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王都エスメラルダを離れてから数刻。

突如停車した馬車に、ベラドンナは驚いていた。何やら外が騒がしい。もしや野盗か。もしくは王太子が放った暗殺者の襲撃か。自慢ではないが、修道院送りどころでは納得されないであろう程度には疎ましく思われていた自信がある。あの王太子は、自分よりも優秀な婚約者、すなわちベラドンナのことを、かねてからつくづく憎々しく思っていたに違いなかったからだ。

まあよろしくてよ、と、ベラドンナは背もたれに身を預けてうっそりと笑った。

ここで命を落としても悔いはなかった。そう、後悔はない。誰よりも心優しいリーリエは、ベラドンナが死んだことを知ればきっと悲しんでくれるだろうけれど、彼女を慕う男達はきっとうまく隠し通してくれることだろう。それくらいには優秀であるとは認めている。

頭の中のお花畑具合を考えるに、このグリュンベルデ国の未来が若干心配にならなくもないが、これから死ぬか、もしくは修道院送りになるだけのベラドンナには関係ない。

勝手にすればよろしいわ、と、ベラドンナは肩から力を抜いた。馬車の扉が開け放たれたのはその時だった。

そちらを見遣れば、下卑た笑みを浮かべた小汚い男が、その手にナイフを持って、こちらをにやにやと見つめ――いいや、値踏みしている。

なるほど、王太子の子飼いにあるまじき下賤な輩だ。となればやはりただの野盗だろうか。ちらりと男の背後を見遣ると、この馬車を護送していたはずの騎士や兵士、御者までもがちりぢりに逃げ去っている。

あらあらまあまあ、とベラドンナは感心する。

もしやこの野盗、王太子の手の者か。子飼いに手を出させるまでもなく、ベラドンナの尊厳を最悪な形で踏みにじろうと画策したと見た。

あらあらまあまあ、まさかそこまで憎まれていたとは、なんてご苦労様なことかしら。これだから殿方は短絡的なくせに面倒くさくて好きになれないわ、と、ベラドンナは、馬車の長椅子に押し倒されながらぼんやりと思った。

ベラドンナの上にのしかかってくる男は、舌なめずりをしながら、「抵抗すんじゃねぇぞ」なんて言ってくれる。言われなくても今更抵抗なんてするはずがない。もうどうでもよかったのだから。ベラドンナの心にあるのは、美しい百合の花、ただ一輪だけ。

その真白い輝きだけを脳裏に焼き付けて、ベラドンナは目を閉じる。

身にまとっていた粗末なドレスが引き裂かれる。

ここで舌を噛み切ってやることだってできたけれど、そんな気力すら、もう、今のベラドンナには――――……。


「――――――――――ベル!!」

「え?」


その声は。その呼び名は。

いつまで経ってもアウグストゥス様としか呼んでくれないあの百合のひとに、「ベラドンナと呼んでちょうだい。じゃなきゃ返事してあげないんだから」とわがままを言ったら、彼女は顔を真っ赤にして「じゃ、あ、ベル、とか」とおずおずと、提案してくれた。

たった一つ、ただ一人に許したその愛称。それは。


「……リーリエ?」


ベラドンナの、美しい百合のひと。

おそるおそるベラドンナは紫電の瞳を開いた。その瞳は、そのまま大きく見開かれる。

自分にのしかかる男の向こうの、白をまとうその存在。

金翠の瞳と目が合った。と思ったら、次の瞬間には、ベラドンナの上から男が消えた。そう、消えたのだ。とんでもない力で男が馬車から引きずり出されたのだとベラドンナが気付いた時には、もう遅かった。

押し倒されていた身体を起こして、引き裂かれたドレスを寄せ集めながら馬車の外に出る。

そこで目にした光景に、ベラドンナは言葉を失った。


「…………」


言葉を失うより他はなかった。

ベラドンナを襲った男が、殴られている。それはもうボコボコに殴られている。悲鳴を上げるどころか、息をつく暇もないようだ。

一目で上質なものと知れる白い礼服を身にまとった存在に馬乗りになられた男の声は、もう聞こえない。それでもなお、その白い存在は、男のことを殴り続けている。無言で。繰り返そう。無言でである。さすがのベラドンナも顔が引きつった。普通に怖い。

