模に、薬師長は目を丸くした。土壌改良の技術、促成栽培の精度、そして植物魔法と学術理論を組み合わせた新しい栽培体系。


「これほどの成果は、王立薬草園でも見たことがありません」


薬師長の言葉に、ルーカスが珍しく照れた顔をした。私は褒められると逃げ出す癖が出かけたが、今回はぐっと堪えた。逃げ場もなかったけれど。


視察の報告は王都に送られ、辺境ソルヴェイグ領の薬草園は正式に王立薬草供給網に組み込まれることが決まった。小さな温室から始まった事業が、国家規模の仕組みの一部になる。


ルーカスの論文も、学術院の査読者から高い評価を受けていた。掲載は来月号に決定。植物魔法の再評価が、始まろうとしている。


「庶民の魔法」と蔑まれていた力が、正当な学術的評価を受ける。いつか、この国で植物魔法を封印される人がいなくなるかもしれない。


それは私が三年間、手首の枯れ枝模様の下でぼんやりと望んでいたことだった。言葉にもできないほど小さな願い。



視察が終わった翌日の夕方、ルーカスが「少し歩かないか」と言った。


珍しい誘い方だった。いつもは温室か書斎にいる人なのに。


連れていかれたのは、荒野の花畑だった。暴走を制御する訓練で何度も花を咲かせた場所。今は定期的な魔力解放の場所になっていて、訪れるたびに花が増えている。


夕日を受けて、花畑が金色に染まっていた。紫、白、青、黄色。色とりどりの花が風に揺れている。辺境の灰色の大地に、ここだけが別の世界のように色づいている。


ルーカスは花畑の中を歩いていった。白衣ではなく、きちんとした上着を着ていた。髪もいつもより整っている。


花畑の真ん中で、立ち止まった。振り返った顔は、夕日で輪郭がぼやけている。


「イリス」


「論文の結語に、本当は書きたかったことがある」


「……結語?」


「あの日。君が種を見せてくれた日に、口が滑ったことを覚えているか」


忘れるわけがない。


「学名ではなく、好きだと言いたい花がある、と」


「覚えています」


「あれは論文の草案では、ない」


知っていた。


ルーカスは深く息を吸った。目が泳いでいる。こんなに動揺しているルーカスを見るのは初めてだった。暴走の時でさえ冷静だったこの人が。


「……えーと。まず前提として、花の学名というのはラテン語の二名法で構成されていて」


「ルーカス」


「属名が形態的特徴を示し、種小名が」


「ルーカス」


「……はい」


「普通に言って」


ルーカスは眼鏡を外した。レンズを拭く振りをして、実は手を動かしているだけだった。眼鏡のないその顔は、ひどく頼りなくて、でも優しかった。夕日に照らされて、普段は見えないそばかすが頬に浮いている。この人にそばかすがあることを、今初めて知った。


「……君の花を、学名ではなく好きだと言いたい」


言った。今度は止まらなかった。


「花だけじゃない。君が、好きだ。褒められると逃げ出すところも、枯れかけの苗に話しかけるところも、リリの前でだけ年相応の顔をするところも。温室の棚を君の背丈に合わせた時に自分の気持ちに気づいた。光の角度のためなんかじゃない。ずっと」


早口だった。学術発表より早い。


「ずっと、君のそばで花を見ていたい。研究者としてじゃなく。理論担当じゃなく。僕として」


風が吹いた。花弁が舞い上がって、二人の間を横切った。


目の奥が熱かった。鼻の付け根がきつく締まる感覚。我慢しようと思った。でもだめだった。


涙が出た。温かかった。公爵邸を出る時には堪えた涙。暴走の時にはこらえきれなかった涙。でも今日のこれは、どれとも違う。


「棚の高さ、気づいてましたよ」


「……は?」


「光の角度じゃないことも。薬草茶に毎回喉に良い薬草を入れてくれていたことも。ノートの余白に、私の花のスケッチを描いていたことも」


ルーカスの顔が、耳から首まで一気に赤くなった。スケッチは見られていないと思っていたのだろう。


「全部、知って……」


「全部、嬉しかったです」


ルーカスが口を開けて、閉じて、また開けた。学者の言葉が全部使い果たされたみたいに、何も出てこなかった。


だから私から言った。


「私も。咲き直せてよかった。ここに来て、ルーカスに会えて」


花畑の中で、ルーカスが笑った。不器用で、眼鏡なしで、目がうるんでいて。今まで見た中で一番素直な笑顔だった。



後日、伝え聞いた話がある。


アシュフォード公爵グレンが、領内に植物魔法師を正式に雇い入れる制度を創設したのだという。「庶民の魔法」と蔑まれていた植物魔法に、貴族の領地で正当な地位を与える初めての制度。


皮肉な話だ。私を追い出したことで初めて、あの人は植物魔法の価値を認めた。


セレーヌ様はグレン様との関係が冷え切り、公爵邸に出入りすることも少なくなったと聞いた。社交界での影響力も落ちているらしい。


グレン様に恨みはない、と言えば嘘になる。でも、もういい。あの人たちのことを考える時間は、もったいない。


それよりも。


温室の隅で、あの種が花を咲かせていた。公爵邸の庭から持ってきた、枯れたと思っていた種。鉢の中で、小さな白い花が一輪、静かに咲いている。


辺境の温室に、花がある。


「花のない花嫁」だった私は、今、「花のある花嫁」になろうとしている。


まだ正式な婚約はしていない。でもルーカスが昨日、三ページの手紙をくれた。内容の半分は論文の進捗報告で、残り半分は脚注だった。「追伸:花言葉辞典を購入した。実用目的ではなく個人的関心による」と書いてあった。


あの人なりの、精一杯の準備だ。不器用で、回りくどくて、脚注に本音を隠す人。でもそれがルーカスだ。


窓の外を見た。辺境の大地は相変わらず灰色だけれど、温室の周りだけは花が咲いている。リリが友達を連れて駆け回っている。マティアスが茶を淹れている。ルーカスが温室でノートに向かっている。


全部、私の場所だ。


指先に花を咲かせた。何でもない、小さな白い花。名前のない、ありふれた花。


でもこれは、私の花だ。


誰にも封じられない、私だけの花。


この辺境の空の下で、私は咲いている。ようやく。

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