1.
いまにも触れそうに近づいた、黒い瞳が儚げに揺らめいたことを覚えている。もしかしたら揺れていたのは自分なのかもしれない、とサリュは思う。
微笑んでしまうのはしょうがなかった。いまさら気づいたところで、もうどうしようもないのだ。
愛も憎しみも喜びも悲しみも、この身をとりまくすべてを連れて、ひとりきりでゆこうとしているのはサリュのほうなのだから。
はなから諳んじることになるとわかっていたみたいに、滑らかにくちびるから放たれたスペルがみるみる空間を支配してゆく。手首の痣から生まれでた光がさかんに花ひらき、澱を封じ込めてゆく。
みずからをも取りこもうとする眩さには、そっと力を抜いて身をゆだねた。
呼び声が聞こえた気がして振りかえると、許さないとでも言いたげなきつい眼差しとぶつかってほほえみが落ちる。
――ゆるさなくていい。
あなただけはゆるさなくていいから。
だからどうか、幸せに。
声ははたして、届いたのだろうか。
…
ふ、と目をひらくと、窓向こうにみずいろの青空が広がっているのがみえた。
たなびく雲の動きもにぶく、ぼんやりとした瞳には淡い色合いがひたすらにやさしい。いくらか遅れて鼻先をくすぐった、甘い花の香りにはおのずと笑みが浮かんだ。春めいたここちがする。
ここはどこだろう。
木目調に統一された部屋は清潔で、澄んだ空気に満ちている。
質素なつくりではあるけれど、棚上に飾られた花々はみずみずしいし、毛布の肌触りは柔らかだ。すみずみまで心配りが行き届いていることが一目でわかった。
目でひとつひとつを追って確かめていたら、扉付近でどさっとなにかが床に落ちる音がした。
「サリュさま!」
床にひろがったタオルケットやシーツには目もくれず、そう叫んだきりかたまってしまった少女を、サリュは見上げた。
そばかすのかわいらしい赤毛の彼女――アニーのふだん通りといって差しつかえないおっちょこちょいな姿には、ますます笑みがこぼれてしまう。
あいかわらずね、と微笑みかけようとして言葉が出てこず、サリュはきょとんとした。
そうこうしている間にも、ばたばたとにぎやかな足音が近づいてくる。
「アニー、今の音!」
「サリュさまなの!? サリュさまなのね!? 目を覚まされたのね!」
「ちょちょちょちょっと、押さないで!」
旅に出るまえに教区で世話をしてくれていた面々が一気に押し寄せてきてあわただしい。
落ち着いて、と言おうとしてからだを起こそうとすると、射貫くような視線と目があってぎくりとした。
――ヒイラギ。
声に出そうとするけれど、やっぱり言葉にならない。
「サリュ」
たったひとことでその場を完全に支配してしまった彼は、群がる皆のすきまを縫い、サリュの横たわるベッドのかたわらに立った。
黒髪に黒い瞳。男性にしては細身がちな体躯ではあるけれど、その身にまとう尋常ではない威圧感が人を簡単には寄せつけない。
自分の知っているそれよりも鋭さが増した気がして、サリュは困惑ぎみにくちびるを開いた。
言葉を発しようとしたら、ひややかに細まったまなざしに捕らえられた。とたん、くらりと意識が遠のくのを感じた。
「まだ寝てていい」
いっさいの温もりを削ぎおとしたような声色なのに、やさしいと感じたのはなぜだろう。
魔法を使われたということは感覚でわかった。わかっているのに抗いきれず、サリュはふたたびやわらかな暗闇に落ちた。