だがしかし、そのままでいられるはずもなかった。殴られている男のことなど心の底からどうでもよかったが、殴っている存在が、他ならぬ彼女だったから。

だからベラドンナは、気付けば彼女の元に走り寄り、その身体に後ろから抱き着いていた。


「リーリエ、リーリエ。もういいの、いいのよ。あたくしは大丈夫だから」


リーリエ。リーリエ・ジェロニーではなく、本来の名はリーリエ・ジェロニア・グリュンベルデスであるのだという彼女の名前を幾度となく繰り返す。

ぴたりと身体を押し付けると、びくりとリーリエの身体が震えた。ようやくその拳が下ろされる。両手はともに、男の汚らしい血にまみれていた。既に意識のない男を蹴りつけるようにリーリエの下から追い出して、ベラドンナは、そうしてようやくリーリエとともに立ち上がり、改めて彼女と向き合った。

久々に目にする彼女の顔は、記憶と寸分たがわず美しい。彼女は凛と背を伸ばしていて、見下ろされているのがなんだかこそばゆい。そんな場合でもないと言うのに。

おずおずとベラドンナがリーリエを見上げると、彼女はそれまでの無表情から一転して顔を真っ赤にして、羽織っていた真白いマントをベラドンナの肩にかけてくれた。

そういえば、と、自らの格好を思い出したベラドンナは、ありがたくそのマントを借り受けた。


「ありがとう、リーリエ」

「……ベル」

「ええ」

「ベル」

「なぁに?」

「ああ、ああ、ベル、ベル……よかった、また、会えた」


今にも泣き出しそうな声だった。

リーリエの声は、こんなにも低かっただろうか。なんだか記憶にある声よりも随分と低い気がする。

けれどベラドンナはいつまでもその件について考えてはいられなかった。リーリエが、ベラドンナを包むマントごと、ベラドンナのことを抱き締めてきたからだ。

細くありながらもベラドンナよりもずっと力強い腕。どんな抵抗もやすやすと封じ込めてしまう腕だ。

鼻をくすぐる、ベラドンナにとってはどんな花の香よりもかぐわしい、甘い焼き菓子の匂い。

ただの砂糖と小麦粉の匂いだと彼女は笑っていたけれど、その匂いがベラドンナは何よりも好きだった。


「り、りえ」

「はい、ベル」

「リーリエ?」

「はい。私です」


そう、リーリエだ。入念に手入れを施されて灰がかった白髪から白銀へと生まれ変わった髪と、綺麗に整えられた前髪のおかげであらわになった金翠の瞳。嬉しそうに、照れくさそうに笑いかけてくれるその笑顔。

何故ここにいるのか。どうして。今更ながら、疑問はいくらでも湧いてくる。

けれど、ここにいるのは、どれもこれも間違いなく、疑いようなく、確かにこの人物はリーリエなのだ。

ベラドンナの、美しい百合のひと。

それなのに。


「あの、リーリエ」

「なんでしょうか」

「あなた……どうして胸がないの?」


そう。ベラドンナを抱き締めてくるリーリエ。ベラドンナが自然と顔を押し付ける形になる彼女の胸。そこにはベラドンナの知る限り、ささやかながらも確かにふっくらとしたやわらかなふくらみがあったはずだというのに、なぜか今はたいらだ。まったいらだ。

何故ここにリーリエがいるのか、王宮で暮らしているはずではなかったのかなどと他にも聞くことは山ほどあるはずなのに、一番に出てきた質問はそれだった。

胸がない。ベラドンナが愛したやわやわふかふかのおっぱいがないのである。

神妙な顔になってぺたぺたと胸をさわってくるベラドンナに、リーリエは気まずそうに苦笑して、そしてそのベラドンナの手を取った。ベラドンナの手よりも大きくて骨ばった手だ。


