嘘と真-1
GRは主人不在の屋敷の庭で四肢を投げ出していた。
いい天気だ。全身に降り注ぐ日光は柔らかなぬくもりで体を温めてくれる。鼻先に触れる草は春風に揺らされながら良い匂いを散らしている。いつもなら最高の昼寝日和だと、このまま気持ち良く惰眠をむさぼるところである。しかし、今日ばかりはそうもいかない。いきなり奴隷──ディレイスの言葉を気にするなら下僕と言うのが正しいのか?──にされたのだ。信用する弟に大丈夫だろうと言ってもらえたとはいえ、やはり慣れない現実は落ち着かない。そもそも、手伝いをしろと言っていたが実際には何をさせられるのだろう。
「あ~、ぜんぜんわかんねえー」
ごろりと寝返りをうってため息。ついでに大きな伸びをして、反動でやってきたあくびもこらえることなくおもいきりする。そうして落ち着いたところでGRは、室内から向けられる一対の視線に気がついた。頭を上げる。
「なんだよ」
「あっ」
声をかけるなり、開け放った窓辺でGRを見ていた少年、フェリスが慌てふためいた。ぱたぱたと見るからに意味のない動作をしたあとでカーテンの陰に隠れ、顔を半分だけ出してこちらを窺ってくる。
「う、と……ごめん、なさい……」
「なに謝ってンだ」
「えと、えと……じゃま、しちゃったかや……」
寝そべってごろごろするという行動をやめさせられたといえば確かに『邪魔』なのかもしれないが、理由があってやっていたわけではない。要は暇潰しになるなら何でもいいのだ。少年が声をかけてきたのだとしても不愉快に思うことはない。
GRは体も起こして伏せの体勢になった。フェリスを見て片耳を後ろに倒す。
「別に邪魔じゃねえよ。むしろお前のほうが邪魔だって思ったんじゃねえの?」
「なんで?」
フェリスが怯えを引っ込めて首を傾げた。カーテンの陰から出てくる。
「じゃまじゃないよ? どうして?」
「だってお前、さっきまで本読んでたろ。気が散るとかそういうのじゃねえのか?」
「あ……ううん、ちがうよっ。うと、おにいちゃんのことみちゃってたけど、でもじゃまじゃないよっ、ほんとだよっ」
両手を小さな拳にして、ずいぶん一生懸命否定してくれる。その様子があまりに可愛くて、GRはついつい吹き出した。尻尾を揺らす。
「わかったわかった。俺もお前のこと邪魔だと思ってねえし、お前も俺を邪魔だって思ってねえ。そんでいいな?」
「うんっ」
笑顔で頷いたフェリスに、GRは改めて耳を向けた。
「んで? 俺になんか用か? っと、その前にこっち来いよ。話しづれぇから」
するとフェリスが戸惑うように、怯えるように、顎を引いて上目づかいになった。
「がぶって、かまない?」
訊かれたその言葉に面食らう。
「はァ?」
「えっと、うっと、めいが……がぶってすゆかや、ちかくにいっちゃだめって」
「な……何吹き込んでやがンだ、あの女」
腹が立つやら呆れるやら。
だがともかく今はフェリスの誤解を解くほうが先だ。GRは鼻から息を吹いて胸を張った。
「噛むわけねえだろ」
「……ほんと?」
「ンなことする理由がねえじゃねーか。動物だって縄張りに入ってこられたとか、食うもん欲しいからとか、なんか理由がなけりゃ襲ってこねえだろ?」
フェリスはすぐに顔を輝かせた。後ろを振り返ってから──メイがいないことを確認したのだろう──庭に出た。駆け寄ってくる。
「わぁっ! やっぱぃ、おっきいねっ」
GRの正面に立ったフェリスは、同じ高さにある目をまっすぐに見て頬を染めた。
「あしゅも、せ、おおきいけど、おにいちゃんのほうがもっとおっきいねっ」
「そっか?」
「うんっ」
これでもかというほど強く肯定されてしまった。
それにしてもフェリスは本当に楽しそうだ。その目は、例えば王都に住んでいる仲のいい男の子たちに難易度の高い格闘術を見せてやったときや、高いところにある物が取れなくて困っている人の代わりに取ってやったときの反応にとてもよく似ている。
尊敬と憧れ。輝く眼差しをまっすぐに向けることを心から良しとしている目だ。そこに嫌悪や戸惑いはいっさいない。