「どうしても何も……その、男なので」

「……誰が?」

「私が」

「…………は?」


らしくもなく。本当に、らしくもなく。もしかしたら生まれて初めてかもしれないような表情を、ベラドンナは浮かべた。その冷たい美貌にふさわしからぬ、ぽかんと口を開けた間抜け面に、リーリエは苦笑を満面の笑みへと変えた。

改めてよく見てみると、彼女の格好は、姫君にあるまじき貴族の子息の礼服であり、ついでにその長い髪もきりりと凛々しく一つにうなじでまとめられている。確かにそのことを認識していたはずなのに、これまた今更ながらそれがどうにもこうにも不思議で――――けれどそんなリーリエも素敵で、またベラドンナはキュンキュンするのだが、それはそれとして先程の彼女――彼女? の発言はどういうことだ。

男? 誰が? リーリエが?

呆然とするベラドンナと向かい合い、リーリエは足元の男をひとまずとばかりに蹴り飛ばした。すさまじい蹴りだった。男が毬のようにゴロンゴロンと転がっていく。あらあらまあまあ、人間でもあんな風に転がれるものなのね、なんてベラドンナが感心するそばから、改めてリーリエであるはずの、女性ではなく男性は、その薄桃の唇を開いた。


「私の名前は、リーリオン・ジェロニア・グリュンベルデス。王位継承問題を避けるため、市井にてリーリエ・ジェロニーという娘として育てられましたが、本当に、私は、男なんです」

「は……」


うそでしょう。冗談でしょう。

そう言おうとしたベラドンナの紅い唇を、リーリエ……いいや、リーリオンの指が、そっと押さえることで封じた。

自然と口を紡ぐ形になるベラドンナは、彼の台詞を懸命に噛み砕く。

王位継承問題を避けるために女として育てられたと、彼は確かにそういった。なるほど、生まれた時より権力者として育てられたベラドンナには理解しがたいが、そういう考え方もあるのだろう。

リーリエ、もといリーリオンの母君であるリリス殿下は王族として生まれながら身体が弱く、控えめな性格でいらっしゃったというし、その護衛騎士ももとを正せば生まれは平民である。そんな二人の間に生まれたならば、女として市井で暮らす選択もなくはないのだろう。だがしかし。


「だ、だったら、どうして学園に……!」


身元がバレる可能性が高くなる学園に、どうして特待生という枠を勝ち取ってまで入学したのか。

リーリオンの手を振り払って声を震わせるベラドンナに、手を振り払われたにもかかわらず、なぜか彼は顔を赤らめた。その表情は、この一年、ベラドンナが恋し、愛し続けてきたなによりも大切な百合のひとのものだ。

ああ、やっぱりすき。あいしてる。男なんて好きではない、好きになれるはずがないと思っていたはずなのに、その男であるというリーリオンに対し、リーリエに対するものとまったく同じ思いが湧きあふれて止まらない。

そんな場合では百も承知だ。だというのに、すきなのだと、あいしているのだと、そう、当たり前のように思ってしまう。


「――ベル。あなたに会いたくて」

「え?」

「十年前、孤児院に、アウグストゥス家代表として慰問にいらした貴女は、いじめられていた私を助けてくれました。覚えていらっしゃいますか?」

「え、ええと……」


幼少期より公務として各地に訪問していた身だ。覚えているか、と言われて、思い出すことなど……と、そこまで思ってから、ふと脳裏によぎった面影にベラドンナは息を飲んだ。

あ、と、口を押える。

そう、十年前だ。王都エスメラルダの片隅の小さな孤児院に、ベラドンナは訪れた。

そこで見つけたのは、ぼさぼさの灰がかった白髪のやせっぽちの女の子。やんちゃざかりの坊主達によってたかって暴行を受けていたところに飛び込んだことがある。

基本的に自分で自分の身を守れないような弱い存在など淘汰されて当然だと思っているし、そもそも興味もないが、それでもまあ小鳥さんに手を上げるジャガイモどもなど万死に値する。

普通に腹立たしかったから参戦した。もちろん一対多数で若干てこずり、それなりに手傷を負わされたが、文字通り坊主どもを叩きのめしてやった。

あの時、あの女の子は。


「そう、いえば。『貴女みたいになりたい』なんて、随分不遜なことを言ってくれた子ネズミさんがいたわね」


泣きじゃくりながら、自らのハンカチでベラドンナの顔を拭いつつ、そう言ってくれた女の子。あの時、なんだか自分がとても誇らしいもののように思えた。

けれどその後で教育係達に大目玉を食らう羽目になり、孤児院の職員達からは土下座せんばかりに謝罪され、それどころではなくなってしまったけれど。

もしかしてあの子が、と、ベラドンナが視線で問いかけると、白銀の髪の青年は、金翠の瞳をなつかしそうに細めて頷いた。


「あの時、誓いを立てました」

「……『ベラドンナ・タワナアンナ・アウグストゥスみたいになる』と?」

「いいえ」

「あら」


違うのか。不思議と残念に思った。そもそも自分は、リーリエ、ではなくリーリオンに騙されていたことを怒ってもいいのではないだろうか。いやだがしかし、その前に彼に自分がしたことを思えば、むしろ彼こそが怒り、自分のことを赦すべきではないと言うべきか。

となると、今更ながらに彼に嫌われることが怖くなってきた。ああ、またあの恐怖を味わう羽目になるなんて。

そうだ、もしかしたら彼は、彼こそが、ベラドンナの命を奪いに来たのかもしれない。

だとしたらそれは、とても幸福なことだ。

最期の瞬間まで、目の前で咲き誇る百合を見つめることができるなんて、なんてしあわせなことだろう。きっとベラドンナは、瞬きすら惜しんで、そのかんばせを、と、そこまで思った時、ふいにリーリオンの白い手が、ベラドンナの頬にあてがわれた。

どきりと跳ねる胸に肩を強張らせるベラドンナに、リーリオンは、誰もが見惚れるに違いない、誰よりも美しい笑みを浮かべてみせた。


「『ベラドンナ・タワナアンナ・アウグストゥスを守れる男になる』と。そう誓いました」

「……!」

「貴女に会いたくて、学園への入学を決めました。どう近付こうかと画策していたところ、ちょうど貴女がまた助けてくださった。それからは知っての通りです」

「……待ってちょうだい。それじゃあなた、まるで」


まるで、ベラドンナが何を思い、誰を想って、何をしたのかを、知っているかのような口ぶりではないか。

今度こそ言葉を失い、彼の顔を呆然と見上げる。

ベラドンナの美しい百合のひとは、百合のように美しく微笑んだ。


「愛しています、私の美しい毒の花。これからは私のためだけに、咲き誇ってくださいね。もうアウグストゥス侯爵令嬢ではない貴女なら、王族である私の好きにできるでしょう?」


その美しい微笑みに、ベラドンナの背筋を、ぞくりと何かが駆け抜けていく。それは恐怖だろうか。それとも歓喜だろうか。解らない。解らないけれど、なんだかとんでもないことを言われていることだけは解る。


「っあたくしも愛していてよ、けれどそれとこれとは話が別ではなくて!?」

「大丈夫大丈夫、愛があるので」

「このおばかさん! あたくし、おばかさんは……っ」

「私が嫌いですか?」

「だから愛しているって言っているでしょう、もう、この、この、ばか!!」


たまらなくなってベラドンナは、リーリオンの胸に飛び込んだ。甘い甘い、しあわせの匂いがするその胸に。ベラドンナの華奢な身体を難なく受け止めて抱き締めたリーリオンは、声を上げて笑う。その笑い声の、なんて幸福そうなこと!


そうして、百合もまた毒を秘めた花であることを、ベラドンナは今後、身をもって思い知らされることになるのだが、それはまた別の話だ。

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