──なんだか腰の辺りがむずむずしてきた。その場で後ろ足を動かして座り直すとGRは、少年の秋晴れの空を思わせる真っ青な目を覗き込む。
「お前、フェリスっつったよな」
「うんっ」
「俺のこと呼ぶのな、『お兄ちゃん』じゃなくて名前でいいぞ」
「なまえ? あっ、じーゆだよねっ」
即そちらの名が出てきたことに、いくばくかの疲労を感じてしまった。しかし、この舌足らずな少年には『ガルシア』より『GR』のほうが言いやすいのは間違いなさそうだ。どうせアッシュローズも前言撤回する気はないだろうし、この辺の理由を口実にあきらめるのもいいかもしれない。
ため息ひとつ、GRは訂正した。
「ジール」
「じーゆ?」
「ジーユじゃなくて、ジ・ー・ル」
「じ・ー・ゆっ」
「だからユじゃねえっ、ル!」
「う~……、じーゆ。……うぅ」
「………………。わざとじゃねえよな? わざとだったら殴ンぞ? 噛むぞ?」
「ううぅぅ~」
どうやら『GR』でさえまともに呼べないらしい。この調子では、『ガルシア』と呼ばせようとしたら原形をとどめていない発音をされる確率大である。あきらめてもいいではなく、あきらめざるをえないようだ。
「わかったわかった。お前は『GR』って呼んでるつもりで、でもちゃんと言えねえだけなんだな? だったらいーよ、それで。でも、ちったぁ練習しろよな」
「……うん。がんばゆ」
フェリスは目尻ににじんだ涙を両手でこすった。興奮のせいでなく赤くなった頬で、けれど先ほどと変わらない笑顔を浮かべる。思っていたよりは根性があるらしい。
気に入る部分を見つけた嬉しさで、GRは笑顔を返した。
「おぉ、頑張れ」
そうしたら、フェリスはまたさらに嬉しそうに微笑みを強くした。
「えへへ……じーゆ、やさしいねっ」
「…………は?」
この子供も、どういう思考回路をしているのか微妙にわからない。
少しばかりの脂汗を垂らしながら、けれどアッシュローズよりはよっぽどわかりやすい少年に対して耳を寝かせる。
「そりゃどーも」
するとフェリスは、額面通り礼を言われたと取って、さらに目を細めた。
「あしゅもやさしいけど、じーゆもやさしいね」
が、そこではたと止まって、首を傾げた。
「ん~、でも、ちょっとちがう『やさしい』かなぁ」
「……違う?」
言葉に宿る不思議な響きに心を引かれて右耳だけ前に向けると、フェリスが視線をGRに戻して大きく頷いた。
「んと、あしゅの『やさしい』は、ぎゅうってだっこして、なでなでしてくぇたみたいなの。ほっ、てしてね、ふわふわなの。でも、じーゆはふわふわじゃないね。じーゆの『やさしい』は、んと、んと…………あっ、おひさまみたい!」
「わけわかんねえ」
即答で切り返したら、フェリスが眉を吊り上げて拳を握った。怒ったのではなく、いわゆる必死な形相という類の表情だ。
「だかやっ、えっと……おひさまぴかぴかしてたや、うぇしいのっ。いっぱいあそびたくって、そえで、わくわくってなゆのっ」
要約すると、天気のいい日は気分がいいということだろうか。
そう言われてみると確かに、陽が照っている日は落ち込むことがほとんどない。明るい日差しに誘われているようで、室内で勉強する気が吹き飛んでいたものだ。なるほど、納得できる。
そんな同意の気配を察したか、フェリスが笑顔をめいっぱい輝かせる。
「じーゆの『やさしい』は、おひさまみたいっ。あったかくって、げんきになゆ『やさしい』なのっ」
「………………」
「あしゅはおつきさまねっ。まっくやでこわいこわいってなゆの、えいってやっつけてくぇゆから。きやきやしてて、きぇいだし……えへへ」
「………………あー……」
背筋がもぞもぞして口内がざらざらするのは気のせいだろうか。草を薙ぐように尻尾を左右に振って居心地の悪さをごまかしてみるがどうにもおさまりきらず、GRは口を歪めた。
「褒めてくれンのは嬉しいけどよォ。なんつーか、むずがゆいぞ。ンなこと真顔で言っててこっ恥ずかしくねえ?」
返ってきたのは、まさに真顔。
「どうして?」
恥ずかしくないらしい。むしろなぜこんなふうに思うのかが理解できないらしい。
「……いや、いい」
返す言葉が見つからず、GRは地面に突っ伏した。